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京町家との格闘をお話ししてみなさんと一緒に考えます

その7京町家と地震・火事・雷・・・―〔1〕

科学がほんの少しばかり成長して生意気盛りの年頃になっているものと思われる。天然の玄関をちらとのぞいただけで、もうことごとく天然を征服したようになっているようである。―寺田寅彦

自然の恵み 日本は温帯にあるモンスーン気候の島嶼(とうしょ)の国です。夏はおおむね南西の暖かく湿った風、冬は頻繁に北西の冷たく乾いた風が吹きます。四季の変化は明瞭で彩り豊かな自然が展開され、降雨量は多く実り豊かです。大地を裸地のまま置いておくのが困難で、五穀に何を入れるか迷うような国は他には少ないと思います。南北に長く亜熱帯から亜寒帯と称される域に気候帯の変化が連なり、脊梁の山並みが日本海側と太平洋側の気候を分け、地域色のある自然と風景をもたらし、一部の極寒、豪雪の地帯を除きめぐみ豊かで暮らしやすい国土です―温暖化でいく分崩れつつあるものの―。
災害列島 一方大陸プレートがせめぎ合う最前線に位置することで火山が多く地震や津波が多発し、台風は気圧配置により魅せられたように列島弧をなぞって進むことも多く、太平洋高気圧と大陸の低気圧の衝突で押し上げられた暖かく湿った空気が雲になり雷雨が頻発し、フェーン現象も夏冬問わず発生する災害列島です。
 そして自然の恵みと脅威の両極を織り込んで醸成されたのが、自然を敬い怖れる文化や工作物です。そのうち脅威の災害への対応がどのように京町家に織り込まれたのかを見ていきます。

地震に勝てるか 「恐れの中に恐るべかりけるは、只地震(ない)なりけりとこそおぼえ侍りしか」(方丈記)。盤石なはずの大地が揺れる恐ろしさが伝わってきます―メカニズムがわかっても怖さは同じですが―。京町家はとかく耐震性が取りざたされます。現に阪神淡路大震災に端を発した耐震改修促進法により、行政による耐震診断が行われていて、京町家も巻き込まれています。当初の耐震評価は建築基準法が指標でしたが、今は京町家に限定されたチェックリストで行われています。しかし京町家の構造を充分理解したものとはいえず(背後に建築基準法の新耐震(1981)が隠れていて)、耐震診断を受けた所有者が補強が必要といわれたが、やらなければいけないのかと作事組に駆け込んできます。これは京町家や伝統木造構法にあてる物差しが間違っていて誤りです。では京町家等は地震に対してどのような構え(かまえ)を取っているのでしょうか。

地震の起こり方 旧町家の地震の構えを見る前に地震と建物について基本的なことをおさえておきます。地震と建物被害の関係は震源でのエネルギー放出量、震源からの距離と振動の伝わり方、その場の地震動、支持地盤特性と建物の特性で決まるとされています。ではそれらの全てが解明されているかというと否です。
震源でのエネルギー 地震はプレートの沈み込みの摩擦のストレスが開放される海洋型と断層がずれて起こる内陸型が知られています。エネルギー量はマグニチュード(モーメントマグニチュード)で表されます。大きさだけでなく深さやずれる距離、時間などが地震動や津波に影響します。マグニチュードは最近まで8.6以上は起こらないとされていましたが〔※1〕、東日本地震大津波では9という数字が記録されました。たった0.4ではなくマグニチュードは数値がとてつもなく大きすぎるので対数で表していて、0.4の差は約4倍のエネルギー量になります。
距離と伝わり方 震源からの距離による地振動は基本的には遠くなるほど小さくなるのですが、ときには離れたところで大きくなったり、揺れ方が異なったりします。03年十勝沖地震では震源から離れた石油タンクのスロッシング(揺れにより液体の揺れが増幅)による倒壊と火災が起こり、11年東日本では東京だけでなく大阪の超高層が長周期振動で大きく揺れています。長周期振動は遠くまで伝わりやすいことがわかってきました。
ガル 地震動の大きさを表すガル・加速度という指標があります。ガルは瞬間的でそれを積算したカイン(速度)の方が建物被害との関連は大きいとされていますが、ガリレオに敬意を表してガルでみていきます。物を落とした時に速度が上がっていきますがそれを加速度と呼び、それは軽くても重くても同じであり、重力加速度と呼び980ガルです。建築基準法は耐震設計の設定を建物の耐用年限中に2~3回発生する中地震と、同様下で1回発生するかもしれない大地震に分けていますが、中地震で80~100ガル、大地震で300~400ガル程度とされています。しかし阪神淡路は最大818ガルでした。それはほぼ重量加速度ですから建物を地盤ごとむしり取って真横にして揺らすようなことです。また基準との開きに驚きましたが、新潟県中越地震(04)では2,516ガル、岩手・宮城(08)では4,022ガルで山が吹っ飛びました。こんなのが都市で起きたらと背筋が凍りますが、これはもう建築の作り方がどうのこうのという話ではなく起きないことを祈るしかないです。
震度階 地震動を日本では気象庁が震度階として定めています。1948年の福井地震を受けて翌年0~7の8段の震度階が定められ、阪神淡路大震災までの被害を受けて5と6に弱と強が定められ、10段階になっています。震度6の一段上の7を超える地震も含めて震度階は7止まりです。震度5強あたりから建物に被害が発生します。16年熊本地震では益城町で震度7が起き、立て続けに7の余震(本震)が起きみんなが驚きました。
共振 支持地盤特性と建物の特性では地盤の揺れ方と建物の揺れ方の一致が建物被害を大きくします。地盤や建築に限らず物には固有の周期(左右に揺れて元の位置に戻る時間・秒)があって、揺れの固有周期と物の固有周期が一致すると揺れが増幅され止らなくなり、それを共振といいます。ちなみにコンクリートの低層建物や今(建基法)の木造は0.2秒ほどで伝統木造は0.5秒程度です。そのような揺れ方はないといわれた超高層は4秒から5秒です。コーヒーを入れてテーブルまで運ぶとき、カップの中でコーヒーが揺れ出し止まらなくなりあふれてしまった。これは歩調の周期と液体の固有周期が一致し共振して起きた悲劇です。コーヒーがあふれるぐらいならよいですが、アーチ式の石橋が軍隊の行進と共振して崩壊、できたばっかりの最新式の鉄骨の吊り橋が風と共振して破壊してしまいました〔※2〕。以上みてきたように地震が起きるごとにいろんなことがわかってきました。裏を返せばまだまだ分かっていないことが多いということです。

勝てないまでも被害を減らす したがってどんな地震にも耐えられる建物といわれても、申し訳ありませんができません。でも被害をより少なくする方法ならあります。一つには建物を軽くすること、地震で建物にはたらくエネルギーは加速度×質量です。木造建物を1トンの軽乗用車としたらコンクリート建物は10トンのダンプカーです。同じ60㎞で壁にぶつかったときの破壊力の差は歴然です。二つに強さのバランスの良い建物にすること、平面で見たときの真ん中に強さの中心がくるようにすることです。三つには想定される地盤の揺れ方からそれる揺れ方をする建物にすることです。

京都の地盤 京都の地層は京都を囲む三山およびそれに連なる桃山丘陵とその山麓は洪積層の大坂層群であり、囲まれた盆地は扇状地の沖積層で、そのうち西側は桂川と天神川(紙屋川)の氾濫原の低湿地、それに接続する伏見から桃山丘陵南側を回り込んでつながる山科盆地の軟弱な低地で構成されます。洪積層は1万8千年までに洪水や堆積(湖中など)によってできた地層で、支持地盤としては極めて良好です。沖積層はそれ以降に洪積層が風化した土砂が堆積した地層で、軟弱なことが多いのですが、京都では砂礫が多く良好な地盤です〔※3〕。それは基本的に伝わってきた地震動のままに揺れるということです。軟弱地盤による揺れの長周期化や増幅および砂地と常水面が高いことで起こる液状化のユルユルは考えなくてもよいです―南部特に宇治川氾濫原と巨椋が池跡は要注意ですが―。

京の過去の地震データのコピー

歴史に学ぶ 東日本地震大津波が起きたとき〝貞観2年の地震以来〟と報道されびっくりしました。京町家の地震に対する構えを考える際に、過去の地震を一定程度調べていたからです。東北では100年ぐらいの周期で大きな津波被害を伴う地震に襲われていて、近くは明治三陸(1896)、昭和三陸(1933)、チリ(1960)と立て続けに起きており、特に明治三陸は揺れが小さいのに大津波になる津波地震で、伝承は生きていたはずですが、逃げる間がなく東日本より死傷者は多いのです。歴史に学ぶことは大切です。
王城の地 それでは京都の揺れ方と大きな建物被害についてみていきます〔※4〕。さすが王城の地というと〝そんなことはない〟と学者の先生に叱られそうですが、本当に少ないです。町家が型として確立された1,700年以降で確認すればよいのですが、それでは数例しかありません。50数年戻ると京都では史上最大の秀吉の慶長伏見の大地震です(1596)。その前は後醍醐の1317年、さらに前は鴨長明の1185年で、長明から後醍醐までが132年、それから秀吉までが280年です。これでは〝地震は100年に一度だから気にしなかった〟というのもうなずけます。
京町家を襲った歴史地震 慶長以降の大被害地震で拾えるのは1662年(寛文2年)、1751年(宝暦1年)、1830年(天保1年)です。そして濃尾地震が1891年(明治24年)ですが京都の被害は大きくないです。発生周期は慶長を起点とすると66年、89年、79年、61年です。宝暦は損壊程度で倒壊はないので同じく濃尾も省くと、66年、168年、それから今(2022年)まで192年間大きな建物被害を伴うものは起きていない(明日起きるかもしれない)ことになります。
揺れ方と被害 少ない事例による検証ですが、建物被害を伴う地震の震源は直下型(慶長)と準直下型(天保)で、寛文は震源が花折断層北端ないし三方断層との連動あるいは琵琶湖西岸(比良山系)の可能性になっていて、準遠地型なのかなと思います。また重い建物や工作物が壊れる地震(寛延、天保)と軽い町家が壊れる地震(寛文)に分かれます。大雑把に分類すると、直下型はガタガタが多く土蔵、築地などの重いものが壊(倒壊)れる、マグニチュードが大きいか震源が浅いとガタガタにドンドン、ユサユサが加わりほとんど潰れる、遠地型ないしは準遠地型ではユサユサで町家が壊れています。
支持地盤でつぶれる建物が変わる それは関東大震災の時に東大の西健教授が東大のある文京区本郷6丁目から自宅の小石川5,6丁目に帰る際の観察記録や、震災被害調査記録にある〝山の手では土蔵が倒れ、下町では町家がつぶれた〟という事実と符合します。同じ地震であっても山の手の洪積層では地震動をそのまま伝えガタガタと揺れ、下町の沖積層(軟弱)ではユサユサの揺れに変換・増幅されています。京都でも同様で烈震の慶長を見ると洪積層の東山では被害がほとんどないものの重い大仏は大破していて、西側の軟弱な沖積層の嵯峨嵐山では被害が大きいです。東寺は中間で倒壊と被害なしが共存しています。なお五重塔が健在なのはさすがです。なお、天保のガタガタ地震の記事に「すべての土蔵で被害、民家倒壊は千に1つもなし」、「端々(路地奥?)の民家の倒壊、壁、瓦、庇が落ち家が鳥籠のようになった」とあるのは後ほど町家の壊れ方を検証する際の参考になります。

町家のキラーパルス 上表に京都の被害がない、あってもわずかな濃尾地震、東南海地震、阪神淡路大震災を揚げたのは、震源が遠い遠地型の地震が町家の固有周期と共振する長周期の地震を京都にもたらすからです。また私自身が怖い思いをした阪神淡路の体験があるのと、京町家の改修相談でうかがった証言があるからです。
怖い思い 阪神淡路のとき私は4階建て杭支持の鉄筋コンクリートの集合住宅の1階で寝ていました。ゴーという地鳴りとどんと突上げる地震にたたき起こされました。ガタガタと長く揺れていろんな音に交じって躯体がきしむ音を聞き、私が設計したこの建物は壊れると思いました。明るくなって建物の確認をした結果、細かなひび割れはありましたが、斜めに入るクラックはなくほっとしました。後日近くの11階建ての集合住宅の最上階ではピアノが壁にめり込んでいたと聞きました。また小畑川を挟んで西山断層に近い公営住宅の妻壁にはバッテンのクラック(剪断クラック)が入っていて、道路は盛り上がり通行不能なところが何か所もありました。樫原断層に近い樫原宿には伝統構法の町家が立ち並んでいますが、瓦がずり落ち、ほとんどの灯籠が転倒していました。京都市の震度は5(強震計は中京の京都地方気象台のみ)でしたが、5強ないしは6弱ぐらいだったように思います。さらに驚いたのはここよりさらに震源から離れる亀岡で住宅の倒壊があったことです。断層の連なりや地盤の状態で被害は変わります。
大きく揺れて潰れると思った 相談を受けて訪ねた町家の方に親から聞いた話として、昭和19年の東南海地震の体験を伺いました。大きく揺れてびっくりして表に飛び出して町家の揺れるのを見ていたら、大きく左右に揺れて潰れると思ったが揺れが収まって、中に戻ったら何の被害もなく真っすぐになっていたとのことです。濃尾や北丹後(1927)も同じではなかったかと思いますが、揺れる時間が短いのか大きな被害を受けていません。
 
※1.『地震と建築』大崎順彦 岩波新書 1999第11刷 P41
※2.『建築の構造』M・サルバドリー/R・ヘラー共著 鹿島出版会2011
   P20,P22
※3.・防災基礎講座:地域災害環境編(京都盆地) 国立研究開発法人 防災        
     科学研究所自然災害情報室 
    http//dil.bosai.go.jp/workshop/06kouza_kankyo/pdf/12_kyoto.pdf
    ・「京都の地下」京都市消防局募債対策室 京都盆地地下構造調査委
     会監修 株式会社阪神コンサルタンツ調査 2001  
※4.『最新版 日本被害地震総覧416-2001』宇佐美龍夫 ㈶東京大学出版会 
   2003

ちょっと長くなってしまいましたので続きは次回に譲りたいと思います。




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