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京町家との格闘をお話ししてみなさんと一緒に考えます

その6・京町家は長生き

建築関係の法規が、建物を建てることだけに向けられてつくられており、残すことの視点を全く欠如していること・・・ 村松貞次郎『日本近代建築の歴史』岩波文庫

ヤケ、コケ、クサレ 昔の大工は棟上げの時に心の中でこのように唱えたと聞きます。そうなれば仕事が入るということではなく、そうでない限り建ち続けるという思いと願いです。まさに木遣り歌の〝永永棟〟です。近・現代建築はメンテの要らないように強く建ててあるので、200年ないしは半永久的にもつというふれこみでしたが、実際は50年以上たち続けることがないのが実状で、3、40年で潰されることが多いです。理由は時代の要求に見合わなくなる、もっと儲かる建物がある、税制上の耐用年数が48年であるなどの耐久性とは関係ないこともありますが、手入れがしにくいないしは改修に膨大な費用が掛かるという理由も大きいのです。では大工や職方が、町家がいつまでも建っていると考えた裏付けは何でしょうか。

手直しのコピー

手入と出入 京町家に限らず伝統木造建築は手入れができるように造ってあります。また、手入れの必要な個所の点検も容易です。柱は見えているか床をめくれば確認できます。雨漏りも小屋裏をのぞくか屋根にのぼれば原因がつかめます。そして傷みやすい部分は取替や手直しが容易になっています。        例えば床組みは常に力がかかり傷みやすいので、本体の構造とは切り離して造ってあり、畳を上げて荒床をめくれば部分補修もやり替えもできます。柱は貫で緩くつながっているので、単独で揚げたり根継ができます。敷居は畳を上げて柱との間の栓を抜けば簡単に外せ、鉋をかけて溝を突き補修するも取り替えるも容易で、鴨居も同様です。瓦は釘で止めてないので、割れた瓦のみを差替えできます。運悪く隣家との取り合いから漏水して壁が傷んでも、塗替えができ元の土も使えます。そしてそれらの補修にかかる手間は数人工でたいした費用はかかりません。
 いま京町家を改修すると坪当たり30~50万円もかかってしまうのは空調などの設備やシステムキッチンなどの什器あるいは水廻りにお金がかかることもありますが、戦後50~70年の間ほうっておかれたことが主な理由です。前記の故障は早めに見つけて処置することが大事です。それを担保したのが「出入」です。家の状態を知りつくした職人が梅雨前や年末あるいは建具替えの時など定期的に確認しました。また、京町家が守られていたころの施主は自宅だけでなく、借家やなどの家作も多かったため玄人はだしで、故障の徴候を見つけたらすぐに職人に連絡して処置させました。つまりヤケ、コケ、クサレまでを見こした作り方と直し方が用意されていて、施主と職方の協働で町家を守ってきました。

フレキシビリティーのコピー

包容力と可変性 京町家は住まいとなりわいの器です。しかし間取を見ただけではどんな商いをしていたのかわかりません。その4京町家の暮らしと形・外で見たように特殊な商いは表の形でわかることもありますが、ほとんどは同じ表情なのでそれも難しいです。それは町家の間取りがどんな用途にも対応できる包容力をもっていたということです。それが江戸時代中頃に定型化した京町家が、所有者が変わっても商いが変わっても、250年変わることなく生き続けた理由です。また、取外し容易な建具で仕切られた室は祝儀不祝儀に対応でき、祇園祭が屏風祭りといわれるように、格子を外し虫籠を取り払い屏風をたてれば桟敷にも祭事空間にもなり、造作なくハレ空間に模様替えができました。すなわちなんでも入れる包容力とどんな暮らしの場面でも対応できる可変性(フレキシビリティー)によって、町家の型を大きく変える理由がなかったということです。

自然に逆らわない 要求された用途に限った合理性(科学的あるいは経済的)の追及、防水技術に頼って屋根をフラットにする、最新の設備を過信して更新を考えない、あるいは空調設備に頼り風通しや通風を無視した設計にする、強風や地震に対して抵抗一辺倒の設計をするなどが、近・現代建築の寿命を縮めています。洋の東西を問わず伝統建築はそこで手に入る材料で、立地する風土や文化を読み込み肉化して遺伝子として伝えてきました。
 日本建築ではもっぱら木、土、草を使って、高温・多湿・多雨の気候。自然を畏れ敬い親しむ文化、そして地震、台風などの災害を織り込んだ建築の遺伝子を伝えてきました。雨は屋根を架け受け止めずに流す、自然の原理を活用して快適な環境を作り、不朽や劣化を防ぐ手立てと手直し方法を工夫し、地震や台風は受け流す、というやり方です。
 阪神淡路大震災の後瓦屋根が重い伝統木造が被害を大きくしたと報じられ(前述のように伝統木造は淡路島を除きほとんどなかった)、瓦屋が危急存亡の時と実験による検証に走り回りました。瓦を降ろして金属板葺に替えた町家もありました。しかし近代までの町家を作り守ってきた町衆や職方は、ヤケようが、コケようが、クサレようが同じ町家型を建て続けました。それは伝統の建て方や守り方の普遍妥当性に信をおいていたからだと思います。

オープンな空間での改善・改良 いまの建築の法・基準は部材や仕口の強さを実験室で確認し、ある仮定に基づく計算法を定立し、災害時に起きた不具合を修正してつくられています。50年前には揺れ方の違う建物を構造的に切り離す必要性が充分には認識されておらず、接合部の破壊が生じてエキスパンションジョイントの基準が加わりました。阪神淡路の時には窓の腰壁や垂れ壁に拘束されて構造的に窓の高さになった短い柱にバッテンの割れが多くの建物に生じました。その形はほとんどの学校建築に採用されていたもので、それからは学校の柱と梁に囲まれた中にバッテンの補強筋違が入るようになりました―現在は筋違は強すぎて具合悪いということで「入型」や「Λ型」が多い―。11年の東日本地震大津波では初めて建てられてから40数年になる、超高層建築にとって危ない揺れ方(今まではないといわれた超高層の揺れ方に共振する長い周期の揺れ方)が観測され問題になりました。
 どうも部分部分は検証されていても、総体としてあるいは歴史的にどうなのかということが置き去りにされてきたようで、建ててから実験をしているといわれても仕方がない状況です。しかし本当の問題はそこではなく作り手がいつまでも建っています、あるいは何年は持ちます、と言い切れないことだと思います。そもそも法・基準に従わなければ確認申請が通りませんし、建築審査会(特殊な建築)をクリアーすることができません。ですから〝基準に従っています〟ないしは〝基準以上の配慮をしています〟としか言えません。また法律上すべての責任は建築士にあるのですが、わざとでなければ責任を問いにくいことになっているのです。
 伝統木造建築も昔からずっと変わらないわけではありません。奈良時代は軒を軒組と棰やはね棰(尾棰)で支えていましたが、雨から建物を守るために大きく張り出した屋根はどうしても垂れてしまうので鎌倉時代には桔木(天秤梁)で支えるようにしましたし、外来様式(禅宗様)により太い柱と長押(足元や開口上部に入れて太い柱を拘束)に代えて、細い柱と貫の構造に変わってきました。しかし木材の構造的特性を最大限に引き出すという基本的な構造は変わっていません。
 例えば建設に20年以上かかる五重塔は数100人に一人の選ばれた棟梁であっても、一生に一度かかわれるかどうかの命がけの大仕事です。サブとしてかかわった経験があったとしても頭としては初めてです。それでもいつまでも建っていると確信してし遂げました。そして現に戦乱や雷で焼けず。大風でなぎ倒されない限り建ち続けて今に残ります。それを達成したやり方は伝承と先達の技を引き継ぎ、自ら検証して改善・改良を重ねて次代に引き継ぐという行為のなかで、託された重責にふるえながら建てるというやり方です。そして閉ざされた実験室ではなく開かれた自然の空間で習得(現にある五重塔を参照することを含む)で確信(自律)した技によって建てられ、自然の風雪のなかで検証されてきました。そのことによって作りてはずっと建っていると思ったのです。五重塔に比べ町家はごくありふれた技だと思いますが。作り手の基本的な姿勢と確信は同じだと思います。

次は「京町家と地震、雷、火事・・・」すなわち京町家と災害についてみなさんと一緒に考えます。


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