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【農業小説】第1話 市島ポタジェ|農家の食卓 ~ Farm to Table ~

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わが家の農場である「市島ポタジェ」が夏にトウモロコシを栽培するようになる前は、ここには放棄された雑草だらけの農地があった。

僕は土づくりから始めるために雑草の刈とりをして、それを堆肥化させたり、農地の周りの道やダムから引いている水路を整備したりしたものだ。

この雪深い丹波での作業は4月初めから始まる。

一か所にまとめた雑草を軽トラックに乗せた後に、堆肥化させる圃場にうず高く積み上げていく。こうして25アールの圃場は緑の山になった。

5月と6月になると雑草はわしゃわしゃ生えてくるから、雑草の種にまで熱をいきわたらせて死滅させていたので、堆肥化が追い付かないくらいだった。

それでも若草が干し草に変わる香ばしいような香しい匂いが僕はたまらなく好きで、ここに来るのが好きだった。

堆肥にしても動物のフンを堆肥にするのとは違って、発酵した成分が揮発するときの何とも表現しがたい香りで、この堆肥を早く圃場の土と漉き込みたい衝動に駆られていた。

僕はこれを分解の香りと表現していて、この地球での命の営みをたまらなく愛おしく感じるのだ。

僕にとって、堆肥作りは雑草をカットする作業から始まった。少しでも発酵しやすいように、トラクターに接続するチョッパーを使って毎日、クーラーの効いたトラクターの中で何時間も過ごしていた。

トラクターのなかは快適だった。読書をしたり、窓から見える圃場の地形をだまって観察したものだ。そうこうしているうちに特に才能はなかったけれど、同じ道のりを何度も行き来したおかげで、農道のどの部分にくぼみがあって、どこの圃場は入るときのスピードはこれくらいだとか、雨でぬかるんでしまいやすい場所はどこか、獣道があって猪の飛び出しに気を付けなければならない箇所など、見当をつけられるようになった。

整備前のでこぼこ道にさしかかることも、突き出た栗や柿の枝の下をくぐる頃合いだということも、十分に予測がつくようになった。

僕はこうして農道のへこみやへたりを頭に叩き込んで、「土」の性質を農地だけではなく、すべての土の性質を肌で感じ取れるようになっていった。

ところで農地に続く道の途中には柿農園がある。ここには5年ほど前まで私が管理している農地で先祖代々から、その農地を耕してきた地主の柿農園だ。

柿は高齢になってもつくれるらしく、僕は樹木医でもあったから、たまに柿の木の面倒を診たりしていた。

その地主から、これまでどんな作物を作ったか聞いたりしていた。生産履歴を知ることで適地適作もわかるし、もっといえば圃場毎に土の性質は変わるから、どういった肥料が合うかなど推察できるのだ。

少し専門的なことをいうと生産履歴によって施肥設計の違いが表れてくるし、畑一枚ごとでも違うし、もっといえば畝ごとに違う場合だってある。

「わしはな、それこそ何十年間も、この農道ができるもっと前から毎日この辺りを歩いたもんだ。日に何往復もしたこともあるで」

80歳を超えた地主の話は、いつも初めてその物語を披露するかのような調子で話し始めるのだ。

「わしはこの場所しか知らんけど、どの風景よりも、この辺りの農地が全部見渡せる柿畑から見る風景が好きやな」

「市島ポタジェ」に続く農道を登りきったところには8ヘクタールの圃場が開けていた。

「そやけど、今はほんまひどい状態やな、雑草は生え放題やし、その隙間に猪が子育てをして生活の基盤になっとーわ」

この農地を手に入れたいきさつを説明しよう。

僕が京都の丹波地方で農業をしていたときだった。2013年、2014年と連続の水害にあって大きな損害を出したし、畑は川に飲まれて砂が乗ってしまったので、そのままでは使えない状態になった。

多額の投資をして畑を立て直しても、また翌年も同じ目に合うかもしれない。そんなリスクは背負えないので新しく、まとまった農地を探していた。

僕たちは農業生産法人で社員も40名ほどいたし、パートさんたちも含めると100人を超える大所帯だったから、そんなに簡単には見つからなかった。

そんなときに突然、僕の自宅に怒鳴り込んできた人がいた。話を聞くと、2ヘクタールもの農地の耕作を放棄して逃げ出した農業生産法人があって、この辺りで大きな農業法人といえば”うち”だろうということで、やってきたそうだ。

思い込みが激しいのは田舎の人の共通の傾向だ。

うんざりしながら誤解を解いていたが、耕作を放棄して逃げ出したということは、その2ヘクタールという広大な農地が空いているということだ。だから、「全部うちが借り受けますよ」ということになった。これで、周辺の農地も駆り集めて合計3ヘクタールの農地になったので本社ごと移転したのだ。

「市島ポタジェ」の農園経営はこうして始まったのだ。そして雑草だらけの耕作放棄地を開墾して、畑を復活させたのだ。

それにもうひとつ、いや、これが本当の希望だったのかもしれない。この美しい風景を友人たちに披露したいという願いもあった。

僕は農業生産法人を経営するまでは、ビール会社でサラリーマンをしていた。だからということはないけど、お酒を飲みながら仕事をしたかったのもある。

別にアル中というのではなくて、自然の中で飲める仕事がしたかったのだ。圃場の横に流れている小川には雪解け水が流れていて、そこで冷やしたビールは格別だった。

特に初夏の草刈り時期には、刈りきったあとの草の乾く匂いの中で飲むのは最高だったし、昼には罠猟で捌いた猪や鹿の肉でBBQをほとんど毎日していた。

自分自身の評判のために言っておくと、自宅と直結した農場だから車は運転することがなかったし、トラクターはGPSの自動運転だったから安心して欲しい。

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