見出し画像

京町家との格闘をお話ししてみなさんと一緒に考えます。

その19町家を作り守ってきた職人の技-9・塗装

塗装について
 より早く、より強く、より美しく、というオリンピックのようなかけ声のもとに左官と同じように、伝統の塗装は避けられ忘れられてきました。仕上げの特性の評価ではなく施工性(経済性)やモダン建築の求める表情などがその採用理由でした。前回の洗いで述べたように近代以降に採用された塗料は木部の塗装としては相応しいものではありませんでした。しかし悪貨が良貨を駆逐するように伝統建築の木部を侵していきました。私たちが伝統木造の町家を直して守る活動を始めたときには、三和土(タタキ)と同じように弁柄(ベンガラ)塗や柿渋塗りを担い、その工法の優れたことを理解する職方はほとんどいませんでした。
 三和土(かつては手伝い(今の土工)の仕事)と同様に試しにやってみるということで、近所の方や一般の方あるいは職業訓練校の生徒に呼び掛けて、弁柄塗体験会として実施しました。あわせて世の中の町家や民家の見直しの風潮と相まって、徐々にその良さが広まっていきました。
 木の表情を残して木を腐朽から守り美装する(弁柄の赤には魔除けもあったかも)、木の肌や温もりをそのままに保ちながら木の寿命を延ばすための塗料として弁柄や柿渋に勝るものはありません。「わびすけ」やカシューのような代用品も開発されましたが、いずれも自然素材ではあるものの「わびすけ」はワックスに使う溶剤で塗膜を形成し、カシューはペンキと同じように膜で覆うため弊害が多いです。
 弁柄も柿渋も専門の職人が手がけるように要領よくスカッと仕上げるという訳にはいきませんが、職方にアドバイスを受けて挑戦すれば素人が施工することも可能です。また木と対話しながら作業することは建物への愛着も育むと思います。ぜひ試してほしいですし、伝統の塗装を見直していただきたいと思います

塗 装
1.仕上りと特徴
1)仕上り(完成品)
・弁柄(紅柄)、渋塗り(柿渋塗り)、(漆塗り)、(丹塗り、胡粉塗り)
・オイルステン塗り(古色塗り)、(キシラデコール、オスモ、オイルフィニ
 ッシュ(ワトコ))
・(ニス塗り、ウレタン塗装、ペンキ塗り)
 
2)特 徴
 日本の伝統木造建築では白木の素地も好まれるが、木部に柿渋、弁柄を塗って仕上げることも多い。一部高級な仕様では漆を塗ることもある。柿渋は水をはじき、防腐効果があり、乾拭きでツヤがでて、木の美しさに深みを増す。弁柄は色が強く、木材の節や色の違いを隠し、墨との調合で落ち着いた色合いに仕上げることができる。いずれも木の呼吸を妨げず、乾燥を促すことで腐朽や蟻害を防ぎ、乾拭きなどの手入れによって美しさを保つことが出来る。
 明治以降、海外からペンキ、ニス、ウレタンなどの技術が輸入され、簡便さから普及したが、木部の表面に塗膜をつくることで呼吸を妨げ、湿気がたまって腐朽や蟻害をもたらしやすい。また、塗膜は耐用年数が短く、部分的に剥離してまだらになる。その場合、全てを剥離するのは困難で、木の表面を削り取るか塗り重ねる以外に手入れができず、保守が困難である。高温多湿の日本で木造建築を長持ちさせるには、日本の伝統的な塗装方法を見直すことが求められる。
 ベンガラの代用品として「わびすけ」、「ニューわびすけ」が市販されているが、ワックスで練られているため、表面に皮膜をつくり、数年でまだらに落ちることもあり、勧められない。

2.あゆみ
1)柿渋塗り
 
柿渋塗りの起源は不明である。江戸時代には一般庶民の住居全般、特に外部、塀などに「渋塗り」が行われていた。特に水かかりの木部の防腐のため、明治中期までは盛んに行われていたが、クレオソートの出現で次第に姿を消していった。
2)弁柄
 弁柄とはベンガル地方に産する黄土(天然酸化鉄)より命名されたと伝えられ、主に大陸から輸入されていた。しかし日本でははるか昔の縄文時代から使用例があり、縄文晩期のものには酸化鉄を主成分とした赤色顔料が多く使われた跡が認められる。これは鉄を多く含む粘土を焼いてつくったものと考えられる。弥生時代も同様で、土器に使われる粘土に多くの鉄分が含まれていることから、偶然発見されたものと考えられる。古墳時代には横穴式の「装飾古墳」と呼ばれる古墳の内部に弁柄が使われ、福岡・熊本両県に役60ヶ所発見されている。
 奈良・平安時代になると仏教文化が発達し、仏像・仏画など造形美術が盛んになり、様々な色素が使われ、赤色顔料として朱丹とともに紅柄(酸化鉄)も使われた。当時の弁柄は黄土を赤熱してつくられたとみられ、赤色顔料としての価値は朱や丹には及ばなかったであろうが、多量に供給されるため、大いに用いられた。
 江戸時代の初期、「長崎港異国船役人付」という古文書に「弁柄・すおう・びんろうじ・うこん・きりんけつ・藤黄」の記録がみられ、弁柄が輸入されていたことがわかる。その後、江戸時代半ばには大阪でくず鉄からダライゴ弁柄の製造がはじめられ、一時盛んに製造販売されたが、吹屋で弁柄が本格的に製造されるようになると品質が優れていたため、その座を奪われた。
 備中・吹屋で江戸時代中期の宝永4年(1,707年)に日本で初めて人工的に、弁柄の製造が始まった。銅山の副産物である硫化鉄を原料として、これを焼いて中間生成物のローハ(硫化鉄水和物FeSO4・nH2O)を作り、さらにこれを焼いて酸化することで弁柄を製造した。色が鮮やかで大量に生産でき、全国に広まった。その後昭和まで製造が続いたが、製造途中で排出される硫酸ガスや廃水の公害のため、昭和49年に製造を終えた。現在は湿式法により高純度弁柄が科学的に製造されているが、染色や陶芸の職人からは鮮やかさにおいて、吹屋弁柄に代えがたいといわれている。


余話-渋塗り職人と塗装店
 落語などにでてくる黒板塀は、柿渋に松煙(灰ずみ)を入れて塗ったものである。「渋塗り」は家屋の洗いとともに立派な職業であった。黒板塀塗装の際には、職人はわざと白足袋を履いて仕事をし、作業後白足袋に一点の汚れもないことを自慢話にしていた。「渋塗り」「洗い」などに携わっていた職人の多くは明治以降に新しいペンキの仕事に転職していった。塗装店の屋号に「渋銀」、「渋鐵」、「渋辰」、「渋半」などがあるのも祖先が「渋塗り」店であったからである。


2)材 料
・柿渋:大王柿を小さいうちに収穫し、あらかじめつぶして容器に入れ、水
 をひたひたに入れて蓋をし、そのまま1年間発酵させ、上澄みを使う。数 
 年発酵させ、次第に濃度が増したものを使うこともあるが、建築では2~
 3年までのものを使う。
・弁柄:第二酸化鉄を原料とした赤色顔料。粉末状で、水や柿渋に溶いてつ
 かう。
・松煙(墨、練り墨、墨汁):柿渋、弁柄などに混ぜて色を調整する。古く
 は練り墨を溶かして使った。砥の粉を入れると混ざりやすい。
・油:菜種油、亜麻仁油、荏胡麻油など、植物性の油を使う。使い古しの天
 ぷら油など、加熱して十分酸化したものがよい。古い油は油拭きしたあと
 手に付きにくい。新しい油はべたべたがとれにくい。人が触れるところは
 亜麻仁油、荏胡麻瑜、桐油などの乾性油を使う。

塗装風景

4.技と技法
1)渋塗り
 柿渋を木部に刷毛で手早く塗り、乾かないうちに布で拭き取る。拭き取るのが遅れて乾いてしまうとまだらになる。乾いてから2~3回塗り重ねる。1年、2年と時間が経つと次第に色が濃くなる。塗り重ねることで耐久性が増し、ツヤも出やすく、色も濃くなりやすい。
 日常の手入れは、ホコリを落とし、雑巾で乾拭きするだけでツヤが出る。
 2)弁柄塗り
 弁柄の粉末を水で溶き、必要に応じて墨を混ぜて色を調整し、木部に刷毛でぬり、布で拭き取る。刷毛で塗ると弁柄の赤が浮き出すが、拭き取ると墨の黒が目立ってくる。そのままだと乾いても手に付くので、油を染みこませた布で油拭きをして押さえる。油拭きの布は、さわっても手に油がつかない程度を目安とする。
 職人は弁柄を油で溶いて塗ることもあり、油拭きの手間が省けるが、むらなく塗るのは素人には難しい。また、弁柄に柿渋を混ぜて塗ることもある。
 月日が経ち、風雨にさらされて色が落ちてきたら、油に墨をいれて塗る。足元の白華したところは油で拭くとよい。
 日常の手入れは、ホコリを落とし、雑巾で乾拭きすることでツヤが出る。

5.伝えたいこと
 弁柄は弁柄格子につかわれるとおり、京町家に使われる代表的な塗料です。木の美しさをいつまでも保ち、木の呼吸を妨げず、油拭きしておけばあとは乾拭きだけで済み、色落ちしたばあいは塗り重ねも可能で保守が容易です。また、柿渋は水をはじいて汚れや湿気を遠ざけ、防蟻・防腐効果があり、乾拭きすることでツヤが出て、年を経るごとに色が濃くなり深みを増します。いずれも日本各地で歴史的に長く使われてきたものであり、自然に根ざした材料で、安価で無害で、使うほどに味わいを深める塗料です。
 
語り手:今江清造(洗い)、荒木正亘(大工)
  


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?