「縁(えにし)の使者の獣医さん」第3話
「奥さんの花壇」
僕は、今日も先生のところにやってきた。
先生の病院は先生の家の1階にある。玄関には奥さんがいつも手入れしている花壇がある。
今日も色とりどりの花が咲いていて、奥さんが、ちょうど雑草をとっているところだ。
今はグリーンマムの花がとても良い匂いをさせて蝶々の僕を引き寄せる。
グリーンマムに留まっていると奥さんが「あら。ベア。帰ってきたのね。」と蝶々になった僕に声をかけてくれた。
なんだか、奥さんには、僕のことがわかるみたいで、とってもうれしい。
神さまのお許しが出て、初めて先生のところにやってきた時もそうだった。
「先生に会いたい」
そう願って天国から舞い降りてくると、不思議なことに先生の病院にたどり着いた。
そこで僕は自分が黒い蝶々になっていることに初めて気がついた。
蝶々になった感覚は天国にいるのと同じような感覚だ。ふわふわっと自由に身軽に飛び回れるのがうれしい。
気持ちよくふわふわ飛び回っていると、どこからか、とてもいい香りがした。僕はその香りに引き寄せられて地上に舞い降りた。
ちょうど、そこには百日草が所狭しと色とりどりに咲き誇っていた。
僕が黄色のひときわ鮮やかな百日草の花弁に留まっていると、僕をじっと見つめる視線を感じた。
奥さんだった。
奥さんは不思議そうにじっと僕を見つめてから、ハッとするような驚きの表情を見せた。
そして「ベアね。ベアだよね?!帰ってきたのね!!」と僕に向かってそう言った。
僕が分かるの?!
僕は驚いた。けれど、とてもとてもうれしかった。
どうして、奥さんには蝶々になっているのに僕だと分かるのか、とても不思議だったけれど、とにかくうれしかった。
僕は奥さんの周りをくるくる3回、回って見せた。そして、再び、百日草の花弁で羽根を休めて奥さんを見つめた。
「やっぱり!やっぱりそうなのね!ベア。おかえりなさい。よく帰ってきてくれたわね。」
奥さんは少し潤んた目で僕を見つめ返した。
「ベアが天国に召されてから、私は、今、あなたが留まっている百日草を植え始めたの。『不在の友を想う』という百日草をね。そしてその花が咲き始めた。そしたら、そこにあなたが帰ってきてくれた。とっても不思議なことだけれど間違いなく神の思し召しね。」と満面の笑みでうれしそうにそう言った。
僕は奥さんの話を聞いて胸が震えた。
僕の事をこんなにも想ってくれる人がここにいること、そして、またこうやって会えたこと、それが、何よりうれしく誇らしかった。
「主人は、今はたぶん手術中だから、あなたと会えなくて残念だわ。けれど、このことは必ず、あの人には伝えますからね。安心して頂戴。そして、またいつでも帰ってきてね」奥さんは僕に優しくそう言ってくれた。
それ以降、気が付けば僕はここにやってきている。
ここは心がわくわくして、うれしくて、花々が美しくて、香りが素敵で、天国のようなところだ。
今日も僕はグリーンマムから元気に飛び立って、奥さんの周りをくるくる回ってから、先生の家の3階べランダちかくの高さまで飛び上がって見せる。
「僕は元気だよ」と奥さんに伝える。
すると奥さんは「うふっ。今日も、元気だね。ベア」と喜んでくれる。
奥さんとそうやってお話できる日は、僕のことが先生にも伝わる。
先生は相変わらず、いつも忙しくて、先生にはなかなか会えないけれど、奥さんがいてくれるから助かる。
奥さんが手入れする花壇には年中、花が絶えない。
真夏や真冬は花を絶やさないようにするのが一苦労らしい。
動物病院は動物たちを救う場所でもあるが、命が看取られる場所でもある。
僕のように病気と闘い抜いて天国に旅立つ命を見送る時にせめて手向けの花を添えて送ってあげたい、そのために、いつもいつも奥さんは花壇を手入れする。
そして、その時がきたら惜しげもなく、今を旬と咲き誇る花すべてを切り取って色とりどりの花束にして、去っていく小さな命に手向ける。
僕に添えられたあの花束も、そんな奥さんの思いが詰まった花壇に咲き誇っていた花たちだったんだ。
それが蝶々になって奥さんの花壇に舞い降りるようになってからわかった。
そう言えば、僕に手向けられた眩いばかりの金色の美しい花はガザニアという花だそうだ。
ガザニアは初夏に咲く華やかな彩の花だ。
「あなたのことを誇りに思う」という花言葉があるらしい。
奥さんはあの日、天国に旅立つ僕に向けて、ガザニアの花言葉にありったけの思いを添えてあの花束を手向けてくれたそうだ。
「ベアは本当によく頑張って生き抜いたと思う。とてつもない障がいを抱えて、それでもけなげに、強く生き抜いた。あなたのその崇高な生きざまは私たちにたくさんのことを教えてくれたわ。私たちは、そんなあなたに出会えたことが本当に幸せだった。一緒には暮らせなかったけれど、そんなあなたを私たちは誇りに思っているのよ。だからベアの旅立ちにはガザニアがぴったりだったのよ」と奥さんは僕に話してくれた。
天国に旅立つ命に、花言葉に思いを添えて花を手向けたい、そのために、毎日、毎日、奥さんは花壇の手入れをしている。
僕が今日、よい香りに吸い寄せられた小菊も本当なら、こんな寒い時期には咲かないそうだ。
けれど、奥さんの裏ワザ(?)で、この時期に、今を盛りと咲いているのだと奥さんはちょっと自慢気に、そして、僕がグリーンマムにくびったけの様子をうれしそうに見つめながら、そう教えてくれた。
そして、飛び立つ僕に向かって、「今日は北風が強いから、吹き飛ばされないように帰るのよ。」そう言って、僕を見送ってくれた。
「心の声の代弁者」
僕は、今日も先生のところにやってきた。
いつものように今日も奥さんの花壇には香しい花の香りが満ち満ちていて、否が応でも蝶々の僕は引き寄せられる。
特に今は黄色いジュリアンの香りに引き寄せられる。
お花の植え替えが終わった直後なのか、奥さんが汗を拭きながら僕を見つけて「あら。ベア。おかえりなさい!!」と声をかけてくれる。
「おかえりなさい」といわれることで、僕は先生たちの家族として認められているようで本当にうれしくなる。
ぼくはうれしさのあまり、いつもより勢いよくクルクルと奥さんの顔の周りを回って、勢いよく3階べランダちかくの高さまで飛び上がって見せた。 奥さんは嬉しそうに、眩しそうに、そんな僕を見つめて、「今日も、元気でいてくれてありがとう。主人もきっと喜ぶわ。」そう言ってくれた。
奥さんは僕のことを欠かさず先生に伝えてくれている。僕はここに来るたびに、本当に満ち足りた気持ちになる。
そんな気持ちでフワフワと浮かんでいる時、ふいに
「あー。お腹が苦しい。痛い。痛いわ」という声が聞こえた。
どうもその声は病院の中から聞こえてくるようだ。
その声に引き寄せられるように建物の壁に向かって体当たりしてみた。
すると、僕の身体はスルリと壁を通り越して病院の中に引き込まれた。
そこは以前、僕がいた病室がある部屋だった。壁をすり抜けた僕は、ちょうど天国に還った時と同じように天井からその部屋全体を見下ろすような場所にいた。
蝶々の姿のままではなく、透明な魂の姿をしている。
そうか。僕はベアの身体から魂が離れた時と同じ状態に戻ったんだ。
そんなことを考えているうちに、再び「痛い。痛いのよ」という声が聞こえてきた。
その声は、ちょうど僕が入院していたICUと呼ばれる病室から聞こえる。
声の主は、体格の良い8歳のマンチカン。
栗毛色の毛並みが美しいミーシャ。お腹が痛いため、背中をまん丸にしてうずくまっている。明日が手術らしい。
パパがママに内緒でこっそり食べたおやつのアーモンドがリビングの床に落ちていて、それを丸ごと食べたことでミーシャの腸がアーモンドで詰まってしまったそうだ。
そのため、お腹がパンパンに張って明日は手術でアーモンドを取り出すらしい。
ミーシャは「家にはハイハイを始めたベビーがいるの。その子は床に落ちたものや目に入ったものを何でもお口にいれてしまう時期でママさんはとっても心配して注意しているの。でもパパさんはあまり気にしてなくて。おととい、パパさんが落としたアーモンドをそのベビーが拾おうとしたのを私が前足で弾いた途端、運悪く私の口に入って間違って飲み込んでしまったの。その結果、こんな目に」と悲しそうに言った。
「でもね。今日、先生がパパに『お父さん。子どもさんが小さい時や動物を飼っている間は親がしっかり気を付けてあげてくださいね』と言ってくれたの。これで私の努力も報われると思う。」
そう言ってミーシャは安心したように微笑んだ。
通常、アーモンドや落花生などスルリとのどを通り抜ける大きさのものを、ネコたちは遊んでいる最中にまちがって飲み込むことが多い。
気管に入って窒息することもそんなに珍しいことではない。
人間の赤ちゃんたちと同じだ。
ミーシャは今回、赤ちゃんをかばって運悪くアーモンドを飲み込んでしまったが、そもそもアーモンドが落ちていなければわざわざ腸を切り開くような大手術を受けなくてもよかったのだ。
人間が気を付けてあげるしかない。
赤ちゃんを身を挺して庇ったミーシャの気持ちを知ってか知らずか、先生は「ミーシャはお子さんの身代わりになってくれたんだと思いますよ。ひょっとしたら、ミーシャは赤ちゃんがいつか間違って誤飲して大きな事故になるかもしれないから気をつけてほしいと、自分の身を挺して飼い主さんに教えてくれたのかもしれませんよ」と言ったそうだ。
パパは先生の言葉にハッとして、診察台の上で痛みのためにうずくまるミーシャをなでながら、「すまん。ミーシャ。ごめん。これからはちゃんと僕が気を付けるからね」と言ってくれたそうだ。
物言えぬ動物の思いを代弁して、先生はちゃんと飼い主にその思いを伝えてくれる。
ミーシャの思いと今回のアクシデントを人間である先生が知っているはずがないけれど、なんだか、先生は動物の「心の声」が理解できるのかもしれない。
そう。先生はいつも動物の味方だ。
そうだ。僕がベアとして生きている間もずっとそうだった。
「動物たちの守り神」
僕は、今日も先生のところにやってきた。
今日は花壇に奥さんの姿はなかった。
だから、今を盛りに咲き誇る紫のラナンキュロスの花弁にだけ少し寄り道して、僕はスルリと病院の中に入り込んだ。
今日も病院は大賑わいだ。先生たちも本当に忙しそうだ。次々に飼い主さんを引き連れて病気の動物たちがやってくる。
でも、なんだか煙い。
ふと見ると、診察室からもくもくと煙が噴き出している。
覗いてみると、とんでもない光景が目に入って僕は息をのんだ。
なんと、先生が診察台の上でダックスフントの背中に火をつけて燃やしているところだった。
えっ?!先生!なんてことを!
そう僕は思ったけれど、如何せん、当のダックスフントは背中を火で燃やされて熱くてしかたないはずなのに気持ちよさそうにウトウトしている。
飼い主さんもダックスフントの横で先生とのんびり笑顔でお話している。
その時、夢うつつのダックスフントがぼんやり目を開いた。
僕は「大丈夫ですか?」と恐る恐る聞いてみた。
ダックスフントのハリーは
「ん??いやあ、気持ちよすぎて眠ってしまったよ」と大あくびをした。
「熱くないのですか?」と僕が聞くと
「熱くはないよ。これはね。お灸といってワシの腰のヘルニアを温めて先生が治療してくれているんだよ」と教えてくれた。
ハリーは12歳。
半年前、急に後ろ足がしびれて歩けなくなってしまった。
かかりつけ医である他の病院で腰椎ヘルニアの手術をした。
そのあと必死でリハビリに通って再び歩くことができるための治療をあれこれやってみたが、歩けるような回復の兆しは一向に見られなかった。
それでも再起を諦めきれない飼い主さんは、いろいろな人づてにハリーのような状態の犬を歩けるようにできる獣医師さんはいないのか、とにかくできる限りの情報を必死で集めてくれた。
そして、とうとう、同じような状態から完全復活した犬の飼い主さんと巡り合うことができた。
そうやって先生の「鍼灸治療」にたどりついたそうだ。
そして1か月前頃から、ハリーは遠い町から通院に1時間かけて1週間に1回通ってきている。
どうやら先生は鍼灸治療の名医らしい。
ハリーの他にも同じような腰椎ヘルニアで歩行困難になった動物が鍼灸治療に2~3か月通い、加えて漢方薬をのむことで歩けるまでに回復する動物が続出しているそうだ。
「歩けないことほど、つらいことはないよ。自分自身がはがゆくてね。
ワシの一番の幸せは朝夕、ママさんと川沿いをのんびりお散歩することだったんだ。いつもは忙しいママさんだが、散歩の時はのんびりと歌を口ずさんだり、河原でワシと寝転んでゆっくり流れていく雲を見たり、二人で穏やかな時間を過ごすんだよ。それがワシには至福の時間だった。
けれど、それが突然できなくなってしまった。
再びできる希望も全くない。そんな状況に一時期は絶望したよ。散歩どころか、トイレにだって行けないんだ。仕方なくオムツを使う有様にママさんもそんなワシを心配して泣いてくれていたんだ。
けれど、ここにきて治療が始まってから足のこわばりがなくなって後ろ足に力が蘇ってきたのがわかるんだ。
今はまだ歩けないけれど立ち上がることができるようになったんだよ。
本当にすごいことだよ。寝たきりだったワシがもう一度、立ち上がることができた。
その瞬間、ワシとママさんは抱き合ってワンワン、わんわん泣いて喜び合ったんだよ。
先生はお灸の他にも鍼を体のあちこちにさして血流をよくするという治療もしてくれる。
お灸も鍼も傍から見ていると、痛かったり熱そうに見えるらしいが、とんでもない。本人は本当にいい心持で腰や足が本当に温かくなる。
でも先生の手もまるでお灸のように不思議なほど温かいんだ。
それに先生がワシに『ハリー、もう大丈夫だ。絶対、俺が歩けるようにしてやるからな!』と言ってその温かい手で腰を触ってくれると、本当に『ああ、きっと、ワシは歩けるようになるはずだ。この先生は、絶対、ワシを歩けるようにしてくれる。』と思えるんだよ。
先生はなんだか本当に不思議な人だよ。」とハリーは話してくれた。
ああ。僕の時と同じだ。
先生は本当に動物の味方だ。動物の心が手に取るようにわかるんだ。
そして、僕たちを助けたいという熱い思いが、先生の言葉や手のぬくもりや優しいまなざしにそのまま表れているんだ。
「この子を助けたい」そんな思いのありったけを込めて、たくさん勉強もして、あの手この手でその動物に必要な最適の治療をしてくれる。
だから動物たちは安心して先生に命を委ねる。
ハリーもきっとそのうち歩くことができるようになるはずだ。
先生は動物たちの“守り神”なのかもしれない。
「再会」
僕は、今日も先生のところにやってきた。
今日は花壇のブルーデイジーが僕を強烈に引き寄せる。
しばらくブルーデイジーの彩りに寄り道して、僕は今日もするりと病院の中に入り込んだ。
今日も病院は大賑わいだ。
なんだか、いつもよりも賑わっているように思える。待合室も診察室も処置室も入院部屋も、なんだか満員御礼状態だ。
それでも、続々と飼い主さんを引き連れて動物たちがやってくる。
今日の待合室では多くの動物たちが
「注射は嫌だな」、「コワいよ。イタイよ。イヤだよ。」「帰りたいよ~」と口々に不安そうに憂鬱そうな声で飼い主さんに訴えている。
けれど、飼い主さんたちは他の飼い主さんとの「わが子自慢」に忙しかったり、看護師さんにあれこれ心配なことを相談していたり、もっぱら、人間どおしのおしゃべりに余念がないようで、動物たちの悲壮(?)な訴えは飼い主さんたちには一向に届いてない様子だ。
そして、そのうち名前が呼ばれ無慈悲にも動物たちは
「注射はいやだよ~~」という叫び声を残して診察室に連れられてゆく。
その中で、僕はふと、どこかで見たことがあるような猫2匹を見つけた。
2匹の猫たちはケージの中でなんだか小競り合いをしている様子だった。
三毛猫が「今日はお前が先に行けよ」と言うと、黒猫が「いやいや。今日はお前の番だろう!」とお互い前脚で相手を小突きながらどちらが先に注射されるかについて言い争っているようだった。
2匹は僕の視線に気が付いて
「あれっ。君はもしかして俺たちが拾われてきた時に入院していた黒猫じゃないのか?」と三毛猫が僕に声をかけた。
そうか、思い出した。あの時の5匹の捨て猫たちだ。あのミルクの飲みが弱々しかった2匹の猫たちだ。
「そうだよ。僕はあの時、一緒に入院していたベアだよ。覚えてくれていたんだね。」と僕が言うと、「覚えているよ。俺たちが処置室でユウママに世話をしてもらっているのをずっと見てたよね」と黒猫が言った。
「ユウママ?」
「ああ。俺たちの母さん猫さ。先生の長男はユウちゃんっていう名前なのさ」
「ああ、それでユウママ・・」
「俺たちはユウママに大切に大切に育ててもらった。俺たち2匹は特に体力がなかったからユウママには本当に世話をかけたよ。元気な3匹は早い時期に飼い主さんが見つかって貰われて行ったが、俺たち2匹はグズグズと下痢が続いたり鼻水が出たりして、なかなか飼い主さん候補が現れなかった。
結局、ユウママが自分の友達を介して今のパパたちを見つけてくれて、俺たち2匹一緒に引き取られることになったんだ。今は幸せだよな」と三毛猫が黒猫に問いかけた。
「うん。とっても優しいパパたちだよ。俺たち幸せだ。しかも兄弟一緒に暮らせてるんだよ。これ以上、幸せなことはないよ」と黒猫が目をキラキラさせてそう言った。
三毛猫も黒猫も立派な成猫に成長している。
そして目をキラキラさせて「幸せだ」と胸を張って言うその姿が本当にうれしい反面、羨ましくも感じるほどだ。
その時、ちょうど、2匹の名前が呼ばれた。
2匹は「ひぃぃ。ヤダヤダ。」と叫びながら「はーい」と元気よく返事をした飼い主さんに連れられて診察室に消えて行ってしまった。
よかった。先生のところから新たな飼い主の元に引き取られた猫たちは、こうやってずっと先生に見守られながら幸せに生きていくんだということがわかって、僕はとてもうれしかった。
今の時期は予防接種や健診の時期で、先生の病院も一年のうちでも最も繁忙期にあたる。
今日も、病気の動物というより、病気にならないために元気な動物たちがたくさんやってきているような雰囲気だ。
そんなあわただしい雰囲気の中、僕は昔の僕の病室にひっそりと横たわる柴犬を見つけた。
その犬を取り巻く空間は、今日の病院の雰囲気とはあまりにもかけ離れている。
そこに横たわる柴犬はとても浅く早く苦しそうな呼吸をしていて、周囲の元気溢れる雰囲気とは明らかに異空間に思えた。
僕は思わず「大丈夫ですか?」とその柴犬にそっと声をかけた。
僕の声に柴犬のケンタローはうっすらと目をあけて「ああ、ありがとう。でも大丈夫じゃないよ」と息も絶え絶えに咳き込みながら横たわったまま、そう言った。
「ひたむきな愛」
ケンタローは6歳。
ケンタローは、おじいさんとおばあさんの家の外の立派で大きな犬小屋に住んでいる。
ケンタローは、おじいさんたちを不審者から守るために3歳の時にもらわれてきたそうだ。
おじいさんたちはケンタローをわが子のように大切に可愛がってくれる。
ケンタローの楽しみはおじいさんとの朝夕の散歩だ。
おじいさんは早起きだ。おじいさんは起きてすぐにケンタローを散歩に連れ出す。
早い時間の散歩にはワケがある。
人がいない草っ原までやってくるとおじいさんはケンタローのリードを解いて自由に走り回らせてくれる。
おかげで誰にも邪魔されず、思い切り、夜露をたっぷり含んだ湿った草の感触を楽しみながらケンタローはお腹がすくまで走りまわることができる。
おじいさんは、ケンタローが元気に駆け回るその姿を目を細めてうれしそうに眺めている。
ケンタローは、いろんな場所にしっかりとマーキングをし、ウンチも終えてすっきりし、十分ストレスを発散してからベンチに座るおじいさんのところに戻っていく。
おじいさんは「楽しかったかい?」と優しくケンタローの頭をなでていつもそう言う。
ケンタローはその温かなおじいさんとの時間が大好きだった。
一方、夕方の散歩はその逆で、どちらかというとお日様がそろそろ山の端からも見えなくなる、いわゆる黄昏時に二人で家を出る。
おばあさんは「すっかり暗くなってきましたよ。もう少し早い時間に変えたらどうなの?」とおじいさんにいつも出かける時にそう言う。
けれどおじいさんは相変わらず黄昏時に散歩にでかける。
一日中ずっとリードにつながれっぱなしで自分たちを守ってくれているケンタローを、おじいさんは、一日の終わりにのびのびとした草っ原で自由に駆け回らせてやりたい、そう思っている。
おじいさんのその思いがケンタローには痛いほどわかっている。
おばあさんの心配する声に後ろ髪をひかれながらもケンタローはおじいさんのその思いがうれしくて、二人で嬉々として散歩にでかけるのだ。
ただ、ケンタローは夕方の散歩は少し苦手だ。
というのは草っ原のすぐ横には川が流れているせいか、夕方の散歩では、よく虫に刺されてしまって身体のあちこちが痒くなるからだ。
ベンチで待つおじいさんもポリポリと虫にさされたところを搔きながらケンタローを待っていてくれる。
だから朝に比べて夕方のお散歩は早めに切り上げて二人は帰路に就く。
けれど朝夕のこの至福の時間は二人にとってはかけがえのないものだった。二人とも、多少、虫に刺されたところが痒くても自由に走り回れる幸せとおじいさんと過ごす二人の時間だけはケンタローは誰にも邪魔されたくはなかった。
ところが、どういうわけか、3か月前ごろから急にケンタローは大好きなその散歩が億劫になってきた。
というのも、すぐに疲れてしまうのだ。
走り回るとなんだか咳もでてくるようになった。
なんだかけだるくて、食欲もおちてきた。じっとしてても咳がでてくるようになり、そのうち、息苦しさがどんどん増してきて、もはや起き上がって動くことができなくなってしまった。
その上、お腹のあたりがどういうわけか膨んできたようでなんだか重い。もはや散歩どころの状態ではなくなっていた。
おじいさんはケンタローの異変に早くから気付いていたが、その異変に気付かないふりをしていた。
どうしていいかわからなかったからだ。
おじいさんは、これまで一度も動物病院にケンタローを連れて行ったことがなかった。というより、ケンタローはこれまで一度も大きな病気をしたことがなく、すこぶる元気に育ってくれていたから動物病院とは無縁で過ごしてこれたのだ。
けれど、ケンタローのこの様子はただ事ではないということだけはおじいさんにもおばあさんにもわかっていた。
おじいさんは、ケンタローの異変を見るに見かねて先生の病院に初めてケンタローを連れてきた。
ケンタローの様子を診るなり、いつもは優しい先生が
「この子がこんなに苦しんでいるのは、飼い主さん、あなたのせいですよ!」と声を荒げて、たたきつけるようにおじいさんにそう言った。
おじいさんは先生のあまりの剣幕に、ただただ圧倒されてワケも分からず、しばらく何も言えずにいた。
すると先生は「言い過ぎました。すみません。」と呼吸を整えるように深く呼吸をしてから
「けれど、なぜ、家の外で飼っているならフィラリアの予防をしなかったのです?!それさえしていれば、この子はこんなに苦しまずにすんだし、そもそも、ここまで取り返しのつかないことにはならなかったはずです。」と言った。
ケンタローは重度のフィラリア症にかかっていた。
ケンタローは狂犬病の予防接種は毎年していたが、フィラリアの予防はしたことがなかった。
おまけに、外で飼われていたこと、毎日のように蚊に刺される機会があったことなどがケンタローの血液中に蚊によってフィラリアが植え付けられる原因となった。
ケンタローの心臓から肺臓に至る血管は、数十㎝の長いフィラリアの成虫にぎっしりと埋め尽くされ、蝕まれ、血流障害と呼吸困難を引き起こしてしまっていた。もはや末期と言わざるを得ない病状まで状態が悪化していたのだ。
おじいさんは先生からケンタローの病状とその原因を聞いて、「ううむ」と、うなって両手で頭を抱え込んだまま黙りこんでしまった。
おじいさんにとって、これほど残酷な告知はなかった。
おじいさんは、わざとフィラリアの予防をしなかったのではなくて知らなかったのだ。
昔は犬は番犬として外で飼うものだったし、フィラリアの予防をする必要があることなど全く知らない情報だった。
ケンタローにとって良かれと思って毎日連れて行ったあの夕方の散歩がケンタローの命を脅かすことにつながっていたなんて思いもしなかった。
おじいさんは、いくら知らなかったと言え、自分の無知がケンタローをこんな重篤な状態に陥れたことに悔やんでも悔やみきれないほど自分を責めているように見えた。
先生はその様子をしばらく黙って見ていた。
けれどこれ以上、時間を無駄にはできないとばかりに
「飼い主さん、打ちのめされている場合ではありません。しっかりしてください。このままではケンタローは死んでしまいます。時間の問題です。とにかく緊急に手術が必要です。ケンタローの心臓から肺の血管を埋め尽くしているフィラリアをとにかく取り出さなくては。どうしますか」と、厳しい口調で先生はそう言った。
おじいさんは弾かれたように頭をあげ、我を取り戻したかのように
「先生、お願いします。私のせいです。ケンタローがこうなったのは。私のせいです。だから私は何でもしますから、どうか、どうか、ケンタローを助けてやってください。お願いします。お願いします」と言って、そのまま泣き崩れてしまった。
その時、診察台で苦しそうに浅い息の下、朦朧とした意識の中でそのやりとりを見ていたケンタローが、突然、起き上がって先生にむかって激しく吠え始めた。
牙をむき出し、今にも先生に飛びかからんとするかのように吠えたてたのだ。
おじいさんの前に立ちはだかり、まるでおじいさんを傷つけようとする敵からおじいさんを守るように。
それは誰もが目を疑う光景だった。
あんな状態で息も絶え絶えのケンタローが立ち上がって、あらん限りの力をふり絞り吠えるなんて、普通では到底、考えられないことだった。
みんながその一瞬の出来事に息をのんで呆然と立ち尽くしていた。
次の瞬間、ケンタローは、そのまま診察台の上に膝から崩れ落ちるようにバサリと音を立てて倒れた。
ケンタローには意識がなく白目をむいて泡を吹いていた。
「気管挿管だ。ルート確保!」先生が看護師さんにそう叫ぶと同時に、ケンタローの命を救うための先生たちの必死の闘いが始まっていた。
先生たちが必死の救命措置をして、ようやくケンタローの意識が戻るのに30分くらいを要した。
それが今日の午前中の診察時間のできごとだった。
「先生がオレのために、じいちゃんを怒ってくれていたのはわかる。
先生に楯突いたのに必死でオレを助けてくれたことにも本当に感謝している。けれど、じいちゃんは何にも知らなかったんだ。じいちゃんは何にも悪くないんだよ。
じいちゃんはオレのことだけを思って今まで育ててくれたんだ。オレはこのまま死んだって、じいちゃんたちには感謝こそすれ何の恨みもないよ。
これでいいんだよ。オレはじいちゃんたちに引き取ってもらって幸せだったんだから。」と苦しい息の下、ケンタローは、これまでの話とおじいさんたちへの偽らない思いを僕に話してくれた。
「どうやら、明日、オレは手術するらしい。」
そう言うと、ケンタローはぐったりと疲れ切ったようにその目を閉じた。
次の日、僕は再びケンタローのところにやってきた。
手術は無事、終わったのだろうか。
ケンタローは病室で横たわっていた。麻酔が切れた直後のようで、目はあいているが、まだ意識が朦朧としているような表情をしていた。
そのケンタローを前に先生とおじいさん、おばあさんが小瓶を見ながら話をしているところだった。
その小瓶の中には、真っ白で細長いロープのような虫がウヨウヨとひしめき合って動いているのが見えた。
「こんなに多くの大きなフィラリアたちがケンタローの身体の中で成長して心臓から肺の血管をびっしりと埋め尽くしていたのです。たぶんまだ幼虫たちは体内に残っているので駆虫しなければならないと思いますが。でも一応、手術で一命はとりとめたと思います」とほっとした表情で先生はそう言った。
おじいさんたちは、そのグロテスクな虫たちを憎らしそうに悍(おぞ)ましそうに睨みつけて、「本当に、こんなにたくさんの悍ましいものがケンタローの身体を蝕んでいたのですね。ケンタローには申し訳ないことをしました。
自分たちが不勉強だったがために、こんな病苦を与えてしまった。
これからはちゃんとケンタローのために勉強して一人前の飼い主になれるように努力していきます。老い先短い私たちですが、少しでも長くケンタローが私たちといてくれるように。」とケンタローを見ながらそう言った。
「ええ。そうしてあげてください。ケンタローは本当に忠犬ですね。飼い主さんを自分が守ろうと固く心に決めている。でもそれは言い換えればケンタローが大切に飼い主さんに育ててもらっている証拠でもあります。
私も少し言い過ぎました。すみませんでした。
まさか、あの瀕死のケンタローに怒られるとは思いもしませんでしたから、思いあがった頭をガツンと殴られたような衝撃でした。
私はケンタローがフィラリア症になったのは飼い主の無知の責任だとあなたを責めてしまいました。
けれど、フィラリアの予防がどれだけ大切か、この町で開業している以上は、私自身が獣医として、広く広く、もっと動物を守るための情報を発信し啓発しなければならなかったんです。
だから私自身の責任でもあるのに、それを棚に上げて飼い主さんを責めることで責任逃れをしようとしたのです。
命がけのケンタローの私への攻撃で、私はそれを悟りました。
そしてケンタローは身を挺して飼い主さんたちをかばい抜き、これからも飼い主さんたちを守り抜くためにあんな大手術にも耐え抜いたのです。
大したヤツです。
だからこそ飼い主さんたちにお願いするのです。
どうか、ケンタローを守ってやってください。
最期まで幸せに飼い主さんたちと少しでも長く健康に暮らせるように、予防接種もきちんとして、どうか、ケンタローを病気から守ってやってください。そのための手助けをどうか私にさせてください。お願いします。」そう言って、先生は深々とおじいさんたちに頭を下げた。
先生の目には涙が浮かんでいた。
ケンタローがおじいさんたちを想う心があまりにも健気で、純粋で、そんなケンタローの心が手に取るようにわかるから、自然と先生の目には涙があふれてくるのだ。
おじいさんたちもボロボロ涙をこぼして、何度も先生の言葉にうなづいていた。
と同時にケンタローの涙も、臥床しているペットシーツの上にポロポロと流れ落ちるのが見えた。
先生もおじいさんたちも、みんなケンタローの想いを、志を大切に守ろうとしてくれている、それが痛いほどケンタローにはわかったのだ。
先生は本当に動物の心がわかるんだ。
きっと、ケンタローはこの先、おじいさんたちと最期まで楽しく幸せに暮らせるに違いない。だって先生がついているのだから。
そして、きっと、ケンタローは先生が大好きになるに違いない。
僕はそう確信してその場を離れた。
第4話: https://editor.note.com/notes/n54140574302d/edit/