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京町家との格闘をお話ししてみなさんと一緒に考えます

その10町家を作り守ってきた職人の技

保存から使うそして作るへ
 民家(町家)への関心は江戸時代からありましたが〔※1〕、本格的に注目されるのは失われるそれらを記録として残そうとしたときからで、1922年に出版された『日本の民家』〔※2〕を嚆矢とします。制度的には明治30年にその3・③で述べた神仏分離令(神仏判然令1868)が引き起こした廃仏毀釈の反省から「古社寺保存法」(1897)が定められ、「国宝保存法」(1929)も制定され,指定された民家もわずかにありましたが(旧国宝)、本格的には法隆寺金堂壁画焼損(1949)を契機に定められた、1950年の「文化財保護法」が民家を含めた保存のための法律です。それと軌を一にして調査、研究、出版が行われます。その動機はむろん歴史的遺産としての民家を継承するないしはその成果を新たな建築に活かすという思いはあったのですが、そのまま使い続けるのは難しく失われてしまうのは仕方ないというあきらめのなかで、記録として残す(例・全国民家緊急調査(1966~1976))〔※3〕あるいは典型的で文化財的価値の高いものを残すということでした。このころ民家を移築保存する民家園が各地にできました〔※4〕。また重要文化財の住み手からは規制が多くて住みづらいという不満が続出したのと、ヨーロッパ先進国の文化財の件数が数十万件であるのに対して、日本の2千数百件はあまりにも見劣りがするということで、文化財保護法に文化財登録制度(1996)が加わりました。外観を残せば内部についてはあまり口を出さない代わりに、補助金もほとんど出さないというものです。いずれにしても文化財であるほんの一部の民家を残すのであれば広範な職人の存在は必要としませんし、文化庁も地域の職方に期待しませんでした。
 1975年には文化財保護法の改正があり、個別の建物だけでなく歴史的景観をなす建物群としての保存を目指す「重要伝統的建造物群保存地区」が加わり、翌年には妻籠、産寧坂、白川郷(萩村)など6件が指定され、21年時点で126か所になりました。文化財ではない一般の民家を残そうという動きは1980年代から始まり、民家の改修設計のパイオニアも現れました。民家を残すためにその良さを残して現代の生活を実現できるかということがコンセプトでした〔※5〕。その再生活動の中で職人の不在は大きな問題にはなっていないようです。建物を持ち上げて布基礎に替えるという大掛かりなこともしていますので、曳家屋を含めて地方ではまだ伝統構法を担える建築生産組織が残っていたということでしょう。その活動に啓発されて民家の改修を手掛ける設計者なども増えていきました。
 しかし民家や町家は減り続け、中山間地でも草葺きの上に鉄板を被せた民家の横に、子どもが帰ってくる(来てほしい)ためのハウスメーカーの住宅が目立つようになりました。都市部でも1980年代のバブル景気の地上げでみるみる町家が減っていきました。そんななか1990年代末から広範に残る町家を直して守っていこうとする動きが始まります。重伝建地区や京都の私たちの活動です。直して守る対象は文化財ではなくこれまで見向きもされず放置され、伝統構法のしくみや構えに相応しくない改修をされてきた遍在する(どこにでもある)町家や民家でした。しかも安易に現代の技術に頼ったり、現代的暮らしへの転換を図るのではなく、昔の暮らしに戻すという事は無理にしても、少なくとも省察のうえでは伝統の継承にしくじった時点まで帰り、そこからどのように現在、未来に向けて残し守っていくのかを考え実践しようということでした。その時に直面した壁はこの論考のトップページに記したように広範にわたるものですが、取り分けて法制度、お金(銀行が改修資金を貸してくれなかったことも)、そして町家を作り守ってきた技が忘れられていたことでした。

技の再生と継承
  徒弟制度(親方制度)は明治末には廃れていました。しかし町家が作られ守られていた戦前まではそれに似た後進育成のしくみが続きました。戦後もそれは一定続くのですが、戦前のような伝統の技を必要とするものではなくなってしまいます。直して守る活動を始めたときにはすでに無くなってしまった職種もありました。エツリ屋(土壁下地の木舞を掻く職人)、トントン屋(土居葺き・瓦屋根の防水下地)、そして一番問題なのが「手傳(てったい)」です。今の鳶土工に当たりますが職域の広さが全然違います。地形(基礎工事)、建て方(棟上げ)、専門職が仕事に専念できるようにする段取り(瓦上げ、才取り―土粉ねや土揚げ)、三和土、設備工事(土工事関連)と専門の職域の隙間を埋めていて、建築生産にとって重要な役割を担うとともに生産効率を高めていました。また大工の年季奉公(5年+お礼奉公1,2年)を務めて転職した職人が手伝いになることが多く、大工の仕事も解っていてかつ他の職人と違い、始めから終わりまで現場にいるため段取りがよくわかっていました。棟札に大工棟梁と並んで手傳棟梁の名が記されていることが多いです。
 

施工応援

技や職人の不在を嘆いていても始まらないので、作事組では技の再生に取り掛かったことは頭書の論考に記しました。不在の職人の技については改修実践の中で再生に努めるようにして、三和土はもともと陶土や瓦土に使えないくず土に消石灰とにがりを入れて、手傳が施行した廉価な工法だったのですが、今やろうとすると高額な既調合の材料を使って職人が施工することになり4万円/㎡もかかるというので、土と砂と小砂利でくず土を作り作事組メンバー、施主の知人や近所の方に手伝ってもらって叩き、仕上は左官がということで、それを繰り返すうちに豆砂利洗出しとあまり変わらない単価まで下げることができました。木舞掻き(エツリ)はエツリ屋のように一日に10坪掻くというのはとても無理ですが、昔は結い(地域の共同システム)で素人が掻いていたようにさほど難しくはないので、左官や大工の指導で地域や市民に呼びかけて掻いてもらったりしました。トントン屋は一列3室型の普通の町家であれば2~3日で葺き上げたということで、手間賃から考えてそれほど高いものではなかったのですが、杮(こけら)士や檜皮(ひわだ)士に葺かせたらとんでもない値段になってしまいます。巻きトントンと呼ぶ既製品もあるのですが、木裏、木表がばらばらで使えないということで、あきらめて透湿性のルーフィングに代えています。いずれも単に失われた技の復活を目指すのではなく、三和土は適度な硬度で足腰にやさしく風合いもある、エツリは荒壁下地に欠かせず柔軟な構造にとって適度な土壁の強度が得られる、トントンは防水性と透湿、通気性が高いというように、今の工法より優れているという理由です。そのように改修実践を通じて伝統工法の再生あるいはそれに代わる現代の工法を試行して積み上げていきました。

京町家棟梁塾塾生募集パンフレット

 また施工マニュアル『町家再生の技と知恵』やその後の実践の成果を、かつての仕事を親方や兄弟子から聞いていた職人が健在のうちに、次代の職人に伝える必要がある、ということから職人塾を開くことを企図しました。03年初から構想を練り、その年末には「富山職藝学院」や「金沢職人大学校」の先進事例を視察しました。それでも確信がもてずメンバーの子弟を集めて「魁棟梁塾」と銘打ち04年10月から約半年間の日程で行い、これならいけるということになり、06年4月から08年4月の2年間で第1期京町家棟梁塾をスタートしました。内容は座学と各職現場実習と見学会で構成され、講師は主に各職親方です。5期続け約50人が卒塾しました。その卒塾生が作事組に所属して活躍しています。それは塾生に伝統の技に触れる機会を提供するだけではなく、講師の親方が教えることで改めて伝統の技を見直し整理する機会にもなりました。このようにして町家改修を直して守る技を共有することと、手慣れることで効率もアップしてきました。
今は改修しかできていませんが、江戸時代の大工も手入れがもっぱらで新築は年に1,2軒で、塵取りの直し、神棚修理などこまごましたものが中心でした〔※6〕。それでもときどきは出入のお店の家作や旦那寺の新築あるいは数寄屋普請もこなしたわけです。そのように改修工事は格好の修練の機会だったのです。いま町家が建築基準法の埒外になり新たに建てられるようになれば新築も可能です。

技を知り町家をみんなで守る
 〝昔は手間が安く材料が高かったが今は逆になった〟といわれます。今でも職人の手間代は日本の平均年収に比べて低すぎると思いますが、明治時代には今の半分ぐらい、江戸時代ではさらに安かったようです。戦前から戦後にかけての職人の休みは月に1日と15日の2日しかありませんでしたが、今は日曜日と祝日ですから8,9日はあり、そんな時代を経験した大工は〝休みのあわい(間)に仕事をしている〟といいます。それもかつての安かった手間を比較的に押し下げ、相対的に現在の手間を押し上げる要因になっています。
 またこれまでに述べてきたように町家は一部の富裕な施主が代々を考え、贅を尽くして建てたものが多いのです。そんな町家を広範な現代の施主の資金力で守るというのは大変なことです。いずれは市民、国民あるいは地域で守る、例えばクラウドファンディングやかつての地域の頼母子講のような町家の持ち主の互助の仕組みが必要になると思いますが、当面は持続性と自立性から是非がある補助金も活用しつつ、今の施主の資力の範囲と手間を省くことで乗り切ることになります。
 作事組では骨組みの健全性と屋根や外壁などの保全性ないしは景観上の表の外観などを優先し、内装、備品および設備はおいおいやっていきましょうとアドバイスしています。また職人の手間を省く手立てとして直営施工もあっていいと思います。材料の調達や調合は職人に任せ、職人の指導を受ければ素人でもできることはあります。左官でいえば木舞掻、荒壁付、三和土、あるいはあまり仕上りのよしあしを問わない厨子2階の壁仕上(今は素人でも塗れる材料も出ている)などです。塗装でいえば弁柄や柿渋塗、荏胡麻や亜麻仁油塗などです。頑張ればもっとあるかもしれません。これらは改修費を安く納めるだけでなく、自ら働きかけることで改修後の建物への愛着を深めることにもつながります。そして適切な改修工事をし遂げるためには今まで述べてきた町家のことを知っていただくとともに、各職方の仕事を理解してもらうことが大切です。それが町家に相応しくない改修をしない、優先順位をたがえない改修につながる早道だと思います。
 
以上の想いから各職の仕事の内容と職人の願いをこれからお話ししていきたいと思います。

※1考証的随筆の「守貞謾稿」『近世風俗志(一)』岩波文庫の「巻の三・家宅」、旅行家・菅江真澄のスケッチ『菅江真澄遊覧記』平凡社、探検家・松浦武四郎のアイヌの暮らしや住まいのスケッチなど
※2『日本の民家』今和次郎 相模書房
※3上記の新版の序(1954)にすでに「やがて、これに記されていることも、まるっきりといっていい位見失われてしまう時も来るかもしれない。もしそうなればこの本の値打ちも出てくるというものだろう」とあり、『民家は生きてきた』伊藤鄭爾(1963)には「もし私たちが誇り高き現代人の自尊心をもっているならば(略)むしろ輝かしい構想力に満ちた未来への現代的象徴として、民家を保存すべきである」と悲痛に近い訴えであり、『日本の民家』川島宙次(1978)には「(略)もう現代人の生活には適しないものとなった。(中略)伝統の美点を将来の建築文化に活かすことが必要である。日本民家の精神を次代に継ぎ残すうえに、これらの視点はどうしても大切なことである。」とあるとそのまま残すことは半ばあきらめている。
※4主要な民家園 http://www.tsuchiura.org/~liberalarts/kayabuki/minka/nihonlist.html
・日本民家集落博物館 豊中市服部緑地 1956年 12棟
・川崎市立日本民家園 川崎市多摩区 1967年 25棟
・金沢湯涌江戸村 金沢市湯涌町 1967年 6棟
※5『民家建築の再興』降幡廣信著 鹿島出版会 前文
※6『近世京都の町・町家・町家大工』日向進著 思文閣出版 P187 


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