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「縁(えにし)の使者の獣医さん」第7話


「絶望」

 その夜、僕は再び先生のところにやってきた。
レオとの約束をうまく果たせて先生もほっとしているだろうけれど、ナナのことでまだ思い悩んでいるのではないか、それが心配でやってきた。
 先生の姿は病院にはなかった。だから、先生のお家に行ってみた。
今夜も先生は一人で泣いていた。
やはり、ナナのことでまだ思い悩んでいるんだろうか。

 先生は、家族が寝静まってから、一冊の絵本を見ていた。
あの「虹の橋」の絵本だった。
先生は、その絵本を繰り返し眺めながら泣いていた。
そして「ベア、虹の橋で待っててくれよ」、そう呟いては涙を流していた。
 先生は僕のことを思って泣いてくれているんだ。
虹の橋で僕が先生を待っていると信じてくれている。
そして先生は、僕とまた一緒に暮らしたいと思ってくれているんだとわかって、僕はうれしくてうれしくてたまらなかった。

 僕は、急いで虹の橋に向かった。
レオに会って今日のできごとをお話したかった。
そして、虹の橋ではみんなどうやって飼い主を待つのか、いろんなことが知りたくて、今までは通り過ぎるだけの虹の橋に向かった。
 虹の橋は天国の空の上からしか見たことがないが、本当に美しくすばらしい場所だ。心地よい大草原が果てしなく広がり、そこで戯れ遊ぶ動物たちは本当に楽しそうで活き活きと輝いている、そんな場所だ。
その地に初めて降り立つうれしさでワクワクしながら、僕は虹の橋に向かった。
 
 けれど、結局、僕は虹の橋にはたどり着けなかった。
いよいよ虹の橋が近づき、その心地よい草原に降り立とうとする。けれど、僕には、なぜかその大草原に降り立つことができない。
 低く低く飛んでポイっと虹の橋のふもとに飛び降りようと何度も試みる。でも降り立つことができない。
なぜかわからない。
 眼下には見えているのに、僕にはその場所に降り立つことがどうしてもできなかったのだ。
 僕にはその上を通過することはできても、虹の橋にはどうやっても、たどり着けないのだ。
 飛び降りる場所を変えてみたり、飛び降りる姿勢を変えてみたり、何度も何度も降り立つための工夫をしてみた。けれど結果は変わることはなかった。
ワケがわからないまま、僕は途方に暮れてしまった。

 そうだ。ナナなら何か知っているかもしれない。
そう気が付いて、虹の橋のふもとで待つ動物たちの中にナナの姿を探した。けれど、いくら探してもナナは虹の橋にはいなかった。
 そうだった。ナナは神さまのところに戻っているはずだ。
僕は天国に戻ってナナを探した。
やはりナナは天国にいた。
 ナナは僕と同じように魂の姿に戻っていたが、記憶はまだナナのままだ。 
 僕はナナに虹の橋のことを聞いてみた。
「あの子たちは飼い主さんがやってくるのをあの場所でずっと待っているのよ」とナナが言った。
 虹の橋のある場所は、生前、ペットとして飼い主さんと仲良く暮らしていた動物たちが、天国で飼い主さんとまた一緒に暮らせるように待っている場所であるということをナナは教えてくれた。
 僕はナナがどうしてマザーを虹の橋で待たず天国にいるのか、気になって聞いてみた。
「私は神さまに神犬としてマザーのところに遣わされた神犬だったから、ペットではないの。だから虹の橋でマザーを待つことはできない。」とナナは言った。
 僕はナナに「僕は虹の橋に降り立ってみたいのですが、なぜだか、できません。どうやったら虹の橋にたどり着けるのでしょうか」と聞いてみた。 
 すると「それは無理かもしれない。あなたはペットとして暮らす時間がなかったから」と少し悲しそうにナナは教えてくれた。
 ショックだった。
僕にとってはあまりにも悲しい答えだった。涙があふれ、声が震えた。 
 けれど意を決して「それでは僕は虹の橋には行けず、先生のことをそこで待つこともできないのでしょうか」と重ねて聞いてみた。
「そうね。それは無理なことかもしれないわね」とナナは再び、悲しそうに僕を見つめてそう言った。

 僕は先生が大好きだ。
先生も僕がレオのように虹の橋で待っていると信じてくれている。
 僕と再び虹の橋で会い、天国で一緒に幸せに暮らしたいと願いながら、先生は自分の使命を最期まで生き抜いていくことだろう。
そのために、先生は日々、悲しみにも耐え、苦しみにも耐え、魂の縁の使者としての役割を果たしている。全身全霊で動物たちのために闘い続けているのだ。
 そんな先生だから、僕は毎日でもその姿を見ていたいし一緒にいたいと恋い慕う。
けれど僕は虹の橋には行けない。
先生をそこで待つことが僕には不可能なのだ。僕は絶望に打ちひしがれた。

 僕はその日を境に地上に行くのをやめた。
というより虹の橋で先生を待つことができないこの身が悲しすぎて、行く事ができなかったのだ。
先生の顔を見るのがあまりにも辛すぎる。
僕は虹の橋で先生を待つことが許されない宿命なのだ。
 
 そのまま幾日かが過ぎたある日、ナナが僕のところにやってきた。
「お別れにきたの。今日、私はこれから生まれ変わることになったの。私がナナでいるのはこれが最後。ナナの記憶があるうちに、あなたに会いに来たの。」ナナはそう言った。
「マザーに、さっき最期のお別れをしたの。その時、思ったのだけれど、マザーならどうすればあなたが虹の橋で先生を待てるようになるのか知っているかもしれない。今ならマザーは先生の病院にいるわよ。」
ナナはそう言ってにっこり笑った。
 僕の心を支配していた底知れぬ絶望は一瞬にして七色の希望に変わった。
「ナナ。ありがとう。僕、マザーの所に行ってきます。ところで、ナナ。今度はどんな魂として生まれ変わるのですか。」僕は聞いた。
「今度は神犬ではなく普通のペットとして猫に生まれ変わり、飼い主さんを守る運命を選びたいと神さまにお願いしたわ。けれど、最終的には次に生まれ変わる私の魂がどんな宿命を背負うのかは神さまがお決めになる事よ」とナナはそう言って微笑んだ。
「そうなのですね。ナナ。でも本当に今までありがとう。あなたに会えて本当によかった。新しく生まれ変わるあなたの魂が幸せになれるよう、僕は祈ります!」僕は心からの感謝を込めてナナにお別れを告げた。
 そして、一目散に先生のところに向かった。
「マザーがまだ先生のところにいてくれますように」そうひたすら祈りながら、取るものもとりあえず先生の病院を目指した。

 今日は花壇に奥さんの姿はなかった。
オレンジ色のガーベラが今を盛りと咲き誇っていた。
その鮮やかな橙色に励まされるように僕は病院の中に入り込んだ。
 今日も病院は大賑わいだ。
先生たちも本当に忙しそうだ。次々に飼い主さんを引き連れて、病気の動物たちがやってくる。
 病院全体が忙しい雰囲気だからなのか、病院内の動物たちもそわそわして落ち着かない様子だ。
いや、この雰囲気はマザーだ。待合室にマザーがいるのだ。

 今日は白い毛並みが美しいペキニーズを連れている。
マザーは今日もまるで色とりどりのお花に身を包んだように、カラフルな身なりをしている。美しい深緑の髪に極彩色のワンピースとブーツに身を包み、まるで全身が虹色のオーラに包まれているようだ。
大きな真っ黒のサングラスをかけ、真っ赤な口紅を差した小さな口元が微笑を湛えている。
 そして、今日もいつものように、マザーに声をかけるすべての動物たちに瞬時に同時に、メッセージを発信している最中だった。
 次々に動物たちからの相談に乗り、エールを送り、みんなを励まし、癒していくそのマザーの圧倒的で絶大なパワーに僕はしばらく呆気に取られてその様子に見入ってしまっていた。

 そんな僕に、「あら、あなた。あの特別な子ね。今日も先生に会いに来たの?」とマザーが突然、声をかけてくれた。
僕は、マザーに意を決して聞いてみた。
「マザー。教えてほしいことがあるのです。虹の橋のことなのです。虹の橋で待つためには生前にペットでなければそこで飼い主さんを待つことができないと聞いています。僕が先生を虹の橋で待つために、僕はどうやったら先生のペットになれるか、ご存じですか。ご存じなら教えてもらえませんか」必死の想いでそう聞いてみた。
「なるほどね。あなたは先生が本当に好きなのね。」
そう言って、マザーは優しく僕に微笑んでくれた。
 その微笑は見るものをウットリさせるほど慈愛に満ちていて、まるで女神さまの微笑のようだった。

 けれど、次の瞬間、マザーは少し寂しそうな表情をして
「残念ながら、それは私にはわからないことだわ。なぜなら、それは神さまがお決めになる事だからよ。」とそう言った。
 僕はその言葉を聞いて、再び、深い深い失意のどん底に落ちていった。
結局、その方法はマザーでさえもわからない、神さまがお決めになる事なのだ。つまりは僕には手の届かない願いだということだ。
やはり僕には先生を虹の橋で待つ資格が永遠に得られないんだ。
 僕はあまりの絶望に言葉を失い、ただ茫然と身動きできずにその場に立ち尽くしてしまった。

 そんな僕のあまりの落胆ぶりにマザーは
「あら。あら。随分、落ち込んでしまったのね。」と驚いたようだった。
そして、マザーはそんな僕を慰めるように口を開いた。
「ダメでもともと。直接、先生のペットたちに、一度話を聞いてみれば?」と。
「えっ??先生のペットたちに?ですか?」
恐る恐る、僕は聞いた。
「そうよ。4匹いるわよ。この2階に。魂の宿命は最終的には神さまがお決めになるものだけれど何かヒントが得られるかもよ。先生のペットにちゃんとなることが出来た魂が4匹もいるんだから、何か、あなたが得たい情報が得られるかもしれないでしょ?!」マザーはそう言ってにっこり笑った。

 「4匹のペットというより、先生の守り神、親衛隊というところだわね。
猫が2匹、犬が2匹。4匹の中で、ニャーという18歳の猫がボスね。ニャーを筆頭として4匹とも、神猫、神犬だちだわ。
けれども神犬と言ってもマザーハウスの神犬たちとは少し違うの。
 マザーハウスの神犬たちは神さまが神犬として直接この世に遣わされた動物たちだけれど、先生のところは違う。
自分たちが先生を守るという宿命を自ら選んでやってきている魂たちだと思う。
 中でも、そのニャーという猫は、寿命すらも自分で操れる神猫になっている。だから神猫というより化け猫かな。ふふふ。
とにかく私にまで直接、先生の窮地を訴えてきて私になんとか先生を助けさせようとするくらいのパワーを持っているの。とにかくすごい猫なのよ。
 このニャーが他の3匹を従えているのだけれど、特にピュアという8歳の犬は、ニャーのしもべとして、絶えずニャーにお仕えしているわ。
あと、チョコは16歳の神犬。上品な気高いおばあさん犬。
 そして9歳のクロ。この子はあなたのような黒猫よ。
この4匹が先生のペット。
 この4匹がどうやって先生のペットになることができたのか、直接、いろいろ聞いてみるのがいいかもしれない。今のあなたなら、直接会って話ができるでしょ?
 4匹に話を聞いたとしても簡単にはその答えが得られるとは思わないけれど、何か参考になる情報は得られると思うわよ。
すべての魂の宿命については、神さまが最終的にはお決めになるけれど、その前に必ず、魂一つ一つに対して、どんな人生を生きたいか、どんな宿命を背負いたいかを聞いて下さる機会があるはず。その時のために、このチャンスを活かせればいいわね。」
そう言って、マザーはまた女神さまのような微笑を僕に向けてくれた。
 僕は真っ暗な闇の中に一筋の光が見えたような気がしていた。
「マザー、ありがとうございます。僕、話を聞いてみます。とにかく、やれることはやってみます」と僕はマザーにお礼を言って、その場を離れた。

 

「親衛隊」

 僕は、そのまま、1階の病院を飛び出し、2階の先生の家に急いでやってきた。
僕はとにかく、マザーから教えてもらったボス猫のニャーにお話を聞きたいと思った。
 僕がベランダから先生の家に入り込んだその時、いきなり、ギラリとした8つの目玉に僕は睨みつけられて思わずたじろいだ。

 そこはリビングだった。
広いリビングで、4匹の動物たちが寝転がったり、毛づくろいをしたり、4匹4様のポーズでくつろいでいるところだった。
その4匹が、突然入り込んできた僕を見とがめたのだ。
 その中でもとりわけ、そのオーラがすさまじい猫がまず目に入った。
その眼光は誰もがたじろぐほど鋭く、そしてその猫は神々しいほどのオーラを放っているように見えた。
 きりりと整った美しい顔立ちの日本猫だ。
白と黒の美しい八割れの額と立派な髭をピーンと張ったその猫をみて、それがニャーであると僕は確信した。

 そこで、僕は「あのぉ」と声をかけようとした時、ニャーの前に一匹の犬が立ちはだかった。
これまた、白と黒の犬で身体の模様がハートマークに見える毛並みの犬だった。
 大きなギョロギョロした目で僕を睨みつけながら、今にも僕に飛びかかろうとするかのような姿勢で
「何なの?あんたは。ニャー様に何の用?ニャー様はね、お前のような者が気安くお話ができるような方ではないのよ。」と、けんもほろろな攻撃的な口調で僕に詰め寄った。
その勢いのすごさに僕はたじろいでしまった。
けれど勇気を出して
「あの。あの・・僕は、僕は、先生のペットになりたいんです。どうやったらなれるのか、それが知りたくて、ここに来たのです」と必死にそう言った。
 必死で絞り出した僕の言葉に、その場にいた4匹は一瞬、呆気にとられたような顔をした。
 次の瞬間、先ほどの白黒の犬が「何を寝ぼけたことを言ってるの?!パパさんのペットは私たちでもう十分なの!もう帰りなさいよ」と今にも噛みつきそうな勢いでギョロギョロした目を更にギョロつかせて威嚇してきた。

 僕が戸惑っていると、
「もうおやめ!ピュア」という声がその場に響いた。
まさに「鶴の一声」ならぬ「ニャーの一声」だった。
 そのひと声で、ニャーの前に立ちはだかっていたピュアと呼ばれた犬は、納得のいかない表情をしたまま、一歩、後ろに身を引いて座した。
しかし、ピュアの僕への攻撃的なオーラはマックスのままであることは痛いほど感じた。
「何が聞きたいのだね?」
とニャーは上品な口調で、すっかり臆してしまった僕を促すようにそう聞いてくれた。
「あっ。ぼっ、僕はベアと言います。今は魂ですが、生きている時は1階の病院にいました。僕は先生が大好きです。先生も僕に虹の橋で待っててくれよと言ってくれています。けれど、僕は生前、先生のペットではなかったから、先生がいくら望んでくれても僕は虹の橋で先生を待つことができないのです。
 一時期は絶望していましたが、どうしても諦められないのです。
だからペットであるみなさんに話を聞かせてもらいにきたのです」と一気にここに来た目的を伝えた。
「みなさんは、どうやって先生のペットになれたのですか。どうすれば、先生のペットになることが僕にできるのでしょうか。その方法を教えていただきたいのです。お願いします。僕にどうすれば先生のペットになれるのか、どうか教えてください。」僕は必死だった。必死にそう訴えた。
 知らない間に、涙が頬をとめどもなく流れ落ちていた。

 その僕の姿を見て、労わるように、ニャーは静かに口を開いた。
「そうか、お前がベアなのだね。そして、父さんのペットになりたいのだね。お前の気持ちはよくわかった。ただ、残念だけれど、私にはその答えをお前に教えてあげることはできないのだよ。なぜなら、それは神さまがお決めになることだからだ。おそらく他の3匹も同じ答えしかできないと思うよ。」そう言って、ニャーは3匹の顔を順番に見回した。 
 それに呼応するように、3匹は順番にうなづいた。
とりわけ、ピュアは「ざまあみろ」と言わんばかりに、大きく大きく、何度も何度もうなづいた。
 それを見て、僕は「ああっ」とその場に頭を抱えて蹲ってしまった。
最後の一縷の望みの糸が今、プッツリと音を立てて切れた気がした。
「やっぱり、やっぱり、誰もわからないのですね。やっぱり、マザーと同じ答えなのですね。」僕は魂が抜けたように弱々しい声でそう言うのが精一杯だった。

 すると、「マザー?!マザーがお前にそう言ったのかい?」とニャーが驚いたようにそう言った。
「はい。マザーにどうすれば先生のペットになれるのかを教えてもらおうとしましたが、マザーの答えもみなさんと同じでした。
けれど、マザーが、現に今、先生のペットとしてみなさんが存在しているのだから、みなさんのお話を聞く中で何かヒントが得られるかもしれないから会いに行くようにとアドバイスを下さったのです」と僕は、やはり弱々しく折れた心のまま、そう答えた。
 それを聞いたニャーは、僕の心の奥までのぞき込むような視線でまっすぐに僕を見つめながら
「どうして、お前はそれほどまでに、父さんのペットになりたいと願うのかね?」と聞いた。

 「僕は、僕は生きている時、おしっこが外にだせなくて、普通ならそのまま死んでいるはずでしたが、先生のおかげで短い時間だったけれど楽しく幸せに生きることができました。  
 身体は苦しくて痛くてしんどかったけれど、大好きな先生に『うちの子になれよ』と言ってもらって、僕は本当に幸せでした。
 天国に還ってからも先生に会いたくて会いたくて、神さまにお許しをもらって、魂のまま病院にやってきては先生を見つめていました。
その中で、先生が魂の縁の使者として動物を守り、助け、動物が幸せになるように全身全霊で闘っている姿をずっと見てきました。
 毎日毎日、来る日も来る日も、ずっと休むことなく、動物たちのために先生は闘い続けていた、そんな姿を僕はずっと見てきました。
 先生は僕が生きていた時、僕と過ごす時間が先生を癒し、心を和ませ、先生の元気につながると言ってくれた。
だから僕は、今度生まれ変わったら、先生のそばで、闘いに疲れ切った先生の心をいつも癒してあげたい、そして今度は、僕が先生を守りたいといつしか思うようになりました。
 魂の縁の使者という大変な使命を全力で果たしている先生の力に僕はなりたい、そう思うようになったのです。
 そんな中で、ある日、先生が泣きながら虹の橋の絵本を見て、『ベア。虹の橋で待っててくれよ』と言ってくれたんです。
僕が先生を虹の橋で待っていると先生は信じてくれている。僕が死んでからずっとそう思ってくれていたに違いないのです。
 けれど、僕は虹の橋にはたどりつけないことがわかったんです。
どうやっても、何をしても、このままでは僕は先生を虹の橋で待つことはできない。
 だから、どうすれば先生をいつも守ることができるペットとして生まれ変わることができるのか、それをどうしても知りたいのです。」
僕はあふれてくる涙に声を詰まらせながら、そう説明した。
一生懸命に説明した。

「魂の縁の使者」

 しばらく沈黙が続いた。
4匹はただ、黙って、僕の話を聞いていた。
口を開いたのはやはりニャーだった。
「そうか。お前は父さんが魂の縁の使者であることも知っているのだね。」なぜだかとても重い口調で、ニャーは言った。
「お前が私たちのように、ペットとして生まれ変われるかどうか、それは、神さまがお決めになることだから、さっきも答えたとおり、私たちが知る限りの事ではない。ただ、魂の縁の使者の使命について、お前に教えておいてあげよう。」
「えっ?ニャー様。どうしてですか?どうして、そんな大切なことを、こんなチビに話して聞かせておやりになるのですか?パパさんのペットは、すでに4匹、この私たちがいるじゃないですか。」
半ば、ベソをかくような顔でピュアがニャーに言った。
「ピュア。このものには、たぶん、それを伝えねばならないような気がするのだよ」とニャーはピュアを諭すように優しくそう言った。 
 ピュアは「そんなぁ。。」と言って、上目遣いにニャーと僕を交互に見てから、ガックリとこうべを垂れた。

 ニャーは再び僕の目をまっすぐ見つめて、語りだした。
「お前は、そもそも、ペットとはどういう存在なのか、知っているだろうか?
 本来、犬や猫などの愛玩動物と言われる動物たちは、人間が正しい心で自分の宿命に立ち向かい与えられた使命を最後までちゃんと果たせるように、神さまが贈ってくださった『救いの魂』なのだ。
 人間たちは、その無防備すぎるほどにまで自分たちを信じきってやまない、つぶらでけなげな動物たちの瞳に見つめられたら、それだけで、どんな荒れた心でさえも優しく凪ぐように癒され澄んでゆくように思えるのだよ。 そんな力をペットとなった動物たちは持っている。
人間はそんな動物に救われながら、人生という果てしない棘の道のりを突き進んでゆく。
 ペットがいるからこそ、たとえ心が折れることがあっても再び闘志を燃やし、日々の闘いに身を投じて使命を果たすために勝ち残っていけるのだよ。 動物たちは人間が宿命に立ち向かうためのかけがえのない心のパートナーなのだ。
つまり、ペットは人間という険しく厳しい宿命を背負う魂への神さまからの慈愛溢れる贈り物なのだよ。

 その人間と動物との魂の結びつき、いわゆる『縁』を司るのが魂の縁の使者だ。
 縁にはつながるべき縁、切れなければならない縁など、さまざまな縁がある。
 つながるべき縁や切れるべき縁など、本来のあるべき姿に不具合が生じた時、動物たちが自ら、魂の縁の使者の元に飼い主たちをいざなう。
そして魂の縁の使者が魂の縁を『本来のあるべき姿』に導くのだ。
それが父さんの宿命、父さんの背負う使命なのだよ。
 でも、どちらかというと父さんは人間たちのためというよりも『動物たちの魂の縁』を守る使者なのかもしれないね。」
とそう言ってニャーはクスリと、うれしそうに笑った。
 気がつけば、いつの間にかニャーを取り囲むように他の3匹が車座に集まってきていた。
そして、ただただ静かに真剣に、ニャーの言葉に耳を傾けていた。

ニャーは言葉を続けた。
「ただ、時に、縁を切られたくない人間の魂が『闇(魔の物)』となって、魂の縁の使者に攻撃をしかけてくることがあるのだ。
 だから魂の縁の使者は、絶えずその命を危険に晒しながらその役割を遂行しているのだ。使者自身の命を削って。
 だからこそ、使者を守りたいと『自ら強く願う魂』がペットとして傍に寄り添い、使者を守ることが必要なのだ。
 つまり使者との縁が深い魂こそが、ペットとしての宿命を神さまから与えられることになるのだと私は思っているのだよ。
 通常、魂は前世のことは覚えていない。
けれど、どこかで魂の縁が父さんと紡がれていて、そして、お前自身が父さんを守りたいと強く願う想いがあった時、神さまが父さんのペットになる宿命をお前が背負うことをお認めになるのだと思うのだよ。」
そう言ってから、ニャーは大きく一つ息を吐いた。
 
 そしておもむろに今までの寝そべった姿勢から上半身をむっくりと起こして、僕に近づいてきた。
 近づいてきたといってもなんだか近づき方が奇妙だ。
上半身だけがズリッ、ズリッとゆっくりこちらに近づいてくるように見える。
 正面から見ると、ニャーの下半身は腰から下が両脚揃えてピーンと伸びきって右真横に投げ出されたようになっていた。
後脚が立ち上げるわけではなく、横すわりのように揃ったままだ。
 猫はとりわけ関節が柔軟でしなやかだ。猫は2階の高さから飛び降りても、その優れた柔軟性で足首、膝、股関節の柔らかさを見事に調和させ、骨折することなく着地ができると言われているほど、しなやかな関節を持つ。 けれどニャーの後脚の関節は固く伸びきり、足先は固く固く握り締めた拳のようだ。
その後脚をひきずったまま、ニャーは前脚の力だけで前進している。

 いやに後脚はか細くやせているように見える。
それに反して、上半身は異様に筋肉質に見えて、ニャーの身体はなんだかアンバランスなイメージがする。
 とりわけ前脚の筋肉はすこぶる発達していて逞しい。
前脚二本だけで身体を動かすために筋肉が発達したのだろう。
 それもそのはず。昔は二本の前脚だけで20段くらいの階段ならリズミカルに軽々と登っていたそうだ。
 さすがに今は階段は登ることはできないが、降りることはできる。
ただ、以前なら重く硬直したままの後脚が一段降りるたびにゴトッ、ゴトッと階段に強く打ち付けられることのないように前脚の筋力と腹筋を使って後脚を落差のダメージから防護できたのだが、今は、まともにダメージを受けるような降り方しかできなくなっている。

 それでも今なお、ニャーの上半身は立派で風格さえ感じるほどだ。
ニャーは立ち上がることはできないのだから背丈が高いはずがない。
けれど威圧感すら感じるほどニャーは大きく見えた。
 ニャーは僕に近づきながら、後脚の付け根あたりにテープで貼り付けられたカテーテルが僕に見える位置で歩みを止めた。
 僕はそのカテーテルに見覚えがあった。
それは昔、僕自身が人工膀胱として使っていた医療用カテーテルだった。
「見てごらん。この管がなければ、私は排尿ができない。もう18年だ。
この管を使って一日4回の導尿、それに加えて毎日この管を入れ替えて膀胱を洗浄する。
 よく18年もこのような不自由な世話のかかる身体で生きてこれたものだと思うのだよ。」
ニャーはこれまでの18年間をしみじみと回顧するようなまなざしをそのカテーテルに向けた。
 そして、一息ついてから、僕に向かってゆっくりと話し始めた。

「ニャー」

 私は野良猫だった。
とても車通りの多い大きな道路のそばにある飲食店の倉庫で生まれた。
 食べるものに不自由はなかった。
母と私たち5匹の子猫は飲食店の人たちから可愛がられ、店の閉店後にはいつも食べきれないほどの残り物が6つのお皿に入れて倉庫の軒下に置かれていた。おかげで私たちは5匹ともすくすく育つことができた。
 ところが、ある日を境にその飲食店の人たちがいなくなった。
しかも突然、倉庫は閉められ、その日からは二度とあの豪勢な夕食に私たちがありつくことは無くなった。

 母はすぐには事態が呑み込めないようだったが、間もなく、私たちに「ここを離れるから、ついてきなさい」と固い表情でそう言った。
私たちは母に従い母の後を追った。
 ちょうど朝日が昇りかけた時だった。
いつもは騒がしい音をたてて、たくさんの車が行きかう大きな道路だが、私たちが新しい住処を求めてその道路を横切ろうとした時は、まるで眠っているかのように道路は静かにそこに横たわっているように見えた。
「初めて見る景色だ。」
そんな思いにとらわれて、一瞬、私は足を止めてその不思議な景色に見入ってしまった。

 ふと見ると、母と兄弟はすでに道路の半分以上を渡ったところにいる。「遅れをとってしまった」
そう思った次の瞬間、私の身体は宙に舞った。
激しい衝撃を身体に受けた。そのことだけは覚えている。
 しばらくして、ふと気が付くと私は道の端っこに蹲っていた。
母たちはもう道路を渡ってどこかにいってしまったのか、その姿はどこにもなかった。
私だけがその場に蹲っていた。
 私の身体のすぐ横を大きな車のタイヤが轟音をあげて通り過ぎる。
危険を感じて動こうとした。だが、動けない。
 後ろ足が全く動かなかった。感覚すら全くなかった。
何がおこったのか理解できず、ただただ戸惑いながらも蹲るしか私にはなすすべもなかった。

 その時、目の前に大きなタイヤが「キュキュキュキューッ!」という甲高い音を立てて止まった。
そのタイヤは大きなバイクのものだった。
まさに間一髪、私の目の前でその大きなタイヤは急停止した。
 あわててバイクから降りてきた人が私を抱き上げ、
「ハネられたんだな。背骨がやられている。」そう言って、自分が巻いていたマフラーに私を包み「ちょっと我慢しろよ。狭くて暗いけれど」と背中に背負うカバンに入れた。
私はそのまま気を失ったのかもしれない。

 次に気がついた時、目の前には、心配そうに私をのぞき込む優しい二つの目があった。 
 その人は「目が覚めたか。しんどかったな。もう大丈夫だぞ。俺が助けるからな」と温かい大きな手で私をさすり続けながら、そう言った。
それは「院長」と呼ばれる先生、つまり、「父さん」だった。
私はこの病院に運ばれたのだ。
 父さんは私に、「つらかったな。こんなに小さいのに、よく頑張って生きていたね。とにかく、もう安心していいんだよ。俺が助けるからな」と優しく語りかけた。
 そしてスタッフたちに「この子の里親を探す手配をしてくれ。おそらく状態が落ち着いたら手術をするが、生涯、立って歩くことはできない。しかも排泄障害が残るから、それを受け入れて世話をしてくれる飼い主を探してほしい。あちこちに依頼をかけてくれ」と指示した。

 私は車に跳ね飛ばされたことで脊髄が断裂していた。
脊髄損傷による下半身まひ、排泄障害など、たとえ手術や万全の治療をしたとしても完治は絶望的だった。
 生まれて3か月でのこの事故によって、私の残りの生涯は数々の障害と共に生きていくことになるのだと父さんの話を聞いて理解した。
「大丈夫だ。きっと優しい飼い主さんを見つけてやるから、とにかく、まずは治療していこうな!」と父さんは私を常に励まし続けた。

 その後、半月ほど経過したが一向に里親候補は見つからなかった。
私の外傷はほとんど完治し、あとは飼い主が見つかるのを待つだけになった。
 飼い主と手術を含めた治療と今後の療養について話し合いを持って私の手術計画が立てられることになっていた。
けれど飼い主として名乗りを上げる人は一向に現れなかった。
 私は脊髄こそ断裂しているが、上半身は元気で、よく食べた。
強制的に膀胱を圧迫しなければ排尿できないため、強制排尿が一日2回行われるが、それが一番の苦痛だった。
 それ以外は、優しい看護師さんたちがケアしてくれたり遊んでくれたり、私の入院生活は快適だった。

 入院が1ヶ月を過ぎた頃、私は集中治療室から普通の病室に移された。
その病室は2階建てになっていて、1階の病室は、どうやら終末期を迎えた犬が入院しているようだった。
 直接見ることはできないけれど、その犬は寝たきりのようで、息さえもひっそりとして身体を静かに横たえているという感じがした。
 しかし日に何回か、いきなり遠吠えのように一つの方向に向かって息絶え絶えになりながらも一定時間、吠え続け威嚇し続けることがあった。
 その後は、すべての力を使い切ったように呼吸すらできなくなったのではないかと心配になるほど、ただ静かに横たわっている、そんな病状の犬だった。

 夜になって、その犬のところに飼い主なのだろうか、女の人がやってきて身体をさすったり、水を飲ませようとしたりする気配が長い時間続いていた。
「ポチ。しんどいね。寒くない?毛布を替えましょうね。」
と声をかけながら世話をしている様子だった。
 そこに父さんがやってきた。
その女の人は父さんに「お疲れ様。今日はポチはどうだった?」と聞いた。
「あいかわらず、家のチャイムが鳴る度に吠えつづけてくれていたよ。
せっかく防音室の病室に部屋替えしたのにポチには玄関のチャイムが聞こえてしまうのだから困ったことだよ。」と父さんは答えていた。
「そうなのね。ポチ。もういいのよ。もう私たちは大丈夫だから。ゆっくり休むのよ。ありがとうね」と女の人がポチに声をかけながら身体をさすっている気配がした。
 その女の人は「母さん」だった。

 ポチの世話を終えた母さんが2階の私を見た。
「この子ね。わざわざ遠くからここに運ばれてきた脊髄損傷の子は。怖かったね。でもよく頑張って、ここまで元気になってくれたのね。」と優しい笑顔で私を抱き上げてくれた。
温かい頬ずりは、まるで本当の母さんみたいだった。
 母さんは私をそっと病室に戻しながら、
「やはり、里親は見つからないの?」と言うと
「そうなんだ。どうしようかと悩んでいる。この子は一生、重い障害があるから、毎日膀胱洗浄や強制排尿も必要だし、ずっと前足だけで生きていかなくてはならないから、いろいろ室温調整や清潔な環境などの調整が必要だ。 ウンチの管理もしないといけないから、この子は立派な美しい尻尾を持っているが、可哀そうだが、尻尾を切断する断尾の手術が必要だ。
 とにかく、この子はこれからが大変だ。そんな子の一生をちゃんと面倒見てくれる飼い主が現れるんだろうか。」と心細そうな口調で父さんはそう答えた。

 そういえば私の尻尾は、長くてしなやかで天にむかって凛々しく立ち上がる白と黒の美しい尻尾だった。
私の自慢だった。
 けれど今ではいくら動かそうとしても根元からダラリと力なく地面に寝そべったまま動こうともしなかった。
そして排便の度に、といっても排便している感覚が全くなく便が私の意図にはおかまいなしに勝手に出てしまうのだが、その度に私の自慢の尻尾は便で汚れ切ってしまい、看護師さんたちが丁寧にふき取ったり洗ったりしてくれる。
 けれど、看護師さんたちがすぐに気づいてくれなければ、糞臭に辟易しながらも自分ではきれいにすることも何一つできないまま我慢するしかないのが現実だ。
 断尾も致し方ないと思えるほど、かつての自慢の尻尾は不要なお荷物と成り果ててしまっていた。

 「そう。とても重い宿命を背負って、この子は生きていかなくてはならないのね」母さんがそう言うと
「ああ。とても厳しい人生だ。この子は一生、ズリばいでしか移動できなくなるだろう。しかも前腕に負担がかかって、関節を痛めてしまったら、この子は一生寝たきりになってしまう。
下半身がマヒしているから、お腹から下半身がいつも床に接することになって、当然、冷えなどから胃腸障害、腎障害が起こりやすくなるだろう。
 ひどい下痢や膀胱炎なども頻回におこしてしまうだろう。
いつも病気と隣り合わせの人生だ。永くは生きられないだろうが、この子にはきめ細やかな治療とケアが一生必要になると思う。
 絶えず、下痢まみれ、おしっこまみれで病気続きのこの子を愛情深く育ててくれる覚悟のある飼い主なんて、本当に見つかるだろうか。」と父さんはため息まじりにつぶやいた。
「もし見つからなかったらどうするの?」という母さんの問いかけに
「誰も引き取り手がなかったら・・」と表情を硬くしながら、父さんは絶望的な選択肢を言葉として発しようとして、それを飲み込んだ。
 私と目が合ったからだ。そして父さんは苦悩に満ちた表情で「とにかく飼い主を見つけるしかない。見つけるしかないんだ」と繰り返し言った。

 しばらく黙って聞いていた母さんが、
「誰も引き取り手がなかったら、うちの子になればいい」と私の目を見つめて静かにそう言った。
「えっ??」
と父さんは弾かれたように顔をあげて母さんを見た。
もう一度、「うちの子にしたらいい」と母さんは繰り返した。
「でも、交通事故に会って同じような子猫がこれからもたくさんやってくるかもしれないし・・」と父さんが言うと
「これからも来るかもしれないけれど、来ないかもしれないでしょ?。来たら来た時に考えたらいい。今のこの子とは一期一会の魂の出会いなんじゃないかな。縁が結ばれなければこうやって出会わないと思う」と静かな笑顔で母さんは私の目を見つめてそう言った。

 父さんは一瞬、ためらいながら
「でも。マコのことがあるだろ?この子を飼うには、それがネックになるんじゃないのかな?」と言った。
「だから、この子が来たんじゃないかな。わざわざ、見ず知らずの人がこんな遠くの病院まで、この子を連れてきた。そして誰もこの子のこれからを支える自信がもてないほどの重い障害をかかえ、この子は一生、治療とケアを必要としている。
 きっと私たちにしか、この子は育てられないんじゃないかな。
この子を幸せに育ててあげられるのは私たち以外にはないんじゃないのかな。
この子と私たちは見えないけれど強い強い縁で結ばれているように思うの。 この子は、私たちの家族になるべくしてやってきた選ばれた『スペシャル』な子。そして私たちはこの子を幸せに育てる使命を負う。
 この子を家族として育てるからには、マコは強くならなければならない。今のままではダメ。マコが心のダメージを自ら乗り越えることを助けるためにこの子はやってきたんじゃないかな。私にはそう思えてならないの」と母さんが言った。

 そして「とにかくまずは、飼い主候補を探す努力をお願いね。そしてその結果、飼い主が見つからない時には、マコに、この子の病状とこれからの予後についてしっかり説明しましょう。そして、マコの気持ちを聞いてみましょう」と母さんは、まるでそうなることがわかっているかのように明るい口調でそう言った。
「ああ。そうだな。そうかもしれない。とにかく、明日は保護猫の会の人にもう一度声をかけてみるよ。心配するな!お前にふさわしい飼い主は必ず現れるからな!」と父さんは優しい瞳で私を見つめながらそう言って、二人は病室を離れていった。
 二人の会話で、いろいろなことを私は理解した。
まず一階の病室に横たわっているのは「ポチ」と呼ばれる犬で父さんのペットだということ。
 そして私の飼い主候補は未だ見つからず、父さんが苦慮してくれているということ。
飼い主候補が見つからない場合、私を父さんたちが引き取るには「マコ」という障壁があるということ。
 そして、私はまもなく、自慢の尻尾までも失ってしまうことになるということ。
 
 ふいに不安がこみあげてきた。
私はこれから一体どうなるのか。
 母や兄弟との生活、自由に動き回れる身体、自力で生き抜ける力、立派なオス猫としての輝かしい将来、ことごとく私は失った。
この上、自慢だった尻尾までも失うのだ。
 しかも一生続く頻回の世話がかかる私を優しく受け入れ育ててくれる飼い主も見つからないとなると、私はこれからどうやって生きていくのか、そんな不安が次々と心に湧いてきて、その日はなかなか寝付かれずにいた。

「引き継がれる使命」

 どれほど時間がたったのかわからない。
ふいに「眠れないのかい?」という声が聞こえてきた。
 その声は、呼吸と呼吸の合間に無理やり言葉を絞り出して発しているせいか、途切れ途切れの弱々しい声だった。
 ちょうど浅い眠気がやってきた時だったため、夢かうつつか、定かでないほどのか細い声だった。
その声の主は「ポチ」だった。
「僕はポチっていうんだ。僕はこの家の長男だ。僕はもう永くない。
天国に還る時がすぐそこに迫ってきているのを感じる。
だから、これが、君に伝えられる最後のチャンスになるだろう。
悪いが、息苦しくてね。少々、時間がかかると思うが、僕の話を聞いてくれるかい?!」
 
 そう前置きしてポチは途切れ途切れの息の中、父さんとの出会い、ペットとして迎え入れられ長男として楽しく家族とともに生きた日々の想い出を、ゆっくりと、これまでを懐かしむように私に話してくれた。
 父さんが魂の縁の使者であること、そしてその使者を守るためにポチは父さんと縁が結ばれたということも。
「お父さんは僕と出会って僕をペットとした時から、『魂の縁の使者』としての宿命がお父さんの人生の中で始動し始めたんだよ。
 縁とはそういうものなんだ。その魂の持つ宿命が、出会うべくしての出会いをもたらすんだ。」
ポチはそこまで話して、「すまない。ちょっと一息つきたいんだ。息が苦しくてね。」と言ったまま、眠ってしまったのかと思うくらい、しばらく沈黙が続いた。
 ポチが決して眠ってしまったわけではないことは浅く早い苦しそうな息づかいから容易に理解できた。
「大丈夫ですか。とても苦しそうなので続きのお話はまた今度にしてはどうですか」と私はポチの具合が心配になって声をかけた。
「いや。大丈夫だ。今日しかないんだよ。今日、君に伝えなくてはならないことがあるんだ。ここからが本当に君に伝えたい話なんだよ」とポチは再び、途切れ途切れの息のもと、話し始めた。

 「僕はお父さんを守る宿命を持ちながらも、やはり基本的には犬という動物だ。本能がある。
 犬は眠っている時、特に熟睡している時など、急に何かが近づいてきたり驚かされたりすると即座に威嚇したり、噛みついたりして攻撃する衝動を持っている。
 その日、僕は玄関の陽だまりで気持ちよくうたた寝をしていた。深く眠っていたと思う。
 その時、次男のマコがいつものように甘えて僕にのしかかってきたんだ。いつもマコが僕に甘えて、そうしていたのと同じように。
 けれど、運悪く、僕は深く眠ってしまっていた。
僕は突然の襲撃に驚き、近づいてきたその襲撃者の顔面にかみついたのだ。 
 僕の鋭い2本の犬歯はマコの両目の5ミリ下の両頬に深く食い込んだ。
嚙みついた後にそれがマコの顔面であった事と、マコの血の匂いに僕は慌てふためいてマコから犬歯を引き抜いた。
 マコは何がおこったのかわからないという呆然自失の表情のまま、顔面から血を垂れ流してその場に立ちつくしていた。
 ただならぬ物音にあわてて駆けつけたお母さんの悲鳴がその場にけたたましく響きわたった。
お母さんが動転しているのが手に取るようにわかった。
 それもそのはず。マコの両頬、しかも両目のすぐ下に深く食い込んだ傷から、血の涙がとめどなく流れ落ちていたのだから。
その傷がどこまで深く到達しているのか、視力には影響ないのか、流れを止めぬ血はいつまで続くのか、お母さんはこの事態がどうやって起こり、どうなっていくのか、その情報判断をする以前に、目の前のマコの血の涙にすっかりうろたえていたのだ。
 僕は、ただただお母さんの顔とマコの顔を見つめる他、なすすべもなかった。

 その空気を打ち破るように突然、
「僕が寝ているポチにいきなり抱きついたからポチがびっくりして怒ったんだ。だからポチを責めないで」
マコが慌てふためくお母さんにこの状況を説明した。
 必死で血の涙に頬を濡らしながらマコはお母さんにそう訴えた。
僕を案じて僕をかばってそう訴えた。
 マコのその言葉でお母さんは正気を取り戻したようだった。
すぐにマコを病院に連れてゆく手配をいつものようにテキパキと行っていた。
 マコはその後、病院で点滴などを受けたが幸いなことに傷は縫う必要もなく目にも支障が起こらずマコが発熱したり体調を崩すことはなかった。
 僕は本当にホッとした。そして僕をかばってくれたマコに心から申し訳なく思うと同時に心から感謝していた。

 その後、その出来事は少しづつ過去の出来事になっていった。
だが、それは表面的であって、実はマコの心の中には消えることのない深い深いPTSD(心的外傷後ストレス障害)を残した出来事となっていた。
 表面上はマコと僕の関係は何も変わらなかった。
マコが僕を恐れる様子は微塵もないし僕には以前と変わらず優しいままだ。
 けれど僕が外来者を察知して威嚇しながら玄関に向かって吠え始めるや否や、マコの表情は能面のように固まり身体もその場から動くことができなくなっていた。
 僕の咆哮と牙を剝きだして相手を威嚇しつづけるその表情をまじかにすると、まさにあの時の恐怖が一瞬にしてフラッシュバックしマコの心を震え上がらせるのだと思えた。
 マコは決して、そのことは口に出さなかったけれど、僕だけでなくお父さんやお母さんにはわかっていたように思う。
 
 僕はそんなマコに対して、どうしてあげればいいのかわからないまま年月が過ぎた。
年月は過ぎたけれど、マコのPTSDは依然としてマコを苦しめている。
 マコは僕だけでなく、どんな小さな犬や猫の咆哮に対してもPTSDを再燃してしまう。
当然だ。
 マコはあの時、いつものように僕に甘えようとしてくれただけなんだ。
なのに僕は犬の本能で覆い被さろうとする者に反射的に噛みついてしまった。
 心を許し信頼しきっている者に、悪鬼の形相で牙を剥かれ噛みつかれる恐怖は筆舌に尽くしがたいほどの心の深傷となる。
 僕はその深傷を、寄りによって大切なかわいい弟に負わせてしまった。
取り返しのつかないダメージを自分の大切な家族に与えてしまった。 
 マコもお父さんたちも僕を責めることはない。
だからこそ僕は余計に申し訳なく思って悩み続けてきた。なんとかマコの負った心の傷を癒せないかと。

 けれど、それももう叶いそうもない。
まもなく僕は天国に還るだろう。
 僕は僕なりにお父さんたちを守るペットとしての役割を果たしてきた。
けれど、マコのことだけが気がかりでこのまま逝くにはあまりにも心残りだった。
 だから神さまにお願いしたんだ。
僕の替わりにマコの心の傷を癒してくれる魂を遣わせてほしいと。
マコを救ってくれる魂が必要なのですと。
 お父さんたちもマコの心の傷があまりにも深いことにずっと心を痛めている。マコを救うことは魂の縁の使者を救うことに他ならない。
そう神さまにお願いしたんだ。
 
 そうしたら君がやってきた。
しばらくの間、僕はずっと君のことを見てきた。
 そしてやっとわかったんだ。
君の飼い主候補はお父さんがどれだけ探してくれても決して見つからないはずだ。だって君は僕に替わってお父さんのペットになるんだから。
 そのために君がここに来たんだよ。
そして、きっと君がマコの傷を癒すことになるのだと思うよ。
君はマコを癒すことでお父さんを守り、魂の縁の使者を守るペットとしてここに来たんだよ。
そう、君がマコやお父さんたちを救う宿命を持った魂なんだよ。」

 途中、息も絶え絶えになる中でポチ兄さんがそう教えてくれたのだよ。
そこまで話しきると、ポチ兄さんは
「最期にそれだけを伝えたかったんだ。君が来てくれてよかった。ありがとう。本当にありがとう。」そう言ったあと、大きな深い息を一つ吐き切った。
 そして夜が明けるまで、ポチ兄さんの声が1階の病室から聞こえることは二度となかった。
次の朝、ポチ兄さんの病床は病院から家に移されていったようだった。

 その数日後の明け方近くだっただろうか、ふいに
「あとは頼んだよ」という声が聞こえた。
「ポチ兄さん?!」
私は起き上がって周囲を見渡したがポチ兄さんが戻ってきたような気配はどこにもなかった。
 けれど、それは確かにポチ兄さんの声だった。
その声は実に晴れやかで達成感に満ちたそんな声だった。
こうして私はポチ兄さんからペットしての役割を引き継がれたのだ。

 その後、半月ほど経過したが、ポチ兄さんの言ったとおり、私の飼い主候補は一向に見つからなかった。
 そんなある日の夜、父さんが一人の男の子を私の病室に連れてきた。目鼻立ちの美しい、色黒のやせっぽちの男の子だ。
 私が父さんに、いつものようにすり寄っていったその時、その子が大きく後ずさりするのが見えた。
 私のような子猫が近づいただけでも震えだしそうな怯えた少年の目がそこにあった。
それがマコと私の出会いだった。
 父さんはそんなマコの様子と私を交互に見ながら、静かにマコに話しかけた。
「この子は脊髄を損傷している。一生、この子は立って歩くことはできない。おしっこもウンチも垂れ流しのままだ。この子は立派な尻尾をもつオス猫だが、この尻尾も可哀そうだが切り落とさないといけなくなる。
それから将来的には腎臓が悪くなってそんなに永くは生きられないかもしれない。
 この子には一日のうちに何度もおしっこを排泄させたり、ウンチの世話をしたりする誰かが必要だ。
 この病状を受け入れて育ててくれる里親をずっと探しているが見つからない。このまま飼い主が見つからなければ、この子は安楽死するしかない。
でも俺は安楽死はしたくない。
 この子はいいヤツなんだ。ニャーニャーと甘えて、とても人懐っこい。
とてもいいヤツなんだよ。だからうちの子にしたい。
 けれど、マコ、お前の気持ちを俺は心配している。
動物が怖いんだろう?!
つらいよな。お前は言葉には出さないけれどお前の気持ちは手に取るようにわかるんだ。
 だからお前に任せる。お前がこの子を見て、怖がらずに家族として迎え入れ世話ができるというなら、この子は家で飼いたいんだ。
どうだろう。今すぐでなくていいから、そして何より、自分の気持ちに正直でいいから、お前がこの子を飼うかどうか決めてくれ」と。

 一歩、大きく後ずさりしたままの位置で、父さんの話をうつむいたままじっと聞いていたマコが、初めて顔を上げて私を見た。
そして私と目が合った。
 マコの目は実にきれいな澄んだ目だった。不思議なことに、そこには先ほどの怯えはなかった。
「うちの子にする。安楽死なんてしないよ」
 マコはこれまでのすべての怯えも迷いも吹っ切るかのように即座にそう答えた。
 父さんは、予想もしなかったマコの即答に大きく目を見開いたまま立ち尽くしていた。
マコの答えを頭の中で理解するために随分時間がかかったようだった。
「そ、そうか。大丈夫なのか。飼えるのか、家で。怖くはないのか。」
とマコの決意の真偽を確かめるように父さんが確認すると、
「うん。こんなに苦しい目にあっているこの子をこれ以上、不幸にはできないよ。俺が幸せに育ててやる。」
マコは私の病室の扉を開け、私の頬にそっと、そっと、手を添えながらそう言った。

 こうして、私はこの家のペットになった。
名前は「ニャー」と名付けられた。
「ニャー、ニャー」とうるさいくらい元気に泣き続けているからという単純な理由だそうだ。
名付け親は言うまでもなくマコだ。
 私は、その後、脊髄断裂の固定術、断尾の大手術を経て、排泄障害のためのカテーテル留置など、様々な治療を受けながら気が付けば18年間、マコと一緒にくらしてきた。
 その間、チョコ、クロ、ピュアという家族も増え、マコも立派に成長し28歳になった。
 私はこの18年間、マコの心の傷を癒し、父さんを守り、使命を全うしてきた。
マコの心の傷は一生失くなりはしないだろうがマコを苦しめるほどのものではなくなった。父さんたちがマコの心の傷に思い悩むこともなくなった。
ポチ兄さんから引き継いだ使命を私は果たし終えたのだ。

第8話:https://editor.note.com/notes/nca9bed765749/edit/


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