「福田村事件」 少年と二人の少女
朝鮮人の少女は何故殺されなければならなかったのか。
福田村事件を今此処に生きる私の目前に現実として蘇らせるため、脚本に様々なエピソードが多角的な視点で練り込まれ、生の人間の営みが描き出される。朝鮮の少女は飴を買って貰ったお礼に、可憐な扇子を讃岐の部落から来た薬売りの親方に引渡す。母国語の自らの名前を告げる悲痛な叫び声が新宿の映画館に鳴り響く。
ドキュメンタリー「放送禁止歌」で森達也のことを初めて意識した。その時から岡林信康の「手紙」は私にとって忘れられない歌となった。森達也にとって一貫したテーマである集団と差別の問題は、映画の中で繰り返し言及される。提岩里教会事件で朝鮮人が殺されるのを目撃し加担した教師の恐怖と悲しみ、亀戸事件で惨殺された労働運動家の無念、エタと呼ばれる行商人が癩病患者に薬を売りつける残酷さに意識が覚醒させられる。
渡し守が煙管をくゆらせ、閉ざされた村の境界線である利根川を見つめている。軍隊で酷い目にあった男の横には、シベリア出兵で夫を亡くした豆腐屋の未亡人が寄り添っている。密通を働いている男と女は村の因習からつまはじきの存在であり、同時に村を支配する軍国主義を諦観する役割を担う。
聡明な親方が率いる行商団はおおらかに旅を続ける。故郷讃岐を後にする際、少女は少年の首にお守りを掛ける。そこに入れられた水平社宣言の紙片によって、少年は「エタである事を誇り得る時が来た」ことを知る。
「朝鮮人が井戸に毒を入れた」流言に村人は惑わされ混乱を極めていく。「朝鮮人なら殺してええんか」親方は真実を投げかける。村の女は亭主が朝鮮人に殺されたと疑心暗鬼に囚われ、赤ん坊を背負ったまま何の感情も無く親方の頭に鳶口を振り下ろす。神社の前で自警団に針金で縛られた行商団の女子供はお経を唱え、それはいつしか水平社宣言の抵抗の言葉へと変わっていく。ある集団が恐怖から自らを守るため、自分たちとは異質の集団を排斥して抹殺しようとする。愚かな人間が生きるこの社会の現実が映し出される。
お守りの力で少年は生き延びた。故郷の橋の上で少年を待ちわびた少女がただ黙って立っている。醜い世の中にほのかに瞬く光のように。