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行政書士になるまでの道のり①

行政書士の橋岡です。最近は猛暑日(記事の時点では8月)が続いていますが、皆様いかがお過ごしですか?お身体にはくれぐれもお気を付けください。さて、今回からはありがたいことに僕の生い立ちにや行政書士を志したきっかけ、独学での勉強法などをリクエスでいただいたので少しずつですが自分語りを含めてシリーズ化し何回かに分けて繰り広げていこうかと思っています(笑)。では早速、入管に提出する申請理由書のようなテイストで書いていきますね(嘘)。僕は愛知県の名古屋市中川区というところで生まれ育ちました。当時は治安はあまり良くなかったと思います。僕の両親は僕が小さいころから仲があまり良くなかったようで、物心ついたときにはすでに父親はいませんでした。うっすら覚えているような気がしますが、それが父との記憶だったかも定かではありません。ほどなくして母は精神を病んで「うつ病」を発症してしまいます。今から35年くらいは前でしょうか。当時は「離婚家庭」や「母子家庭」も珍しく、ましてや「うつ病」などという病気もあまり聞きなれない世の中だったと認識しています。当時は私は保育園の年中さんくらいだったと思いますが、母も精神病院に入院したので急にいなくなり、祖父母や叔母夫婦に面倒を見てもらうことになりました。この幼少期については状況に関しては覚えている、というより情報として「知っている」だけでその時の感情を覚えているか?というとあまり覚えていません。ただ、今思い返すと早い段階から「ああ、僕は周りの友達とは何かが違うんだ」ということを認識していたように思います。母はその後も僕が中学に進学するまでの約9年ほどの間に何度か精神科の入退院を繰り返しました。母のいた病棟は重度の患者が収容されるブロックだったようで、病棟の出入口を施錠され、、窓は鉄格子で覆われ、まるで監獄のようなところでした。そこに祖父母に週末なると面会に連れていかれ、母と対面でその週にあったことを報告する・・・。そんな感じです。小学校3年生の時ですが、退院してきていた母と二人で暮らしていたのですが、母が再びおかしくなり、僕は自宅に軟禁状態にされました。外出を許されるときは食料調達の時だけという状況が半年ほど続いたのですが、僕は当時、同級生や学校の先生からもあまりよく思われていないように感じていた(ようは軽い虐め?)ので、この軟禁状態は都合が良かった。学校が大嫌いだったから。おかしくなった母は次第に冷蔵庫やラジカセに話しかけるようになり、これはいよいよヤバいのではないかと思っていたタイミングで、しばらくして祖父と叔父が迎えに来ました。そこからは祖父母の家や叔父の家を転々とし、学校にも行ったり行かなかったり・・・。嘘のような本当の話です。別に不幸自慢をしているわけではありません。当時、僕には見えている世界がすべてだったし、こんなっ状況下でも優しくしてくれる人もたくさんいました。しかし学校の授業には全然ついていけず、なんとか小学校を卒業するころには死ぬほど勉強が嫌いになっていました。中学に上がるちょっと前にまた母が退院してきたので二人での暮らしが始まります。その後は僕の記憶では中学卒業までは入院はありませんでした。しかし、中学になっても勉強はますます難しくなるばかりでもっと嫌いになり、学校にも行かず、家でゲームしたり友達と遊んだりするようになっていきました。まあ、あまり言えないこともしばしば(笑)。中学校3年間の思い出は麻雀とスマッシュ〇ラザーズを友達の家で集まってひたすらやりまくる、またはゲームセンターで格闘ゲームをやりまくる・・そんな子どもでした。祖父の事業が失敗し、笑えるくらい貧乏だったので夕刊でしたが新聞配達もしました。3年生になると周りが進路の話で盛り上がります。友達が次々と進路を決めていく中、僕は非常に焦りました。どうしても高校に行きたかったので、当時成績が最低ランクでも入れる高校を担任の先生に探してもらいなんとか進学したものの長続きせず中退、結局就職することに。最終学歴は中卒(高校中退)ということになります。齢16歳。これ、もう23年も前の話になるんですね(歳がバレる)。この時点では行政書士なんて存在すら知りません。なんにも考えていませんでした。こんな少年時代を過ごした僕がどうして行政書士をやることになるんでしょうか?正直言って僕もよくわかりません。覚えている範囲で思うがままに書いてます。今回はここまででいったん区切りますが、続きはまた来週!気になる方は来週もお楽しみください。ではまた。

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