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京町家との格闘をお話ししてみなさんと一緒に考えます

その5・京町家の暮らしと形・内

すべての建築は人間の精神に影響することを目的にしているもので、単に身体のみに役立つことを目的にしているものではない ジョン・ラスキン

気品と優雅な趣味 桂離宮を称賛し日本人にその価値を再認識させた、建築家のブルーノ・タウトは「住宅が道路にじかに接し、土間が奥行きの深い家の中を貫いている。家の前側に応接に使う簡素な部屋があり、小さいながらも実に美しくいかにも京都らしい趣を具えている。これらの家の高い気品は古都京都の優雅な趣味、ふかぶかとした落ち着きを示すすぐれた釣り合い・・・」と称賛しています。それは宮廷文化の祭り、風習や信仰(物忌みや方違え)などが翻案されたうえで引き継がれ、武家好みの芸能や数寄文化を取り込み、商売繁盛や無事長久などの祈りを含めた京の町衆文化を、形の向こうに見透かした言葉であると思います。それはどのように構成され表現されているのか見ていきます。

土間と室・最終

土間と室 京町家はトオリニワと呼ばれる土間とそれに沿って並ぶ室で構成されます。それは縄文の竪穴住居やアイヌのチセの土間と土座や寝床の組み合わせの延長にあり、住まいへの要求が食・寝中心からなりわいや格式を取り入れるように変化してきました。農林業の民家の四つ間取や広間型三つ間取りを両手で横から挟み込んで押し潰せば一列三室型や一列四室型の京町家になります。
 トオリニワは広場や空地を示す言葉である「ニワ」というように通りの延長と考えられ、なかば外あつかいでした。したがってミセの間との境は舞良戸(細かい桟がある板戸)です。今は舞良戸と障子の組み合わせもありますが、かつては舞良戸のみで施錠しました。ダイドコ(茶の間)との境は雨戸が閉てられるケースもありました(使っていませんが今でも残っています)。オクの間とは壁で閉鎖されます。トオリニワと室の間の開口はミセ、ゲンカン、ダイドコ及び木置きの揚げ口を除き壁で塞ぎます。それは防火上の配慮でもありました。
 トオリニワは表からミセニワ、(表屋はゲンカンニワやロージニワ)、トオリニワ、ハシリニワ(炊事場)と続きます。トオリニワやハシリニワは火袋と呼ぶ吹抜けにして、高窓や屋根と桁の棰と棰の間の隙間(面戸)や越屋根(煙出し小屋)から煙や熱を抜きます。
 室は表からミセの間、(表屋はゲンカンと中庭)、ダイドコ、次の間(仏間)、オクの間と続きます。2階はミセの間の上が厨子2階、並びのミセニワの上が木置き、厨子の奥にナカの間、そして奥が座敷になります(座敷がないケースもある)。路地奥長屋では一列二室型で炊事場はウラニワというものもありますが、江戸時代には禁止されていた(あったということ)吊床と前栽(奥の庭)はあり、狭いけれど暮らしとうるおいに不自由はありません。

トオリニワ

空間構成と意匠のメリハリ 表からミセニワに踏み込むと上に木置きが載り暗くて圧迫感のある空間です。表屋造りの場合は次に明るく開放的なゲンカンニワです。中戸を開けて(ない場合もある)入ると吹抜けの垂直空間に圧倒されるトオリニワになります。続いてハシリニワ、ここは内向きのスペースですが、嫁隠しと呼ばれる衝立でさりげなく目隠しをします。暗・明、低・高のメリハリの利いた連続空間です。
 意匠的には半屋外扱いで、側柱(隣家側に約1mごとに並ぶ柱)は杉の間伐材のことが多く、節も丸みも気にせず弁柄を塗ってごまかします。木置きが載るミセニワの天井は床組みあらわしの大和天井で弁柄塗、トオリニワやハシリニワは、間口の広い大店では火袋に準棟纂冪(じゅんとうさんぺき)と呼ばれる梁、束、貫で構成される立派な小屋を組みますが、これは構造的要請もあるもののミエと大工の矜持でもあって、小屋裏に見る荒木でこそありませんが、梁は手斧斫りのままであったりして弁柄を塗ります。天井は化粧野地ですが、外側の軒裏と同じものです。床は三和土(たたき)で壁は漆喰ですが、内法(約2.2m)から上は中塗りや荒壁のままのこともあります。

室側セット

 室の意匠は表のミセとダイドコは側柱のあらわし(ダイドコは四方建具で見えませんが)で、天井は大和天井で天井高も2.1m前後と低いです。木部は弁柄塗で、壁は黄大津か浅葱の漆喰です。表屋造りのゲンカンは柱、造作材、天井共に素木で精選した材料を使い壁(垂れ壁)は聚楽など仕上の土壁です。天井高も2.25m前後といく分高いです。オクの間は2階に座敷のない場合は座式としても使われ、柱は隅の通り柱と書院柱を除き薄い化粧柱を張り付けます。造作材も厳選して特に床廻りの銘木は今では手に入らない高価な材を揃えます。天井も同様で大店では春日杉、霧島、屋久杉などとんでもなく高価な材を使い、壁は聚楽、大阪土などの上等な土を使います。畳や建具も部屋の格式に応じて使い分けます。次の間(仏間)がある場合はオクの間との間に欄間を設けますがそこも見どころです。
 そして注目すべきはオクの間(座敷)にいかにお金をかけてもこれ見よがしにせず、「こうと」に仕舞うのが京町家の流儀です。タウトが絶賛したのはあまり意匠的には気にかけないミセの間のようですが、そこを見て全てを見抜いた洞察力に敬意を表すべきかとも思います。タウトが桂離宮を評価した理由の一つが構造と意匠の一致ですが、京町家を見る限り必ずしもそうではなく、室の格式に応じて構造・意匠一致とそうではない区分けがあり、お金のかけ方にメリハリがあることを知ってほしいと思います。

結界と暗黙のルール 入口の格子戸は用のない者には拒絶されているようで入りにくいものですが、商品の購入や商用などの用があるものには何の障りにもなりません。近所の近しい人は中戸(あるいは暖簾など)を抜けてトオリニワまで入ってきます。ダイドコに面するトオリニワは縁側のようなコミュニティースペースです。なじみの振り売はハシリまで入ってきます。汲み取りに来た農家や出入の職人はハシリを抜けてウラニワまで往来自由です。それらの出はいりは暗黙のルールであり、その結界は暖簾や嫁隠しなどのソフトな装置でさりげなく示します。そのルールを破るとケッタイなお人と、顔でなく肚で笑われます―私はよそ者ですが鈍いのかそんな扱いを受けた記憶はありませんが―。

祈りセット

心のよりどころ 明日のことはわからず不安を抱くことは昔も今も変わりません。科学が伝承や経験則にとってかわったとしても、明日への不安がまったくなくなるわけではありません。昔と今とどっちが安心かはわかりませんが、町家の中には祈りや願いの場あるいはしるしが多く見られます。先祖と子孫の間に生きる安心のための仏壇や無事・繁盛を祈る仏壇や神棚は今でもかろうじて残ります。正月に床の間や便所など各所に鏡餅をお供えするのもかつてはどこにもありました。お竈(クド)さんには荒神松が供えられ、近くの柱や壁には愛宕さんの「火廼要愼」のお札が貼られます。高く釣られた棚には家内安全の布袋さんが並びます。商家のダイドコには恵方棚(正月)が釣られ、その年の年徳神の方角に向けます。トオリニワと室の境の柱は手前が恵比寿柱、奥が大黒柱と呼ばれ商売繁盛、家内安全の祈りの対象です。特に大黒柱は構造的必要を越えて太く(恵比寿柱の方が荷が架かる)、磨かれてつやつやなことが多いです。欲得やミエもあるでしょうが住まいには安心のための祈りの場やしるしが必要な気がしますが、どうでしょうか。

次は〝京町家は長生き〟についてみなさんと考えていこうと思います。

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