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京町家との格闘をお話ししてみなさんと一緒に考えます

その4 京町家の暮らしと形・外

用・強・美―これらは、また、強さと用と美の理が保たれるようになされるべきである ウィトル・ウィウス

どれもこれも同じ? 江戸時代初期の京の案内書『京雀』(浅井了以1665年『新修京都叢書』所集)に「田舎の人のにわかに京にのぼりて、人をたずねはべらんには、まぎれたる町の名、同じような家のつくりに、ほうがくをわすれ・・・」と、均質な街並みを証言している。江戸の初めの洛中洛外図や祭礼図には、2階建ての町家や3階蔵が妍を競うように立ち並んでいます。わずか50年足らず後には平屋建ての中にわずかに2階建てが建つ、整然な街並みに変わりました。これは幕府により分不相応なぜいたく禁止や、平和な世になり功名より継続を望んだ町衆が造り上げたものでしょう。とかく繊細や洗練と評される京町家ですが、いつの世も、特に近代までは「用」(はたらき)と離れた「形」(強さと美しさ)はありません。何が「同じような家のつくり」で何が異なるのか、その外側を見ていきます。

外観

外観(建ち方) 江戸時代から継いだ厨子2階建てが軒数も多く一般的です。平屋建ても同様ですが、蛤御門の変で焼けたあとに再建された町家には少ないです。その時焼けてない西陣にはそこそこ残ります。見るからに平屋と下屋がついたものとがあります。総2階建ての町家は大正以降の町家で、ちょっと不安定な外観です。同時期のものに3階建て(3階はセットバック)や2階建てに望楼を載せた町家もわずかにあります。仕舞屋と呼ばれる町家は商いを終えてから改修したのではなく、初めから店ではありません。店で埋め尽くされた町なかではごくわずかです。大塀造(だいべいづくり)と呼ばれる町家も仕舞屋に分類され、江戸時代にもありましたが、今残るのは大店が会社に変わっていく明治末以降に、店と主人の住まいを分けるようになってからのものです。広壮でライト風の洋館があったり、住まいの中にも応接用の洋間や別建ての茶室があることもあり、住まいだけではなく迎賓館として商談にも使われました。仕舞屋は町家の町並みに紛れてそれとわかりにくいですが、大塀造は集中する地域はそれなりの町並みを形成するものの、大塀が車(大八車や人力車)を駐車するため引っ込めてあり、町並みの中で断絶し違和感があります。2階が異様に高いかしき造や塗籠の黒壁にした町家もありますが、これも大正以降のもので町並みとは不調和です。

京格子

京格子 格子の「はたらき」は総じて防犯と目隠しです。一番多いのが切子格子を含む親子格子です。標準は見付(巾)5㎝の親格子の間に見付3㎝の子格子を木返し(見付と隙間が同じ寸法)に入れます。私もかつては世に習い糸屋格子と呼びましたが、糸へんに限らず汎用されるため、親子格子と呼ぶのが良いと思います。明り取りのために目線から上を切ることが多いです。色を見分けることが求められる染屋などでは、見付を細くしたり子格子を3本にして空隙率を上げて明るさを確保します。さらに明り取りのためにまばら格子の欄間を設けることもあります。明るくしたければ格子のピッチを粗くすればよさそうなものですが、意匠的に締まりのないものになるためにそれはしません。他に通りを歩く仲買人とのコミュニケーションが必要な絹糸問屋では、太く粗い糸屋格子にします。金貸しもしていた米屋、酒屋、質屋などでは(打ちこわしを恐れ?)頑丈な米屋(酒屋)格子にしたり、隙間を埋めることができる無双格子にします。炭屋は火を投げ入れられないように炭屋格子にします。仕舞屋は細い格子を繁く入れたり、隙間をごくわずかにしていた断面を台形にした(内側から外は見えやすい)目板格子(お茶屋格子)にします。昭和初期型には腰壁を道路際に張り出し真鍮や鉄のパイプを粗く入れた格子がありますが、京都の美意識からはちょっと外れます。 同業者が集まるのは大坂、江戸を加えた三都とも同様ですが、京都は中世の座に淵源をもつ同業者町(西陣、釜座町、具足小路(現錦通)、骨屋町、糸屋町など)や江戸以降に集積した通り(魚の棚(現六条通)、室町通(呉服問屋)など)も多いです。また、大工20組と呼ばれる組合が地域を分け合った結果として、同じ手が入ることもあって、格子の形がそろい均質なまち並みを形成しました。『京雀』のころにはそこまで均質ではなかったと思いますが。 このように「はたらき」と絡めて京格子を見ていただければ、より一層理解と愛着が得られるのではないかと思います―そんな町並みがどんどん減って見つけるのが難しくなっているのが残念ですが―。
※京格子の呼称と役割については諸説ありますが、私が聞き及んだ中で合理的で説得力のあるものを採りました。

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虫籠 ムシコは書いて字のごとく厨子2階の窓に設けた虫籠のような木の格子でした。今は塗虫籠のことを指します。塗虫籠が大名行列の見下ろし禁止のためといわれますが、大名行列が京都市内を通過することは禁止なのでそれはありませんし、後水尾天皇の二条城行幸図を見ても木の虫籠格子が並んでいます。では何のためでしょうか。火の侵入を防ぐという説もありますが、延焼を受けやすい2階に7.5㎝の隙間が縦に並んでいたら炎は何のさわりもなく侵入します。これは木の格子では防犯上不安のために塗り虫籠にしたというのが妥当な理解だと思います。防犯という「はたらき」のための形が京町家らしい「美」に高められています。

大戸

大戸 江戸時代は繁華な通りを除き両側町(向かい合う町家で構成される辻から辻までの町)の辻には「釘抜」(閂のこと)と呼ばれる木戸が設けられ、夜間は番人が閉めて町の安全を守りました。したがって、そこまで頑丈な防犯戸が必要なのかと思いますが、幕末の動乱がトラウマになったのか、鉄砲焼けの後に再建された町家にも大戸が残りました。表は潜り戸の付いた何の変哲もない板戸ですが、内側には二重枢(くるる:板のオートロック)、閂、サル落し、尻栓などの何重にも施錠され厳重です。

腰板、雨戸、壁 下屋は軒の出が深いのですが、それでも壁の下部は土壁では守りにくいため腰壁にします―大八車などから壁を守るためもあったか―。下見板をササラ(ギザギザ)縁で押さえます。雨戸は大板の竪張りで押縁で押さえます。木部や軒裏と同じようにベンガラを塗って(張った後で塗ると板が痩せて恥をかくためあらかじめ塗っておく)仕上げます。壁は漆喰仕上です。白漆喰は蔵には使いますが、表には使いません。漆喰に土を混ぜて(少し雨には弱くなるが)色を付けます。黄大津土が多いですが、浅葱土もあります。町でどちらかに合わせる傾向があります。白ではコントラストが強すぎるための美的配慮と協調です。 外壁は明治末以降の一部の町家に大壁の塗籠にしたものがありますが、基本は真壁です。京都はは戦乱や大火に何度も見舞われながら、町家の2階を塗り固め(塗籠)ることはしなかった珍しい町です。―川越(埼玉)、丹波篠山河原町、柳井(山口)などは大火後塗籠に変わりました。柳井は延焼の可能性が低い1階にまで土戸が用意されている―。京都は「火廼要愼」(阿多古(愛宕)祀符)と町衆消火(全員が火消し)および美意識で町家を守ってきました。

屋根

屋 根 主屋根には起り(ムクリ・凸曲面)がつけてあり、柔らかな表情になっています。これは一方では材料の節約でもあります。桟瓦(本葺きに対して簡略瓦)は流れ長さにもよりますが、4寸勾配(1mにつき40㎝上る) 以上は必要です。一列4室型の町家であれば棟までの奥行は8mにもなり3.5mほど上がります。2階の軒桁高さが低い厨子2階の表柱が定尺の丈三(約4.0m)でも棟持ち柱は7.5m近くになってしまいます。そこで通し勾配(桁と棟木の天端を直線でつないだ勾配)を3.8寸勾配にして、棟に近い雨量の少ない部分の勾配は緩くして、軒に近い雨量の多い部分の勾配は4寸を超えるようにします。トオリニワの裏の桁高を下げることで棟を低くするのも同様の節約です。節約と合理性を追求しながら「はんなり」した表情を実現しています。下屋は主屋根の軒に覆われるので、主屋根が瓦葺きに変わっても板屋根(大和葺き)が残りました。今では祭りのときに下屋に載る山鉾町の町家に残ります。その名残だと思いますが、瓦を葺くようになっても板棰にします。その方が棰にするより材積(体積)は増えますが、目に近いのでお金がかかってもすっきり納めたかったのかもしれません。下屋の高さは階高が違っても揃えるのがルールです。主屋根は隣家と高さを変えて(隣が高ければ低く低ければ高く)ケラバを重ねて雨仕舞を図ります。主屋根の瓦は「六四」(ロクシ・坪当たり64枚)といういく分大きな瓦にして、下屋は「80枚」(坪当たり80枚)の小瓦にして視覚の遠近を調整します。現代の改修で53A版(坪当たり53枚)を主屋根にも下屋にも葺いたりしますが、大きすぎて町家のスケールには合いません。     軒瓦は鎌軒、石持ち、石一(石持ち一文字)、一文字の順に古く、手作りの饅頭もありました。型抜きの饅頭は戦後で町家には合いません。今は一文字が多いですが、主屋根は垂の成(谷部)を高く下屋は低くします。瓦サイズと同様に遠近の修正です。大正以降のかしき造(出桁を腕木で支持)で主屋根の成を3寸にしたものがありますが、富貴を誇るようではんなりから外れます

其の他の装置

其の他の装置 バッタリ床几は元は見せ棚で商品を並べました。中世では蔀度の下半分を表に倒して見せ棚にしています。町家の軒下は近世まで公界と呼ぶ公共空間で、固定的な装置を置くことができませんでした。出格子も基本的に禁止で平格子とし、稀にある出格子は柱を浮かせていました。したがって建具から切り離されて専用の棚になっても撥ね上げてたためるようにしました。そして格子を外して棚に商品を並べる商い方が少なくなり、腰掛や涼み台になりました。駒止と呼ばれる柵がありますが、道路境界が道路側溝になった明治以降のものです。犬矢来も同様で、軒下や塀沿いに設け占有を表明するものです。これは昭和初期型の張り出しの壁も同様です。これらは京都らしい装置といわれることもありますが、景観上はいく分の違和感があります。
 下屋根上の鐘馗さんは邪気除けですが、〝お店の内儀が向かいの鬼瓦を見て気分が悪くなり病に落ち、下屋に鐘馗さんを置いて回復した〟と伝えにあります―向かいの鬼瓦の正面は見えないと思うのですが―。据える位置は向かいの町家の入り口に向けるという見解と合わせて、いかがなものかと思うのですが、そっけない表情の町家に趣向を添える風物ではあります。うだつは妻壁が屋根から突き出す塀のようなものですが、板葺きから瓦葺きに変わる江戸時代末にはそのほとんどが無くなります。2階の妻壁が通りに向かって突き出す袖うだつも同様です。中心部に袖うだつがある町家が並ぶ通りがありますが、あれは太平洋戦争中に大政翼賛会に組み込まれた町内会が、防火のために推進したもので、ワイヤーラスモルタル塗りです。―塗虫籠を硝子戸に(避難上)、厨子2階の天井をめくる(なんと焼夷弾が天井で止まる?)、―も同様の仕業です。

まとめ 「こうとな」という京ことばがあります。「はんなり」に似ていますが、質素で上品なという意味です。材料や納まりを見ればとても質素とは言えない高級な町家でも、見た目はつつましく洗練されたものに見えます。機能や商いのニーズあるいは見栄や欲などに基づくものであってもさらっと表現します。大正以降に入ってそのセオリーから幾分外れる町家も現れますが、戦前までは何とか持ちこたえたといえると思います。 次は町家の内側についてみなさんと見ていこうと思います












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