【短編小説】鉄塔の町:お久しぶり
エントランスを出て振り返り5階建てのマンションの外観を眺めても、やはり記憶にない。マンション傍の電柱の住居表示を見てみると免許証に記載されていたものと同じだった。ここが僕の住んでいた、いや住んでいる場所ということか。
『記憶が無い』という経験が記憶に無いから、とにかく何も分からない、という不思議な感じ。『記憶が無い』とはこんな感じなのか。
なるようになるのだろう、と今は決めて空を見上げる。良く晴れた青空は日差しが眩しく、思わず目の上に手をかざす。
覚えのない街並みのどこかに、記憶の欠片が見つからないかと淡い期待を持ちながらマンションを中心に辺りを歩き回った。
小一時間、路地を歩いたが記憶につながるような手がかりは見つけられないまま、マンションから直線距離で100メートルほど離れた公園にたどり着いた。テニスコート2面分くらいの広場を囲んで、滑り台やブランコ、ベンチ、花壇が配置されている。これといった特徴のない住宅街のありふれた公園だ。
公園では広場をグルグルと走り回る子どもや、木陰でギターを弾きながら歌う人、ベンチで語り合うカップルなんかがそれぞれの休日を楽しんでいる。少し歩き疲れた僕は空いているベンチを探したが見つからなかった。仕方なく女性が一人で座っているベンチに、なるべくその女性から離れて端っこに腰かける。
僕と反対側の端に座っているその女性が燻らす煙草の煙が漂ってくる。臭くて嫌な感じはない。寧ろ懐かしい感じ‥‥!
そのラッキーストライクの香りが僕の中の何かに引っかかった気がして、思わず女性を振り向くと、ジーンズに白いシャツのその女性もこちらを振り向き、ゆっくりと立ち上がって僕の目の前までやって来た。
僕はその女性を見上げる。
女性はくわえ煙草で僕の目を見つめたまま、僕の顔面にぐうパンした。
鉄の匂いと鉄の味。鼻血が滴る。
「お久しぶり」
そう言った女性の声からは感情が読み取れなかった。
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