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「タヴィストック洗脳研究所」(7)第6章 ~ マス・コミュニケーションは世論調査[投票操作]産業の草分け

第 6 章
マス・コミュニケーションは世論調査[投票操作]産業の草分け

バーネイズは、ウェルズの考えを理解したことで、アメリカ(U.S.)の世論統制のヒエラルキーに重要な位置を占めることになった;1929年、彼は、ウィリアム・ペイリーが買収したばかりのCBSで職を得ました。

同様に、マス・コミュニケーションの出現は、メディア・マフィア(舞台裏からショーを運営する「見えない政府」の一部)のために大衆の認識を整理するための世論調査/サンプリング産業の到来を告げ、大衆の意見を組織化することになったのである。

1935年から36年にかけて、世論調査が本格化した。同年、エルモ・ローパーが『フォーチュン』誌上で(上から見る)アンケート調査[世論調査]を始め、それが後に『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』紙の「人々が考えていること」(What People Are Thinking)欄へと発展していった。

ジョージ・ギャラップは、アメリカ(American)世論研究所を設立し、1936年にはイギリス世論研究所を開設した。ギャラップはプリンストン大学に活動の本部を置き、ハドレー・カントリルが運営する世論調査室/国際社会調査研究所/心理学部の諸機関と密接に連携して活動した。彼は、後に「水瓶座の陰謀」(Aquarian Conspiracy)の策定に使われた心理プロファイリング法(精神分析手法)の開発でますます重要な役割を果たすことになった人物である。

同じ1935年から1936年にかけては、ミネアポリス・スター・トリビューン紙とデモイン・レジスター紙というカウルズ一族が所有する二つの新聞社の働きかけで、大統領選挙に初めて世論調査(polling)が使われるようになった。カウレス家は、今も報道関係の仕事をしている。


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ワシントン州スポケーンに拠点を置く彼らは、積極的な世論形成に影響力を持つ誘導工作員(opinion makers)であり、ブッシュのイラク戦争への支持は決定的なものであった。

「大統領補佐官」という慣行を誰が導入したのかは定かではない ー 国民によって選ばれたわけでもなく、国民が吟味し、選別する機会もない人たちが、国の内外の外交政策を決定するのである。アメリカ(American)の大統領では、ウッドロウ・ウィルソンが初めてこの方式を採用した。

世論調査と第二次世界大戦

これらはすべて、次の段階への小さな前触れであった。それは、移民した心理戦の専門家クルト・レヴィンがアイオワに来たことと、アメリカ(United States)が第二次世界大戦に参戦したことという、二つの重要な交錯した展開が引き金となったものであった。

第二次世界大戦は、新興のタヴィストック社会科学の科学者に、実験のための膨大な範囲を提供しました。レヴィンのリーダーシップのもと、第二次世界大戦後に配備された主要な部隊が、戦争下で開発されたこれらの技術をアメリカ(United States)の住民に対しても適用するためにまとめられたのです。実際、1946年にタヴィストックはアメリカ(United States)の民間人に対して宣戦布告し、それ以来ずっと、戦争状態が続いている。

レヴィン、ウェルズ、バーネイズ、リップマンが明確にした基本概念は、今でも世論操作の指針となっている。戦争は、社会科学者にそれらを高度に濃縮した形で適用する機会を与え、彼らの実験の目的を推進するために、多くの機関・組織を彼らの指揮下に集めたのである。


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「世論」(public opinion 人をかつぐ乗り物=マスコミ界)を形成する手段・道具として、中核的な機関[研究所]は、国民道徳委員会であった。表向きは戦争への支持を集めるため、ちょうどウィルソン大統領が第一次世界大戦の「管理」(manage)するために管理委員会を設置したように、その真の目的は、社会統制手段を構築し維持する目的で、「枢軸国」《日本・ドイツ・イタリア枢軸[同盟]国》(Axis)とアメリカ国民(Americans)の両方を集中的に、綿密な分析(プロファイリング)を行うことであった。

この委員会には、ロバート・P・バス、ハーバート・ベイアード・スウォープなど、著名なアメリカ(American)社会のリーダー的人物たちによって率いられた。この委員会の事務局長は、マーガレット・ミードの夫で、CIAの悪名高いLSD実験「MK - Ultra」サイケデリック(迷幻剤~強力な幻覚剤によってもたらされる幻覚や恍惚状態)実験の主要な推進者の一人であるグレゴリー・ベイトソンであったが、この実験が、ドラッグ、ロック、セックスといったアメリカ(U.S.)の反体制文化「カウンターカルチャー」[社会で通常受け入れられている行動や芸術などに反対する人々の芸術(つなぎ合わせる技術)、信念、行動]を主張する若者たちが集団化する発端となったと考える専門家もいるくらいだ。

委員会の評議員には、世論調査員のジョージ・ギャラップ、諜報員のラディスラス・ファラゴ、タヴィストック心理学者のガードナー・マーフィーらが名を連ねた。

委員会は多くの特別プロジェクトを実施したが、その中でも最も重要だったのは、ドイツに心理戦を仕掛けるにはどうすればよいかという大規模な研究であった。オピニオンプロジェクト[世論分析調査誘導計画]の展開に欠かせないキーパーソンは、次のような人々であった:

クルト・レヴィン教授(教育・歴史、心理学、社会科学)
ゴードン・W・オールポート教授(心理学)
エドウィン・G・ボーリン教授(心理学)
ハドレー・カントリル教授(心理学)
ロナルド・リピット(社会科学)
マーガレット・ミード (人類学、社会科学; 青少年・児童発達論)


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委員会のスタッフを構成する100人以上の研究者と、このプロジェクトに欠かせない重要ないくつかの世論分析(opinion- profiling)機関があった。

そのような特別プロジェクトチームのひとつが、戦略事業局(OSS)(CIAの前身)であり、マーガレット・ミード、クルト・レヴィン、ロナルド・リピット、ドーウィン・カートライト、ジョン・K・フレンチ、サミュエル・ストゥファー(後に会長)などの世論形成者(ご意見番)たちから構成されていた。フランス、サミュエル・ストゥファー(後にハーバード大学社会関係研究所の会長に就任)、コロンビア大学社会学部のポール・ラザースフェルドはプロファイラー、ハロルド・ラズウェルとともに敵国の現地報道機関の詳細な「内容分析」に基づいたOSSのための「世論調査」方法を開発し、レンシス・リケールもその一人である。

リカートは、戦争直前までプルデンシャル保険会社の要職にあり、生命保険代理店経営者協会の調査部長としてプロファイリングの技術[分析技術]を完成させていた。そのため、プルデンシャル生命保険会社の元社長であるアメリカ戦略爆撃調査団の団長と好意的に接することができるようになった。リカートは1945年から1946年まで戦略爆撃調査団のモラル部門長を務め、大衆の意見を分析し、操作するための大きな影響力を持つ立場にあった。

第7章「人をかつぐ乗り物~世論を作り出し、民意を動かすマスコミの世論形成について」につづく。。。


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