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聖徳太子の一生について

 私は聖徳太子が好きです。
仏教を広めた聖徳太子のファンタジックでミステリアスな一面、物部守屋を討ち取った武将としての一面、冠位十二階を制定し、現代日本の礎を作った偉人としての一面、大国「隋」へ、日出所の天子…の文書を送って怒らせたという外交官としての一面、飛鳥文化を花開かせた文化人としての一面。
多くの書籍で聖徳太子が語られます。聖徳太子は語られすぎて、同性愛者として描かれることもあるようです。

 つまり、どう描いても自由。なのです。
いつか、誰かが聖徳太子を新しい視点で描くことができるように、初心者でもわかりやすい聖徳太子まとめが作れればと思って書いていきます。

いつものように、挿絵はPixAI様のMoonBeamです。

聖徳太子の名は、死後のおくり名です。いわゆる諡号しごうですので本記事では厩戸うまやどと呼ぶことにします。

トップ絵、推古と馬子と崇峻と厩戸!かっこいいですね。

生まれる少し前の時代

6世紀はじめ、武烈天皇が亡くなると、次の天皇に誰を据えるかが議論になりました。力を持っていたのは大伴金村おおとものかなむらと、物部麁鹿火もののべのあらかび
継体天皇は越前の出身ですが、応神天皇の子孫であると知られていたので、後継者として大和に呼ばれました。
継体天皇は朝鮮半島の戦乱を憂い任那みなまを取り戻すように命令します。(百済からの軍事要請でもあります。) 九州の豪族、磐井いわいにも兵を出すよう命令するのですが、磐井いわいはまわりの豪族とともに朝鮮に向かう行軍を阻止。大和へ反旗をひるがえしました。磐井いわいの乱です(527年)。
物部麁鹿火もののべのあらかびと、大伴金村おおとものかなむらははこれを平定します(528年)
しかし、朝鮮半島、任那みなまは新羅に滅ぼされました。(562年)
大伴金村おおとものかなむらは、外交の失敗、特に天皇家にとって大切な任那4県の百済への割譲、しかもその際に百済側から賄賂を受け取ったことなどを責められ、朝廷を追われることになりました。

ここから663年の白村江の戦いまで、外交としては、ずっと日本は任那みなまを取り戻すことを目標に動いています。遣隋使にしても、新羅に対するけん制の意味合いが強いのでした。

生まれた時代

厩戸うまやどが生まれた時、西暦574年生まれ。つまり6世紀半ば。
蘇我氏と物部氏が政治的に対立している中で生を受けました。
ときの欽明天皇のもと、蘇我稲目そがのいなめは仏教を広めるべきであるとし、物部尾輿もののべのおこしは、天然痘などが流行するのは仏教が原因であると主張し、対立しました。
欽明天皇の崩御が571年、そこから敏達天皇572年-585年、用明天皇585年-587年比較的短い時間に天皇が変わっています。
蘇我稲目の孫である用明天皇は厩戸うまやどの父。天然痘で亡くなります。
母は欽明天皇の第三皇女、用明天皇の皇后、穴穂部間人あなほべのはしひとです。

皇室は対立の中にあり、敏達天皇崩御は厩戸うまやど12歳。
用明天皇崩御(父の死)は厩戸うまやど14歳。

幼少期の奇跡

厩戸うまやどの母は、夢に金色の僧を見て懐妊しました。
生まれた時から言葉を話しました。
二歳の春、東に向かって合掌し「南無仏なむほとけ」と唱えました。
三歳で「桃と松はどっちが好きか」と聞くと「枯れることのない松が好き」と答えます。
四歳でいたずらをして、父の用明天皇に怒られるところ、一人逃げずに罰を受けた。「天地のどこにも逃げるところなどない」とこたえたのです。

深まる蘇我氏と物部氏の対立

 用明天皇は先が短いと知ると、仏にすがりたいと言いました。
仏に反対する物部氏は次のミカドに穴穂部皇子あなほべのおうじを推し、用明天皇に反対します。仏を信じる蘇我氏は「みことのりを奉ずるべき」と言い、泊瀬部皇子はつせべのおうじを推しました。
蘇我馬子そがのうまこは兵を動かし、穴穂部皇子あなほべのおうじを殺し、その後泊瀬部皇子はつせべのおうじ厩戸皇子うまやどのおうじとともに、物部守屋もののべのもりやを討ち取って盤石なものにしました。丁未ていびの乱(587年)
このとき厩戸うまやどが、「勝利の暁には、四天王をまつる寺を建立いたします」と願掛けをしました、今でも残る「四天王寺」です。
このとき厩戸うまやどは14歳。

自分の兄弟を殺して天皇になる崇峻

大ボス、蘇我馬子

蘇我馬子そがのうまこ丁未ていびの乱を起こしたときは、37歳です。
彼の姪で、のちの推古天皇である額田部皇女ぬかたべのひめみこ、このとき31歳です。意外と歳が近いですね。
蘇我馬子そがのうまこは、厩戸うまやど誕生の2年前に大臣として宮中に入ります。蘇我氏はのちの記録で大化の改新を正当化するために悪役に描かれることが多いため、そのつもりで見るのが良いかもしれません。
石舞台古墳は蘇我馬子の墓とされていますが……聖徳太子=蘇我馬子同一人物説もあるようです。興味深いですね。

馬子と推古天皇の図。うーんそうきたか。

崇峻天皇の悲劇

 泊瀬部皇子はつせべのおうじは蘇我氏の力で、(587年)35歳のとき崇峻天皇と呼ばれるようになるのですが、蘇我氏のいいなりにはなりませんでした。しかし、マエツキミ層とよばれる太政官たちからも距離を取る動きをします。そのため彼は孤立し、それらをまとめるべく敏達天皇の妻であった額田部皇女ぬかたべのひめみこ後の推古天皇は、どちらの派閥からも大きな信頼を得ていました。
 崇峻天皇は、筑紫の国に2万の兵を集めて、任那みなま奪還を志します(591年)。崇峻としてみれば、欽明以来の悲願を自分の代に一気に解決しようとしたのでしょう。しかしそれはかなわぬ夢でした。
翌年(592年)、庭につながれたイノシシの首を斬り、「こんな風に憎い男も殺せたら」と言ったため、蘇我馬子そがのうまこに危険視され殺されるとされています。そのとき40歳でした。
崇峻天皇を殺したのは東漢駒やまとのあやのこま
東漢駒やまとのあやのこまは、崇峻天皇を殺すと、その侍女を奪って自らの妻としました。

イノシシをなでる崇峻天皇


このとき厩戸うまやど19歳。

奪われた妻

東漢駒やまとのあやのこまは、崇峻天皇の侍女をさらい、自分の妻とします。しかし、その女こそ刀自古郎女とじこのいらつめ。彼女は蘇我馬子の娘であり、厩戸うまやどの妻でもありました。
東漢駒やまとのあやのこまは、崇峻天皇殺害のために罪に問われたのではなく、すでに夫のある蘇我馬子の娘と密通し、けがしたことで罪に問われて処刑されます。

東漢駒やまとのあやのこま刀自古郎女とじこのいらつめの、外国語を教える家庭教師のような立場にありました。
刀自古郎女とじこのいらつめは、東漢駒やまとのあやのこまが死ぬと、後を追って自害したと言われています。

この項目では、同一人物説と別人説どちらの立場もとっています。彼女は後に厩戸の子を産んでいますので自害した場合、別人説です。

容疑者厩戸

なぜ、崇峻天皇を堂々と殺しておいて、その罪に誰も問われないのか?
東漢駒やまとのあやのこまに崇峻天皇暗殺を命じたのは蘇我馬子そがのうまこです。そう日本書紀に書かれています
崇峻天皇が崩御したならば、そのまま、次の天皇は、おそらくは自動的に、厩戸うまやどになるはずなのです。しかし、そうはならず、前代未聞の初の女帝、推古天皇が即位しています。
このことから、SF作家の豊田有恒氏などは、「聖徳太子の悲劇 なぜ、天皇になれなかったのか?」の中で厩戸容疑者説を挙げています。

日本書紀に犯人が書かれているのであれば、それ以上の追求はすべきでないかもしれません。しかし……
厩戸うまやど東漢駒やまとのあやのこまに妻を与えると言い、犯行させたあとに、東漢駒やまとのあやのこまを殺す。
という場合も考えられるかもしれません。

いずれにしても、厩戸うまやどは天皇になることはできず、そこからずっと推古天皇の摂政として政治に参加します。

日本初の女帝、推古天皇

推古天皇は蘇我馬子の姪です。女帝は歴史上でも奈良時代に8回、江戸時代に2回計10代あります。
ここでは卑弥呼が女帝だったのでは、ということは排除しています。

厩戸うまやどは推古天皇が即位した592年、その翌年、かぞえで20歳の若さで摂政として政治の世界に入ります。

推古天皇には、竹田皇子たけだのみこという男子がありました。
推古天皇は死ぬ歳、自らのなきがらを竹田皇子たけだのみこの墓に合葬するように命じました。
推古天皇と蘇我馬子そがのうまこは、厩戸うまやどを天皇にするのではなく、竹田皇子たけだのみこを天皇にしたかったのではないかという説もあります。
こうなると、容疑者厩戸は、罪をなすりつけられたかっこうにもなりますね。

誰よりも息子を愛した推古天皇

推古天皇による朝鮮出兵

仏教の普及のみにフィーチャーされがちなのですが、日本書紀によれば、推古天皇の時代にも、3度にわたって朝鮮出兵を行っています。

600年、第一次推古朝 新羅征討
五つの城が攻略され、新羅は降伏したが、倭軍の帰国とともに新羅が再度攻め入って奪われています。
601年、高麗と百済に外交官を派遣し、新羅征討を打診します。

602年、厩戸うまやどの同母弟である来目皇子くめのみこによって筑紫に軍が集まるが、来目皇子くめのみこはその年、病に倒れ翌年病死。計画は頓挫します。
(このとき厩戸うまやど29歳)
603年、同様に同母弟である当麻皇子たいまのみこが派遣されるが、妻が明石で病死すると、軍を引きました。
(このとき厩戸うまやど30歳)

厩戸の湯治

さて、厩戸は、摂政としてずっと政界にいたのでしょうか?

伊予の国風土記によれば、
厩戸と、慧滋法師葛城の臣三人が、道後温泉に入っています。
年代として、法興6年(596年)。
法興という元号は、伊予の国風土記でしか使用されていない私年号です。
32年まで記録されています。『伊予国風土記』逸文や、法隆寺釈迦三尊像光背銘に記載されています。
法興6年(596年)は、厩戸23歳です。摂政というのはそれほど、のんびりかまえてよいものなのでしょうか?あるいは、地方豪族の平定のために全国を行脚した可能性はあります。
SF作家の豊田有恒氏は、19歳時点での崇峻天皇暗殺から少なくとも23歳までは湯治していたのではないかと著書の中で語っています。

慧滋法師が来日したのは595年なので、計算はもちろん合うのですが……
四天王寺を建立したのは、593年、崇峻殺害の翌年。摂政になった歳でもあります。摂政になって、四天王寺を建立して、そこから仏法に励みますので、伊予の国には行っていないのではないか、という説も嘘ではなさそうですし、じっくり湯治する、あるいはほとぼりを冷ます時間があってもおかしくはなさそうです。

四天王寺は馬子が建てたって良い

政界にて

ここからは、しばらく年表です。
597年(24歳)、吉士磐金を新羅へ派遣し、翌年に新羅が孔雀を贈ることもあった。
600年(27歳)に新羅征討の軍を出し、交戦の末、調を貢ぐことを約束させる。
601年(28歳)斑鳩宮を造営した。
602年(29歳)再び新羅征討の軍を起こした。
603年12月5日(30歳)、いわゆる冠位十二階を定めた。氏姓制ではなく才能を基準に人材を登用し、天皇の中央集権を強める目的であったと言われる。
604年4月3日(31歳)いわゆる十七条憲法を制定した。
605年(32歳)、諸王諸臣に、ひらみの着用を命じる。斑鳩宮へ移り住む。はじめは、馬子の血をひいているのではじめうまくやっていたが、やがて疎まれるようになり、厩戸は斑鳩に移動する。
斑鳩宮は「上宮かみつみや」とも呼ばれたため、厩戸自身ここから「上宮」と呼ばれることになる。

怒られないかなあこんな出して。AIです。

607年(34歳)、屯倉を各国に設置する。小野妹子を遣隋使として隋の煬帝ようだいにつかわせる。翌年、返礼の使者である裴世清はいせいせいが訪れた。この返書と裴世清はいせいせいの帰国のため、妹子を、高向玄理、南淵請安、旻ら留学生と共に再び隋へ派遣した。
612年(39歳)百済人の味摩之が伎楽を伝え、少年たちに伎楽を習わせた。
613年(40歳)掖上池、畝傍池、和珥池を作る。難波から飛鳥までの大道を築く。日本最古の官道であり、現在の竹内街道とほぼ重なる。
614年(41歳)犬上御田鍬らを隋へ派遣する(最後の遣隋使となる)。

厩戸皇子は仏教を厚く信仰し、615年(42歳)までに『法華義疏』『勝鬘経義疏』『維摩経義疏』を著した。これらを「三経義疏」と総称する。

620年(47歳)、厩戸皇子は馬子と議して『国記』『天皇記』『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を編纂した。

622年(49歳)、斑鳩宮で倒れた厩戸皇子の回復を祈りながらの厩戸皇子妃・膳大郎女が2月21日に死去し、その後を追うようにして翌22日、厩戸皇子は死去した
厩戸は48歳で死ぬ。数えで49歳。天然痘である。

厩戸の歌

家にあらば、妹が手まかむ草枕
旅にこやせるこの旅人あはれ 万葉集 3巻

家にいたら、この人も伴侶と抱き合って眠っているだろう。旅路だから、草の枕に横たわって亡くなっているこの旅人は気の毒なことよ。

この旅人は達磨大師という説もあります。

黒駒伝説

 甲斐の国から献上した4脚の白い馬を太子が喜び、飼わせました。秋になり太子が黒駒に乗ったところ、たちまち雲に浮かんで東方に走り、3日の間に富士山頂を通り信濃などに行って帰ります。太子は神馬であるとほめました。

馬、白いですね。どっちだ?

文化

法隆寺の釈迦三尊像は、聖徳太子を模したものです。
妻の橘大郎女たちばなのおおいらつめは、彼の死を悲しみ天寿国繍帳てんじゅこくしゅうちょうを侍女たちとともに刺繍しました。

服毒自殺の可能性

亡くなる前に、「世間虚仮」(生きていても無意味・・・という意味)と言ったと伝わっています。 
亡くなってすぐに太子の妃で最も身分の低い膳大郎女と合葬されています。(聖徳太子の時代、普通はモガリというある程度の死体安置期間を経て埋葬されるのが普通でした。しかし、不幸な死に方をして怨霊になりうる死者は、モガリを経ずにすぐ他の者と合葬されることが多かった為、聖徳太子も不幸な死に方をしたと思われます。)
 「聖徳」という、この最高の名前と、数々の素晴らしい功績の言い伝えが、不幸な死に方を物語っています。不幸な死に方をした死者には、言葉で褒め称えることにより、怨霊になることを防げると当時の人は考えていました。 これらのことから、自殺をしたのではないかと疑われています。

馬子と推古天皇の死

蘇我馬子の死は626年、厩戸の死から4年後。数えで76歳での死。
推古天皇の死は628年、数えで75歳での死。
その後政治は乱れます。

聖徳太子という名称

「聖徳太子」という名称は死去の129年後、天平勝宝3年(751年)に編纂された漢詩集『懐風藻』が初出と言われるが、定かではありません。

「聖徳太子の秘密」の著者井沢元彦によれば、乙巳の変、いわゆる大化の改新で、中大兄皇子と中臣鎌足(藤原鎌足)が、専横はなはだしい蘇我入鹿を殺害します。
その蘇我入鹿が殺されたのは、蘇我入鹿が厩戸の息子である山背大兄王やましろのおおえのおうを殺した呪いであると考えられたからではないか。と言います。
これまでに何人もの皇族を殺してもわが世の春を謳歌してきた蘇我氏が、厩戸の息子を殺したとたんに断絶してしまうのですから。
厩戸の呪いを恐れた人々が、誰言うとなく、厩戸皇子を聖徳太子と呼ぶようになったのではないでしょうか。

「徳」の字は、人間の最高の品性を表します、それゆえ、日本では非業の死、あるいは不遇の死を迎えた貴人に対して死後に「徳」の名をあたえることで「どうか永劫に徳のある状態でいてほしい」と願ったのではないでしょうか。

白村江の戦い、百済と倭の敗戦、そして日本誕生

その後、朝鮮半島では、白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)が663年におこります。
百済は滅亡、唐と新羅の連合軍対、百済と倭が戦い、倭が敗北します。
これにより厩戸皇子の時代からずっと目指していた朝鮮への出兵は諦めることになり、倭国は外交よりも内政をまず固めるようになりました。
672年、古代最大の内戦壬申の乱が勃発し、これにより即位した大海人皇子天武天皇は日本の体制を専制的に整えることに注力します。
統治システムを継承した持統天皇は、701年大宝律令にて国号を日本とあらためました。

これにて日本誕生。
このあたりは、厩戸皇子とは別なのでおまけです。

ペルソナ設定

最後に、ペルソナ設定に重要そうな点をピックアップしてみましょう。

貴人として生まれた時から、おそらくはとても大切に育てられます。
しかし、周囲は仏教を受け入れるかどうか、そんなことでいがみあっています。

父と母は、異母兄弟。とても仲が良かったのでしょう。
厩戸を長男として、二人は5人の子をもうけています。

立派なおじいちゃん、欽明天皇が崩御するのは厩戸が生まれる3年前です。
後を受け継いだ敏達天皇はおじにあたり、後に推古天皇となるおば、この二人も異母兄弟です。二人の間に生まれた菟道貝蛸皇女うじのかいたこのひめみこが、厩戸の妻となりますが、子もなく結婚後まもなく逝去したと思われています。

幼いうちに結婚し、死に別れた妻がいた。

おじである敏達天皇の死は12歳のころ。
物部守屋と蘇我馬子は、その葬儀でさえ、互いに罵倒しあっています。

14歳のとき、用明天皇である父は、死ぬ間際、仏教を選びました。
厩戸は、蘇我馬子とともに、物部守屋を討ち果たします。
その際、ともに戦ったのは、敏達天皇の弟、崇峻天皇。
戦功を認められ、崇峻天皇の侍女であり蘇我馬子の娘、刀自古郎女と会っているでしょう。

19歳のとき、崇峻天皇暗殺事件が起きます。
刀自古郎女は、東漢駒やまとのあやのこまに奪われますが、刀自古郎女と、厩戸がいつ結婚したのかというところが面白さのポイントになるでしょう。

刀自古郎女とじこのいらつめとの間には、山背大兄王・財王・日置王・片岡女王の三男一女をもうけました。
いわゆる斑鳩いかるがの「上宮家かみつみやけ」として、重要な息子が生まれるのです。

25歳で膳部菩岐々美郎女かしわで の ほききみのいらつめと結婚
彼女には「死後は共に埋葬されよう」とまで言っています。
子供に舂米女王つきしねのひめみこなど、四男四女に恵まれたとされます。が、彼女の身分が低かったためか。記録が少ないようですね。

妻はもう一人、橘大郎娘たちばなのおおいらつめがいます。
世代としてはひとつ下、彼女は欽明天皇×推古天皇の孫にあたります。
白髪部王、手嶋女王の二人の子に恵まれました。

四人の妻と、どのように出会い結婚したのか、これがドラマにとって最重要になるでしょう。

いさかいが続く宮中で成長する中で、世界はどうあるべきかを考えたことでしょう。17条の憲法、和をもって貴しとなす。これは国家全体へ定めると同時に、成長期の苦悩から、天皇家に対しての掟としても重要としたかったのではないでしょうか。

おわりに

お読みいただきありがとうございました。
まとめたおかげで、私の聖徳太子の理解がすすみました。
誰かのお役に立てたら幸いです。

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