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京町家との格闘をお話ししてみなさんと一緒に考えます

その7京町家と地震・雷・火事・・-〔3〕(続き)

京町家と火事・大風
 雷は町家にとっては〝親父〟と同じく直接関係ないので火事と台風に対する備えや構えを見ていきます。

火事セット

火 事
火を出しても住み続けられる
 京都では火事を出してもどてらを藁縄でくくり罪人の格好をして近所にお詫びをして回れば住み続けられるという慣習があります。京都大丸百貨店で失火したときに社長の下村さん夫妻がそのような格好で近所を侘びて回り、〝さすが下村さん〟と株が上がったということです。
京町家は火事に無頓着 京町家の表を眺めると2階は真壁で軒裏も木部表しのままで、延焼に対して無防備に見えます。京町家は火災に対して無頓着だったのでしょうか。日本人の火事のとらえ方として「われわれの間では財産を失い、また家を焼くことに、大きな悲しみを表す。日本人はこれらすべてのことに、表面はきわめて軽く過ごす。」〔※1〕。東京の話ですが「かかる災難(火事)にあった人々が〔略〕気持ちがよく、微笑みしていない顔は一つも見られない。(略)持ち出した家財とともに、彼らは襖や箪笥や畳を立てて一種の壁をつくり、そのうちに家族が集まり、火鉢には火があり、お茶のために湯をわかし、小さな篝火で魚を焼いたり、僅かな汁をつくったりし、冬以外は寒くない戸外で彼らは平素通り幸福そうに見える。」〔※2〕との戦国時代や明治初年の情景報告があります。現代人のわれわれにはにわかに信じがたいことです。しかしいかな無常観を明らめていたとしても、火事は町衆にとって他の災害にくらべ身近で避けるべき恐ろしい災害でした。
町で守る 京都の江戸時代の消防は体制の変化はあっても〔※3〕、基本的に雇い人夫を含めて町衆が担いました。畿内の大名による常火消しは火事の際はまっさきに御所に駆けつけ、町中の火事は指図や検証はしても消火はしません。防火や消火については町(辻から辻までの約120mの間に向かい合う4~50軒)が担い、消火には二町(三町)四方の隣町もあたりました。それは町自治の取り決めである「町式目」(呼称は町法度、町儀定、町規約などさまざま)に明記されています〔※4〕。2町四方駆けつけやその証明である札置きなどの「公儀お達し」を除くと、町ごとに表現は異なりますが、その内容を分類すると「火の用心」、「見回り」、「駆けつけ」、「2階灯火禁止」、「隣家解体」、「近隣報知」、「町火消し」となります。町によっては明記されない項目もありますが、無かったということではなく書かれた文書が散佚したか、書くまでもないと判断したかのいずれかだと思います。項目ごとにかいつまんで見ていくと、「火の用心」では強風時の注意や子供の花火にまで及んでいます。「見回り」では町雇いの番人が見回り、煙など不審の際は声かけのうえ立ち入る権限を与え、「駆けつけ」は特にこまかく規定され(公儀がらみもあり)、借家人にも義務付けていますし、町内の火事は女性や子供にまでも手桶をもって駆けつけるようになっています。役を怠ったときの罰金が明記され、銀子1枚~30枚までの幅がありますが、現在の価値では数万から数十万でしょうか。さらに違反に対して文句を言わず屋敷を売り払い立ち退くことも記されています。「2階灯火禁止」では罰金銀子1枚です。「隣家解体」は明記があるのは1件だけですが両側2軒は解体されても文句を言わない。ただし町が従前どおり建て直すことを明記しています―町は数軒の町家を建て替えるぐらいのお金は持っていた―。「近所報知」でも怠れば追放です。
当時の消防 ここで当時の消火方法についてみておこうと思います。「消火の3要素」は温度を下げる、空気を絶つ、燃えるものをなくすの3つです。温度を下げるは現在ではポンプ車で放水して行いますが当時の技術では初期消火では有効ですが、燃え上がった状況では不可能です。京都でも龍吐水は使ったはずですが、町式目には記述がありません。モースは龍吐水で放水する様子を見て、あんなもので火が消えるわけがないと嘲笑しましたが、その後反省してあれは消火のためではなく刺し子半纏を着て、果敢に火に飛び込む火消しにかけるのだと気づきました〔※5〕。「水籠」や「手桶」の水は火消しにかけたのかもしれません。空気を絶つについても泡消火やCO2消火などない当時では不可能です。唯一残るのが燃えるものをなくすです。つまり破壊消防です。したがって「駆けつけ」時の携行道具は「大団」(大団扇)、飛口(鳶口)、「登橋」(梯子)、「火散」(火はたき?)、「箒」などです。したがって消火の手順としては初期消火のための「近所報知」と「駆けつけ」ての水かけ、そして延焼を防ぐための火災発生家屋や隣家の破壊です。
 このように火事は出さない、万が一起きてもみんなで消す、という気概と美意識が防火一辺倒の町家の形にはしなかったのだと思います。
町に入るのは大変 宗門(キリシタン)改めもあって、町の構成員は厳しく制限されました。「町式目」には町に入ることを禁止する職種が明記され、そのなかには既存の職種との重複を避けることもあったでしょうが、火を使うような商売は特に禁止されました。さらに町に入るためには町内の保証人と町の承認が必要でした。また式目に明記の有無に関わらず慣習として、ほとんどの町で毎年愛宕さんに代参して「火廼要愼」の札を買い求め町内に配布していました。
 ここまでみんなで用心と備えをしていたにもかかわらず、失火してしまった者に対しては頭書にあげたような手順を踏めば、住み続けられるということが暗黙の了解事項になったのだと思います。
今どうなってる ちなみに京都独自の町自治(町と町組)は明治2年に町組を無視した番組に再編されましたが、学区単位の公同組合に改組され何とか命脈を保っていました。それが戦時体制のなか昭和15年に全国一律の町内会と隣組に改変されることにより息の根を止められました。それでも消防体制は消防署と消防団の協働という形で残りました。また実績として大都市の人口1万人当たりの火災発生件数はここ10年を見ても1.4件から1.8件であり、21都市で一番低い件数で、かつ東京、大坂の1/3程度です。〔※6〕しかし1980年代後半のバブル期には町家が壊されそこにマンションが闖入してきて、反対運動はあったものの法的には拒み切れず―町との協議で一定の協調が得られたケースもあったが―、条例によるダウンゾーニング(主に中心部は高さを31mから15mに下げる)も歯止めにはならず増え続けました。また京都が観光で注目されはじめたところへインバウンドの急増があり、ホテルラッシュを招き町家民宿(簡易宿所)が目に見えて増えました。マンション居住者は京都圏外が多く、ホテルや町家民宿利用者は当然京都以外ないしは国外です。さらに最近は赤い防火バケツが置かれていない町家も増えています―地域のABC消火器に置き換えられているところもある―。どこまで京都の防火の伝統を守れるかが案じられ、自治連合会と市の協働による防火の啓発ないしは体制の再編・確立が求められています。

屋根セット

台 風
 風水にかなったみやこ京都は気が溜まる巨椋池の埋め立てと気の流れを止める京都駅ビルでくずれましたが、「山河襟帯自然に城をなす」は残りました。19年の台風19号のすさましさは子供のころに浜名湖のほとりで体験した1959年の「伊勢湾台風」と、その2年後の「第2室戸台風」の恐怖を呼び覚ましました。19号一過、かつての二つの台風と同様に公園や河川の大木が根こそぎ倒されたのを見受けました。しかし私の暮らす団地では建物の被害は2戸のガラスが割れ、庭の樹木が数本倒れた程度でした。京都市全体でも大した被害はありませんでした。ときに京都を直撃する台風や台風の進行方向の右側に入る台風(風速に進行速度が加算される)を経験しますが、大した被害はもたらしません。三山が防風提になっているようです。
都の死角 唯一その三山が途切れる南側が京都のウイークポイントです。それは昭和9年に京都(京阪神)を襲いました。室戸台風です。室戸岬から神戸と大阪の間を通過して淀川をさかのぼり、京都の裏鬼門から侵入して突き抜け、3千を超える家屋が倒壊しました。特に鉄筋コンクリート校舎に建て替えられつつあったなかで、残っていた木造の小学校が南面を直撃されてなぎ倒され、多くの児童や教師が犠牲になりました。このような台風や方丈記にある辻風(竜巻)は防ぎようがありません。幸い現在は気象予報で台風の接近が報道されますし、竜巻やダウンバーストの発生しやすい気象状況もある程度わかってきて予報されますので、早めに頑丈な建物に避難するのがベストです。
大風への備え さて京町家は台風に対してどのように備えてきたのか見てみます。屋根は19世紀の前期に瓦屋根に変わりますが、それまでは洛中は板葺きで洛外や洛外につながる街道筋は草葺きです。板葺きは軽くて地震には有利ですが、強風で屋根ごと飛ばされます。ちなみに伊勢湾台風では当時はやったレジノ鉄板(カラー鋼板)の緩い勾配の瓦棒葺で、かつ軒を90㎝程出した建物の屋根が小屋組みごと飛ばされています。またカラー鋼板がめくれあがって飛ばされ、小屋組があらわになったケースもあります。板葺きは大和葺きのような葺き方(流れ方向に板を流す)や杮葺き(栩葺き)で、材料がめくられることはないと思いますが、小屋組みごと飛ばされることを防ぐために屋根面に吹き寄せの丸太や竹を井桁に組み交点にできる升目に石を置いています。瓦葺きに変わってもその遺伝子を引き継ぎ、土を全面に敷く本葺きではなく(土蔵は本葺き)瓦自体も軽い桟瓦にしてかつ土を瓦の谷部にだけ置く筋葺にして、細い架構に見合った軽い屋根で小屋組みごと飛ばされない程度の重さは守りました。
 大風のとき開口部が破壊されると風が吹き込み屋根を噴き上げてしまいます。表の格子戸はかつては硝子戸などの建具はなく吹き放しでした。しかし雨戸だけはあり大風の時(夜間)は閉じて吹き込みを防ぎました。入口は大戸か板戸を閉めます。裏も同様で1,2階とも雨戸が設置されています。2階の表で雨戸がない場合は格子戸があれば飛来物はある程度防げますが、それもない場合は普段吊ってある簾の下部を重しで止めて吊ったままにしておけば、かなり被害を押えられると聞きました。壊れてもばらばらにならない限り修理ができます―伝統製法の簾の場合―。

 後先のような気もしますが次は「今なぜ京町家か」すなわち京町家の現代的意義についてお話しします。

※1『ヨーロッパ文化と日本文化』ルイス・フロイス著、岡田章雄訳注、        岩波文庫02年20刷、177P
※2『日本その日その日2』E・S・モース著、石川欣一訳、東洋文庫172 1975年6刷、P263
※3『近世京都町組発達史』秋山國三著、法政大学出版局、1980年1刷、  P199~201
※4『京都町式目集成』京都市歴史資料館編、京都市歴史資料館発行、1999年1刷
※5『日本その日その日1』P120
※6京都市火災統計「過去10箇年の大都市の出火率(人口10万人当たりの火災軒数)」https://www.city.kyoto.lg.jp/shobo/page/0000301748.html

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