言語によるコミュニケーションと相互の信頼について
誤解、つまりは言葉の意味を取り違えてしまう事は、言語を用いる限り避けようのない事象である。コミュニケーションとは相互の信頼がなければ成り立たないものなのだ。140字でコミュニケーションを取らねばならないTwitterでは、言葉の揚げ足取りが苛烈を極め、レスバではいかに相手のミスを誘うかという戦法が主流になっている。
限られた文字数の中で自分の意思を正しく言葉にしなければならない、ラップバトルでいうところのパンチラインを繰り出す事ができねば議論で優位を取ることができない現状を私は危惧している。
言語はモンキーレンチなのだ。
22mmのボルトを回さねばならない時に22mmのメガネがあれば文句はないが、急を要する場合手元にモンキーがあるのならばモンキーで回してしまえば良い場面は往々にして存在する。もし22ミリではなく7/8インチであった場合もモンキーレンチが22mmメガネレンチを上回る適正工具になりうる場面もある。言語とは曖昧なのだ、そして曖昧とは万能の証でもあるのだ。
言語の曖昧さを説明する時、私がよく例に挙げる文がある。
それは「うんこがしたい」である。
「うんこがしたい」と言われた時あなたはどのようにしてこの言葉を受け取るだろうか。
「うんこがしたい」という文で予測される発言者の状態は
・うんこがしたい状態
・うんこしたくない状態
と大きく二分される。
何を言っているのだという声が聞こえるが、その意見はもっともである。前者はともかく「うんこがしたい」と言っているのであれば「うんこをしたくない」というのは裏表であり両極である、共存する事ができない概念なのではないか。第一次成長期を迎えるイヤイヤ期のクソガキでもない限り「うんこがしたい」と言った手前、トイレで「うんこしたくない」と駄々をこねることは許されざる行為である。もし、かの駿河大納言の御前であれば晒し首であるに違いない。
しかし私が言いたいことはそのような横暴ではない、今から二つの例について解説をしていこうと思う。
この時、鍵になる部分は"うんこが出そうか否か"である。
詳しい解説の前にまず想像して欲しい、下痢の貴方は今満員電車にいる。急行列車に乗り合わせてしまった貴方は目的地まで途中下車は許されない、各停に乗っておけばと後悔している最中である。
次の駅まではおよそ20分。首筋を伝う汗が服の襟に染み込み嫌に冷たく感じ、赤の他人と触れ合う肩の熱さが強調される。レールの接合部分の段差を車輪が拾い、揺れる床は硬く、振動はそのまま体へと伝わり、膝の関節が噛み合わぬような違和感は空間が大きく波打つような不快感となり、胃腸を絞り、みぞおちが痛み、眉間に針を突きつけられたような嫌でも意識せざるを得ないむず痒さを感じている。
今貴方は「うんこがしたい状態」だろうか。
したいというのならば聞き方が悪かった
貴方は今"その場で"下痢便をパンツの中にぶちまけたいだろうか。
貴方が密室満員電車うんこテロリストでもない限り、この状況は「うんこしたくない状態」に分類されるのではないか。
そう、この状況を正しく言葉で誤解なく表すのならば「トイレに行きたい」というべきなのだ。しかし下痢の貴方は緊急事態だ「トイレに行きたい」という22mmレンチを誰しもが手元にすぐ用意できるわけではない、有り合わせの「うんこがしたい」というモンキーレンチを使い自身の状態を説明したわけだ。
もう一つのうんこが出そうではない「うんこがしたい」はもっとシンプルである。便秘の貴方はうんこの気配がないのに今日も便器に座り息むだろう。そして貴方は尿だけを出し、取り敢えず紙で肛門を拭き、出もしないうんこに思いを馳せ、水を流しながら「うんこがしたい」とぼやくのだ。
前者とは全く逆のシチュエーションでありながらも「うんこがしたい」という言葉は自然にマッチする。
(比較的少数の密室満員電車うんこテロリストの君も満員電車の中で上手く任務を遂行できるかという緊張があるはずだ、これもまた後者寄りの状態にあると言えるだろう。)
「うんこがしたい」その言葉が意味するものが決して一つではない。うんこが出そうな状態にあるのかうんこが出そうにない状態にあるのか、前者は我慢の限界のため、後者は健康のためであるにも関わらず、奇しくも同じ「うんこがしたい」が出力されるのだ。
この「うんこがしたい」という言葉は、生物の生理現象である脳の指示をそのまま出力したものという点は両者ともに変わりはない、しかしその指示を遂行するためのアプローチには差が生じるのだ。
満員電車で「うんこがしたい」と(うんこではなく言葉を)漏らした隣人にうんこが出るようにお腹をマッサージするわけにはいかない。
つまり我々はコミュニケーションの手段に言語というものを用いているのならば、多くが語る伝える力以上に相手の意図を汲み取る力が必要になってくる。
少し話が逸れるが本筋に準ずる面白い話がある。
内容は留学生の外国語習得率についてである。
人生で留学という選択肢を考えずとも、皆一度は「留学したからと言い外国語が話せるようになる訳ではない」という話を聞いた事があるのではないだろうか。これを本人の努力次第という話で終わらせてしまうのはつまらない、これにはもう一つ興味深い原因があるのだ。それは、留学先の学校の偏差値にある。
我々はつい言語の習得率と本人の能力の高さは相関して向上するものであるという勘違いをしてしまう、それも一概に間違いと断言する事はできないが言語の習得には本人の能力以上に他言語を用いる機会の多さ、つまりはどれほど必要に迫られたかの方が重要である。
この必要に迫られたという部分において留学先の学校の偏差値は大きく関わってくる、結論から言ってしまえば留学先の偏差値が高ければ高いほど留学生の言語習得率は下がる傾向にあるというのだ。
私もこの事実を知った際は驚いた、しかしその原因に留学先の生徒の聞く力が関係していると考えると想像に易い。
偏差値の高い学校の生徒は留学生の拙い英語からでも意図を汲み取ってしまうのである、この伝わってしまうという事が言語習得において大きな壁になる。相手の聞く力が高いと下手な話し方でも伝わってしまうため、自身の話す外国語の細かなニュアンスや文法の間違いに気づく事が難しくなってしまうのだ。
日本からの受け入れ先では少数だが海外の偏差値が低い学校になるとチンチ○ンチャン率は跳ね上がる、下手な英語では会話どころか相槌すらも打たれない事もある。生存戦略として言語習得が伸びるというカラクリだ。
話は本筋のうんこの話に戻る
汲み取る力は勿論だが、この世には汲み取られて然るべきだと伝える能力が欠如した察して族が存在する。
言葉には辞書に書かれている以上の意味が含まれる、それは誤用として切り捨てて良いものではあるが、それではコミュニケーションが円滑に進まない場合もある。例えば「破天荒」という言葉は誤用される事が多いことで有名である、私自身知らずに誤用していた過去もあり、現在でも「間違った意味での破天荒」という風に用いる事がある。コミュニケーションにおいては言葉の正しい意味以上にお互いの共通認識が重要視される場合があるのだ。非常に難しいものであるが皆その恩恵は受けている、その際たるものが漢字である。
漢字の音訓読みは部首によるイメージが強く出る、さらに字のイメージにより初見の漢字の意味もなんとなくわかる、日本語話者特有の共通認識である。同じように英語母語者は可算・不可算名詞の区別や発音のアクセントを意識レベルで行なっている。
教養や文化とは、各コミュニティの共通認識を広めコミュニケーションを円滑に行うためのものであると言っても過言ではない。誤用すらも上手く使う事ができる曖昧さはコミュニケーションには不可欠なのだ。
我々はすれ違い争いながらも対話を試み歴史を編んできた、対話こそが平和の黄金律なのである。
故に我々は日々「うんこ日記」をつけ、モンキーレンチを腰にぶら下げて生きていかねばならない。
私は今日も快便である、明日も良いうんこがしたいものだ。
https://www.monotaro.com/g/00006770/
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