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林芙美子[放浪記]で振り返る昭和初期②

こんにちは、hakuroです。
 数ある「放浪記」ものの元祖たる林芙美子の「放浪記」をもとに、昭和初期の文化と昭和初期の語彙を集めていきます。
手元にあるのは、
「新潮社 日本文学全集57 林芙美子集」昭和36年印刷
今回は第二回です。直方で過ごしている放浪記以前を最後まで拾いたいと思います。

 トップ画像は「山本作兵衛」の代表的な炭鉱絵画です。石炭産業の生きた時代を克明に描いており、放浪記以前の空気をよく伝えます。

 「放浪記」は(十二月×日)のように、日記形式で区切ってゆくスタイルで作品が作られております。林芙美子の一人称視点で最後まで書ききっておりますので、いまどきのライトノベル好みの方にも読みやすいのではないでしょうか。

語彙集めスタートです!

私はこのシンケイによく虱(しらみ)を取ってもらったものだ。彼は後で支柱夫に出世したけれど、外に、島根の方から流れて来ている祭文(さいもん)語りの義眼(いれめ)の男や、夫婦者の工夫が二組、まむし酒を売るテキヤ、親指のない浮売婦、サーカスよりも面白い集団であった。

放浪記以前

ぶっとんでますね・・・。

しらみ

しらみ【虱】(白身の意という)動物にくっついて血を吸う、小型の平たい昆虫。灰白色で、羽・目は退化して無い。不潔なところに発生し、伝染病の媒介をする。ケジラミなど種類が多く、「観音・仏子」など異称も多い。

新明解国語辞典第四版

虱を知らない年齢の方もいるかもしれないので・・・
犬を飼ってらっしゃる方も今時はあまり見られないのではないでしょうか?
子供に虱がついていて、木賃宿のオッチャンに取ってもらったりしてる時代。

支柱夫

支柱夫
坑内では落盤をとても恐れていたので、柱には特に神経を使っていました。カミサシという木の楔を使用しない柱は、天井から重圧がかかった時にパチパチという音がなく、落盤の前兆がわからないので嫌われていました。また、本来、柱は木の根元を上にしますが、さかさまになっている柱は狸柱とよばれ、とても嫌われていました。狸が柱に化けたとき、下の方が太くなっているという噂から狸柱と呼ばれるようになったようです。

山本作兵衛コレクション図録番号335
山本作兵衛コレクション図録番号335

祭文語り

さいもん[祭文]①祭りの時、神の霊に告げる文章。さいぶん
②ニュース性の多い俗曲[うたざいもん]江戸時代を通じて行われた。
③[祭文語り]うたざいもんを語る職業の人。さいもんよみ。

新明解国語辞典第四版

祭文語り・・・法螺貝や短い錫杖(しゃくじょう)などを伴奏として、ふし面白く歌祭文を歌う職業。歌祭文は、江戸時代に行われた俗曲で、もと山伏が諸国を遍歴しながら神仏の霊験を唱えたものが、江戸時代になって世俗の出来事を面白おかしく唄うようになったもの。
との説明もあります。いまでは見られない職業ですね。

19世紀「デロレン祭文のチラシ」wikipediaより

炭鉱夫

夫婦者の工夫が二組・・・先山(さきやま)と後山(あとやま)二人一組でヒトサシといっていました。午前三時に入坑して、二人で炭函(すみばこ)5函くらいの石炭を掘っていました。一日の作業を終えると、二人とも炭塵で顔が真っ黒に汚れます。
若い女性の後山は、汗拭き用の手ぬぐいで何度も顔を拭いて昇坑していたそうです。

山本作兵衛コレクションより

 今では信じられない文化ですが、トップ絵のごとく、このあたりの炭鉱ではなぜか男女二人がペアで入ったようです。どのようなメリットがあったのか、山本作兵衛コレクションを読んでゆくと理解が深まるかもしれません。
 夕張炭鉱や、軍艦島ではそういう文化は無かったように見受けられましたが、下記のように林芙美子も子供時代ごっこ遊びをしています。ある程度一般性のある働き方だったのかもしれません。

炭鉱ごっこの遊びは、女の子はトロッコを押す真似をしたり、男の子は炭坑節を唄いながら土をほじくって行くしぐさである。

放浪記以前より

テキヤ

テキヤ・・・いかがわしい品物で客をあざむき、当れば(矢が的に当れば)利益を得るもの。的屋。

昭和36年版の巻末注解

ウーン若者向けに説明するには

テキヤ → 香具師(やし)
やし [野士の意という][縁日などに]道ばたで手品・居合抜き・こま回しなどをして見せた後、安い歯磨などの薬や香具(こうぐ)類を売りつける人。てきや。普通[香具師]と書く

新明解国語辞典第四版

この定義でいえば現代、縁日で屋台を出す職業を香具師とはあまり聞かない気もします。そのあたりも変化が面白いと思います。

ほうろく

ほうろくのように焼けた暑い直方の町角に、そのころカチュウシャの絵看板が立つようになった。

放浪記以前

ほうろく[焙烙]物を煎ったり蒸し焼きにしたりするのに使う、素焼きの土なべ。数え方[一枚]

新明解国語辞典第四版
ほうろく

こんなものさえ知らない私・・・みなさんは知ってるのだろうと思いますが私は知らなかったのでピックアップしました・・・

映画[カチューシャ]

カチュウシャの髪が流行って来た。

放浪記以前
wikipediaカチューシャ(映画)より

立花貞二郎は元子役であり日本の女形俳優である。

wikipediaより

流行しすぎて禁止された学校もあったとか。いい時代ですね。

「暑うしてたまらんなア。」この頃私には、こうして親しく言葉をかける相棒が二人ばかりあった。「松ちゃん」これは香月(かつき)から歩いて来る駄菓子屋で、可愛い十五の少女であったが間もなく「青島(ちんたお)」へ芸者に売られて行ってしまった。「ひろちゃん」干物屋の売りで、十三の少年だけれど、彼の理想は、一人前の坑夫になりたい事だった。酒が呑めて、ツルハシを一寸高く振りかざせば人が驚くし、町の連鎖劇は無料でみられるし、月の出た遠賀川のほとりを、私はこのひろちゃんたちの話を聞きながら帰ったものだった。

放浪記以前

連鎖劇

連鎖劇・・・映画の途中に実演を、又は実演の幕間に映画を挟んで、それぞれの効果を併用してみせる演劇。

昭和36年版の巻末注解

今でも、連鎖劇にチャレンジしようという舞台演出はあるのではないかと思いますが、よいサンプルは探せませんでした。

アンペラの畳の上には、玉葱をむいたような子供達が、裸で重なりあって遊んでいた。

放浪記以前

アンペラ

アンペラ アンペラ草[カヤツグリグサ科の多年草]の茎で編んだむしろ。表面は滑らかだが堅い。アンペラむしろ。[数え方]一枚

新明解国語辞典第四版
ただのゴザ、というわけでもないのかもしれません。

そうしてこの静かな景色の中に動いているものといえば、棟(むね)を流れて行く昔風なモッコである。

放浪記以前

モッコ

モッコ

棟をながれていくモッコ・・・

昭和4年頃---中鶴二坑・選炭場と積込場 

もしかして、トロッコのことをモッコとも言ったのだろうか・・・と、悩みますが、重いモッコを自動的に動かす装置があったのかもしれません。

多賀神社

母は多賀神社のそばでバナナの露店を開いていた。無数に駅からなだれて来る者は、抗夫の群である。

放浪記以前
多賀神社、直方駅近くですね。立派!

「あんたも、四十過ぎとんなはっとじゃけん、少しは身を入れてくれんな、仕様がなかもんなた……」
 私は豆ランプの灯のかげで、一生懸命探偵小説のジゴマを読んでいた。裾にさしあって寝ている母が父に何時もこうつぶやいていた。外はながい雨である。

放浪記以前

豆ランプ

豆ランプ。アンティークですね

探偵小説ジゴマは当時大流行した探偵小説。
ジゴマブームの中、少年層に犯罪を誘発するという説や、ジゴマの影響を受けたという犯罪の報道、泥棒を真似たジゴマごっこの流行などがあり、東京朝日新聞では1912年10月4-14日にブームの分析や影響が8回の連載で取り上げられた。

(wikipediaより)

マジかよ、いつの時代も変わらないですね。

「裾にさしあって寝ている母」という表現はわかりませんでした。
仲が良い表現なんでしょうかね?それとも寒さにこごえた表現なのでしょうか?

しばらくして父は祖父が死んだので、岡山へ田地を売りに帰って行った。少し資本をこしらえて来て、唐津物を糶(せり)売りしてみたい、これが唯一の目的であった。

放浪記以前

唐津物

唐津物 唐津焼のこと。佐賀県唐津市およびその付近で製した陶磁器。

昭和36年版の巻末注解

父は陽に焼けた厚司(あつし)一枚で汽車に乗って行った。

放浪記以前

厚司

厚司 大阪地方で産する厚地の綿織物で作った仕事着・半纏(はんてん)。紺無地か大名縞。

昭和36年版の巻末注解

参考写真が欲しくて、インターネットを検索すると、アイヌの織物アットゥシが上部に出てきます。巻末注解があって本当に良かった。

参考までに大名縞の半纏の画像です。

大名縞 半纏

或る日、街から帰ると、美しいヒワ色の兵児帯(へこおび)を母が縫っていた。
「どぎゃんしたと?」
私は驚異の目をみはったものだ。四国のお父つぁんから送って来たのだと母は言っていた。私はなぜか胸が鳴っていた。間もなく、呼びに帰って来た義父と一緒に、私達三人は、直方を引き上げて、折尾行きの汽車に乗った。毎日あの道を歩いたのだ。汽車が遠賀川の鉄橋を越すと、堤にそった白い路が暮れそめていて、私の目に悲しくうつるのであった。白帆が一ッ川上へ登っている、なつかしい景色である、汽車の中では、金鎖や、指輪や、風船、絵本などを売る商人が、長い事しゃべくっていた。父は赤い硝子玉のはいった指輪を私に買ってくれたりした。

放浪記以前

良い文ですね。とても。ここで放浪記以前は終了です。

ヒワ色

ヒワ色の参考。兵児帯ではありません。

遠賀川の鉄橋

遠賀川の鉄橋google map 2022年
遠賀川を通行する川ひらた
昭和9年ごろの折尾駅
昭和初期の鉄道風景

折尾駅

折尾駅については、こちらのブログが詳しいです。


お読みいただきありがとうございました。

次回から、東京暮らしのはずです。

今後ともよろしくお願いいたします。

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