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京町家との格闘をお話ししてみなさんと一緒に考えます

その3.暑い、寒い、暗い、狭い、プライバシーがない?

現在の意味での科学は存在しなかったとしても祖先から日本人の日常における自然との交渉は今の科学からみても合理的なものである…『日本人の自然観』寺田寅彦

夏をむねとすべし 学生のころ民家園を訪ねたときのことです。真夏で汗を拭きふき茅葺民家の土間に踏み込んだ途端、全身が冷涼感に包まれ生き返った心地がしたことが忘れられません。日本の衣食住において、克服すべき気候上の課題は今も昔も高温多湿多雨です。したがって「家の作りようは、夏をむねとすべし。冬はいかなる所にも住まる。暑き比(ころ)わるき住居は堪え難きなり」(徒然草)となります。昔と今と気候が変わったわけでもないのに、現代日本の住まいは「高気密・高断熱」に変わりました。

左:前栽・軒、簾で日射を遮る 中:火袋の高窓・熱気を抜く 右:すべての建物部分の通風・通気 
※図は全て『町家再生の技と知恵』転載

自然作用による快適性 町家で蒸し暑い夏を過ごす工夫は、風を通して、体表面から蒸発熱(気化熱)を奪い、体を冷やす方法です。前栽(座敷前の庭)や中庭の樹木は木陰を作り地面を冷やし、蒸散作用によって気温を下げます。一方表の通りは土なので日射でサーマル(上昇気流)が生じて気圧が下がり、前栽や中庭から通りに向けて気流が発生します。打ち水はそれをさらに促進する効果があります。町家の向きは東西南北あるのですが、通りを風が抜けるため風向きに関わらず、町家の中を風が通り抜けます。風を通すため衣替えとともに建具替えをして、簾戸(すど)や簾(御簾:みす)で風を通すようにします。また、直射日光は軒と簾(すだれ)で遮ります。トオリニワは人の通り道ですが、風の通り道でもあり、吹抜け(火袋)に溜まった熱気を高窓や腰屋根から抜き、室から熱気を吸い込みます。さらに上敷きの緞通などを籐筵や網代などの比熱が低く、足裏の感触に冷涼感があるものに変えます。目には軸や花などの設えも涼やかなものにして、口には涼しげな菓子も用意されます。つまり自然の作用を最大限に利用したうえで、五感の涼しさを演出します。

人と建物の健康 通風通気は蒸し暑さの克服だけが目的ではありません。ロブ・ダンによれば、家の中の生物は数えられた範囲で約20万種だそうです。そのほとんどが人に役立つ共生者であり、生物多様性が守られていれば人に害をなすことはほとんどない(『家は生態系』ロブ・ダン)、ということです。そのうちの客人であるシロアリや腐朽菌(キノコ)は、木材の成分のセルロースやリグニンを食べて土に返します。彼らがいなくなれば瞬く間に地上が木質系のごみで埋まります。地球の環境にとっては(人と違い)欠くべからざる仲間です。しかし木造家屋にとっては厄介な仲間です。住まいでの仲間の活躍を防ぐには通風・通気が必須で(内陸の京都には乾材を食べるイエシロアリはいない)、それは床下や小屋裏も同様です。カビやダニあるいは病原菌を含めて、通風・通気は人と住まいの健康を守るための知恵です。

左:前栽と室の明暗 中:光と影・秦家中庭 右:仄明るいゲンカンニワの鉢植え ※特記なき図は『町家再生の技と知恵』転載

光と影、陰影を愉しむ みんなが都を目指すことで建て詰まった京の町では、全室南向き、日当たり良好とはいきません。間口が狭く奥行きが深く隣とは背中合わせ、そんな厳しい設計条件の中で先人は知恵を発揮しました。奥に前栽を設ける、大きな商家(表屋造)では中庭、ゲンカンニワを設ける、トオリニワ奥には高窓を設ける(ガラスが普及してからは天窓も)、ことで採光を図りました。前栽は樹木や下草を植え室内に緑の光をもたらすとともに、野鳥の立ち寄り先にもなり、都市の稠密な住環境に自然との共生をもたらします。中庭やゲンカンニワでは日当たりは期待できませんが、棕櫚竹や寒椿、シダ類や秋海棠などの日陰で育つ草木を植えます。ゲンカンニワは狭いので鉢植えで間に合わすことも多いです。日照は充分になくても採光と通風そして緑があれば、暮らしの健全とうるおいは得られます。縁側を介して前栽に面したオクの間は暗いです。特に北側のオクの間は照明を消すと(かつては「昼行燈」は点けなかった)暗闇に近いです。それだけに庭の明るさ(樹木の表が日に照らされている)との対比は鮮烈です。町家では光と影、そして夜の灯(できれば床置き行燈)による天井や床の間の陰影を愉しみたいものです。

壁やドアは必要か 私自身壁やドアのない家で育ち、自分の部屋をもったことはありません。30代半ばで自身の住宅を設計しましたが、やはり壁もドアもありません。そこで男女4人の子供が育ちました。そしてこれまでプライバシーで不自由を感じたことはありません―少なくとも私は―。大正から昭和にかけて活躍した藤井厚二という建築家がいました。伝統の日本家屋の住環境や意匠と近代建築のそれとの融合を目指し、大山崎に実験住宅と称する自邸を建て続けました。現在残るのは第五次の「聴竹居」のみです。その一次から五次の間取りの変遷を見ると、徐々に大きくなり個室も増えていき、聴竹居では通風・通気に難があるように見えます。家族が増えていくことに対応した、ということはあったかと思いますが、個室化(プライバシー確保)は世の流れだったのだと思います。私は田舎育ちのため時代に乗り遅れたのかもしれません。料亭の板塀に沿って設置される「犬矢来」があります。由来は諸説ありますが、その一つに塀に耳を当てて密談を盗み聞かれるのを防ぐ、というのがあります。秘密は町家でなくお茶屋や料亭で、というのもこじつけっぽいので、やはりモースが言うように、聞いてまずいことは聞かなかったことにするという、暗黙の諒解ルールがあったということでしょう。

以上の説明に対して、かつては合理的であったとしても今の世ではどうなの、という当然の反論に対する弁護と作法は後回しにして、次は町家の暮らしと形について、外と内に分けてみなさんと考えてみようと思います。


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