見出し画像

京町家との格闘をお話ししてみなさんと一緒に考えます

その3.京町家はなぜ廃れたのか?

遺伝子が運びきれない知恵を運ぶもの、それが文化だ 福岡伸一
人は過つ、過ちとわかったとき、過ちを過ちと認めないこと、それを過ちという S・K生

京町家のあゆみ 京町家の祖型は平安時代の絵巻に見られますが、間取り、構造、あるいは床、違い棚及びオダレ(前庇、幕掛け)などの装置も含め型としての確立が確認できるのは江戸時代の元禄頃です。江戸時代末には板葺きが瓦葺きに変わり、京町家型として完成して明治に引き継がれました。

三条油小路西側・東側町並絵巻(江戸時代末期)京都府立総合資料館蔵『町家再生の技と知恵』より転載

私たちが引き継いだ京町家 元治元年の「蛤御門の変」(鉄砲焼け)で中心部と上京の一部、下京(現中京含む)のほとんどは焼尽しましたが、徐々に再建され、元のように建て替えられました。いかな「ご一新」と言えども綿々と続いてきた暮らしが突然変わるわけもなく、その器も同様です。明治末から昭和初期にかけて多少の改変はありましたが、江戸時代の町家がほぼそのままに、わずか50年前まで元気に生き続けました。

モースが見た日本 明治10年を最初に、都合3回日本を訪れ日本各地を歩いた、モースというアメリカ人がいます。初来日の時、横浜から汽車で東京に向かうときに、車中から大森貝塚を発見したことでも有名です。彼は2枚貝の生物学者でしたが、博覧強記の博物学者でもありました。彼は日本の文物や質素な暮らしなどの美質をこよなく愛しました。欧米の批評家や同僚の工部大学校(のちの帝大)の教授たちが、日本の木造はブレース(筋違)やトラス(斜材の入った西洋小屋組)もなく非合理である、また壁もドアもなくプライバシーがなく野蛮である、と評価するのに対して、構造は充分に強く、壁やドアがなくてもプライバシーを守れる民族であると反論しました。一方でこれらはいずれ失われてしまうと思い、住まいや暮らしをスケッチや文章で記録します(『日本の住まい 内と外』エドワード・S・モース 鹿島出版会)。京町家は取り上げられていませんが、明治に引き継がれた江戸時代の住まいと暮らしあるいは工法が掲載された貴重な記録です。その後モースが案じたようになっていきました。

伝統の破壊 世は脱亜入欧一色で伝統が顧みられることはなく、今は国宝になっている城や五重塔まで二束三文(なんと私でも買えるような値段)で売りに出されました。書画骨董も海外に流出しました。フェノロサや岡倉天心が保存の必要性を訴え、原三渓や大倉喜八郎たち実業家も保存に努めましたが、時代の奔流は抗い難いものでした。

西洋建築技術の移入 明治10年に工部大学校で本格的な建築教育が始まり、第一期卒業生が留学先の事務所のボスから、日本建築について問われたものの、何にも応えられなかったことを恥じて、帝大造家学科に「日本建築」の講座が設けられるということはありましたが、もっぱら目指すのは西洋建築の習得でした。明治は木工大工の技術が史上最高水準に達したとされ、多くの規矩書(墨付け(設計)の技術)が出版されました。ところが現場では廃仏毀釈(明治政府の神仏分離令に誘発された騒動)による史上最悪の寺院や寺宝の破壊により、寺院は庇護者を失ったうえに破壊や存在意義喪失のために疲弊し、大工の出入先ではなくなります。新たに発注されるのは新しい建築(擬洋風、洋風)がもっぱらになります。今の大手ゼネコンはその時代に大工から転身したところが多いです。

濃尾地震
濃尾地震木造被害写真「国立科学博物館地震資料室から引用」
URL:https://www.kahaku.go.jp/research/db/science_engineering/namazu/  左図:尾張熱田  右図:尾州一宮 かなりかたむいても建っている、右下にあるのは瓦礫ではなく再利用材

災害と伝統木構造への疑義 そんななか明治24年に内陸型地震で、史上最大といわれる濃尾地震が発生しました。地震の経験の少ないお雇い外国人たちはびっくりして、こんなすごいことが起きるのに日本建築は脆弱だと指摘します(自国で地震を経験していた外国人は、災害の規模に比べてあまりにも死者が少ないと思ったのだが)。大火も各地で頻発します。東京では毎夜のごとく火事が発生し、先述のモースは連夜観察のために走ります。そんななか被災経験や西洋技術に立脚した指摘に、対応して制定されたのが我が国初の近代的な街と建築の法律「市街地建築物法」です。それが主に目指すのは「欧米のような燃えない街」(本当は欧米のまちも燃えますが)でしたが、木構造の規定も入っていて、伝統建築にはなかった布基礎、土台(一部の民家には土台もあった)、火打(梁や桁の入隅に入れる斜材)、筋違(義務ではなく推奨)でした―そもそも西洋の火打や筋違は強風による変形防止材であって耐震部材ではなかったのだが―。当時の6大都市限定でしたが、不幸にも京都はそこに入っていました。

柔剛論争 関東大震災もあって燃えない街、強い建築が求められる雰囲気のなか、反論もありました。海軍の技師で我が国鉄筋コンクリートのパイオニアといわれる眞島健三郎が、わが国将来の建築は施工レベルに左右され、耐久性に劣り、ひび割れなどの根本的欠陥のある鉄筋コンクリートではなく、技の精度も靭性(粘り強さ)、柔軟性も保証された伝統木造である、と唱えました(「耐震家屋構造の撰擇について」土木学会誌第10巻第2号)。それに対して、東京帝大の「剛」な建物を推し進める学者たちとの間に繰り広げられたのが「柔剛論争」でした。勝敗がつかないまま剛優先の流れを変えられずに終わったのはとても残念でした(戦後、剛派の先鋒であった研究者が日本初の超高層を設計するときに、柔構造を唱えるというオチはついたが)。

全国一律の建築基準 そして伝統木構造に対する一撃が、市街地建築物法を引き継ぎ、昭和25年に制定された「建築基準法」で、伝統木造が「既存不適格建築物」(建てられたときは基準に合っていたが、基準が変わって適格でなくなった建築)の規定でした。そこでも立案に際して伝統木構造の検証はなされず、「市街地建築物法」を踏襲したうえに耐力壁の必要長さが規定されました(筋違が必須になった)。壁倍率の設定の実験に関わった研究者から、戦後復興の木造住宅の大量供給が求められるなか、熟練の大工技術に頼れないと考え、土壁の倍率を実験結果よりかなり割り引いた、との証言を伺いました。その意味で「建築基準法に」基づく木造建築はまさに戦災復興の「仮設建築」だったのです。

それでも生き続けたが 上記の伝統木構造に対する批判や改良提案は、あくまで外国人建築家や彼らに学んだ学士建築家たちによるものであり、学校などの公共建築には影響を及ぼしたものの、広範な木造建築は依然大工などの職人の手に委ねられていました。私が京都に来た40数年前には基準法の木造建築に対して、伝統木構造を大工も住み手も「本建築」と呼んでいたのです。しかし戦後の持家政策の目玉となった「住宅金融公庫」が基準法や建築学会基準を融資条件にしたことで、公庫融資が浸透するにつれ、伝統木造は廃れて(建てられなくなって)いきました。また同様に戦後の住宅不足への対策であった「住宅公団」も、衛生思想(寝食分離)、新しい家族の形(家制度廃止、寝寝分離)に対応した住宅団地を供給しました。団地族は国民のあこがれの的でした。それは京町家に東障子(硝子戸)東京炊事(床を上げてキッチンを置く)が侵入する、あるいはDKやLDK に改修する(思い描いたようにならなかった)、といった形で京町家をむしばんでいきました。

伝統木造の見直し バブル経済(1986年12月~1991年2月)による地上げで京町家が潰され、古都の景観が失われていくなかで始まった、市民による京町家の保全・再生活動のスタートや阪神淡路大震災の伝統木造への批判(淡路などの一部を除き阪神間には伝統木造は戦災で失われほとんどなかったのだが)に対する反論としての伝統木造の見直しが始まりました。構造的な評価方法の提案や条例による扱いの改善も模索されてきました。しかし根本的な見直しは道半ばです(というか緒にも就いていない)。こうしてみてくると新しい建築の導入時や基準をつくる際に伝統木構造をきっちり評価した形跡がありません(大工や職方の意見を聞いてもいないし、とにかくダメ)。また建築基準法がつくったわけではない伝統木構造が既存不適格にされている、などの矛盾が見えてきます。

現代の町衆と出入 京町家は建て主と作り手そして住み手がつくり守ってきました。やはりその見直しもみなさんと作り手の肩にかかっていると思います。それがこのつたない論考連載の趣旨です。次は〝町家は暑い、寒い、暗い、狭い、プライバシーがない?〟についてみなさんと考えます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?