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小説/ヨロズ承り社 その6

鋳物職人と空間

上東風蔵村(かみこちくらそん)は80年前に、突然出現している。郵便局が無事であれば色々歴史も分かったと思うが、それについては、仕方がないと諦めていた。しかし、例の箱庭のある建物に、色々残されていることが分かった。
話し合い、この家の調査は、一件丸ごと俺と康平に託された。

清はイワさん達とインフラ補強に取り掛かった、村に続く道路が、一本の細い山道しかない状況、これでは、あまりに心許ない、作業する上で物流の確保は欠かせないからだ。

隆一は測量士の、鈴木さん川上さんと昔の等高線図とあらかじめ決めた定点とのズレを測量して歩く、装備には地震計まであるのだ。これは、一番大事な作業で、短期間にズレが出る様では、再開発は無理となってしまうからだ。

俺達2人は、作業場所を箱庭のある家に移した。PCもカメラもスキャナも全て持ち込んだ。そして、手前にあった板敷の間、その大きすぎる戸袋に、通信用アンテナ2機と、この村に関する成り立ちが全て、書面で収納されているのを発見した。以下はその書面にあった内容の一部です。

●上東風蔵村の発起人
近隣の連山より、豪農3家が資産を投げ打っていた。

●発起当初の、村民名簿
全部で60名、下は50歳〜上は92歳まで、全て男性

●数名は、職業の記載があった。
通信師 2名、料理人 8名、鍛冶屋 6名、鋳物師 10名、他の人は名前と年齢が記されていた。それぞれの署名の筆跡はバラバラで、各々で署名している様だ。60名の署名の最後に余白があり、次の文章で締め括られていた。

人は、生まれると同時に死を約束される。我々は、只今から、約束された死が其々に訪れるまで、硬い結束の元、命懸けで、この国を守ると決めた。

私たち日本人は、神代から今まで、人類最大の敵!決して勝てることの無い敵、自然災害と戦って来た。今も最前線で戦っている。勝つことは無いが、負けてはいない、なぜならこの凶暴な敵は、神でもあるからだ。この人間同士の戦いにあって、神に頼り、自然と地の利を味方につけ、出来ることは何でもやろう!休むこと無く働こう、休息は命尽きてからにしよう。

作業半ばでも、上陸及び侵略の知らせのあった場合、通信及び短波放送にて広く布告し、敵を東風蔵へ誘導する、その場合その時を戦闘開始とする。


次に、村への道だ。発足当初は3本の道が存在していた。そのことは記録に残されていた。3本のうち2本の道が、粉砕されている。通行止めとか、そう言ったレベルでは無い、火薬まで使用して粉砕した様だ。

そして、道粉砕のちょっと前に、42件の全ての家に深井戸が完成している。湧き水があるのにも関わらず、全戸に深井戸があり、標高の高さから水面は遥か下方である。各井戸には横穴があり、横穴は蟻の巣の様に繋がっている。

俺が思っていたことを、康平が口にした。「これさ、七人の侍の完璧版っていうか、守りを固めて、婦女子を逃したあと、命懸けで、ここから先に行かせない!って言う強い意志を感じるね」と、俺は頷いた。

もっと、もっと聞きたいことがたくさんある。60名と、話がしたい。

役所に電話をし、図書館の古い書き付けを読み漁っても、杳(よう)として60人の行方は掴めなかった。これは、村移転などでは無い、そこで俺達は、署名にあった職業に注目したんだ。ネット検索で1名の名前がヒットした。

鋳物職人 永野鐡一(てついち)ご本人は20年前に亡くなられたのですが、御子息が、永野精密機器株式会社を経営していて、そこの創業者として、永野鐡一と名前があった。一か八か電話をしてみると、ビンゴでした。何と!会ってくださると言うのだ。隆一達の許可を得て、俺と康平は、山を降り、港町へやって来た。7階建ての立派なビルの社長室に通され、緊張していると初老の男性が入って来た。頂戴した名刺には、永野鐡夫とあった。夕方までお話しを聞かせていただき、以下のことが分かった。

当時、鐡一さんの工場があった港町一帯は、焼け野原になっていた。焼け跡を片付けていた頃に、山の方で、国守の活動が起こり、鉄を扱える人を探していると言う、後先を考えずに、山へ駆けつけてしまったそうです。当時の社会は混迷を極め、本土決戦とか侵略とかの言葉が矢の様に人々に突き刺さっていました。鐡一さんの奥さんは引き留めたのですが、持ち物全てを金に変え、全部女房に持たせて、これで身を守れと言い於いて、出て行ってしまった。

それから1年後、日本は終戦を迎えた。さらに1ヶ月後、山崩れが起きた。急な災害に対応している最中に、1本道を大勢の女性が大型バスで来村した。60人の侍達の奥様達でした。鐡一さんは、奥さんにビンタされ、「目を覚ませ、皆さん復興で大変な時に、帰るぞ!」と言われ、恥ずかしさに、顔から火を吹きながら地元に戻り、以来町工場から株式会社になるまで、頑張られたそうです。因みに、鐡夫さんはその頃、鐡一さん58歳、奥様41歳の時のお子さんだそうです。永野鐡一さんは亡くなる1年前から入院していて、その1年で上東風蔵村のことを話してくれたのだそうです。無知で、井の中の蛙で、恥ずかしい黒歴史!なんて言いながらも、嬉しそうに語っていたそうだ、彼は、俺達にお土産をくれた。桐の箱に真綿で包まれている、2つの弾丸! 歪みもバリも無い、美しく鈍く光る弾丸であった。

帰社する車の中で、俺達は、事務所でするプレゼンの打ち合わせでウキウキしていた。


つづく

次回は最終 祭りの始まり


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