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映画『パニック・マーケット 3D』を観て思ったこと -再生のための餌(bait)-

サメ映画観るぞ!と意気込んで再生したら全く関係ないことを考えてしまった。以下、『パニック・マーケット3D』(2012)のあらすじです。

■あらすじ
主人公のジョッシュは、ビーチのライフガードだった頃、同僚で親友だったローリーがサメに食われた事件に囚われ続けている。スーパーマーケットでの勤務中ローリーの妹で婚約者だったティナと再会するが、直後強盗が現れ、さらに直後大地震と津波が起きて全てがメチャクチャになる。水に沈んだスーパーの中で、棚の上によじのぼれた生き残りs’(ジョッシュ、同僚、ティナとその恋人、万引き少女ジェイミーとその父親、その恋人、スーパーのオーナーなど)はひとまず力を合わせて脱出しようとするが、サメの襲撃やら電線の漏電やら人災やらトラブル満載。果たして無事に脱出できるのか。

 このように見どころ盛りだくさん。サメは主役というより、スーパーに閉じ込められた人たちが直面するトラブルの一つ。とはいえ要所要所に登場し、美味しいところをかっさらって(物理)いきます。よくサメ映画のランキングで名前を見かけるこの映画、たぶん感想も批評もある程度書き尽くされてるんではないでしょうか。
サメ映画の死ぬ順番って結構パターン化されていると聞きます。例えば、一番手はたいていビーチで調子に乗ってる若者とか、一人で泳いでいる女性だったり。
本作はサメ登場前にすでに津波によって大勢の犠牲者が出ていますが、それでも足りないのか色々な要因で生き残りたちも斃れていきます。で、観終わってから振り返ると、その死を余儀なくされたメンツにはなにか、サメ映画あるある以外の法則性があるような気がして、このNoteを書いた次第です。

※ネタバレを多分に含みます。






悪い(ことをした)奴は基本死ぬがいいやつが生き残るとは限らない


 強盗の人殺して人質も取った方は、性懲りもなく人質を取って仲間の良心ある方にサメの生き餌にされる。おバカ枠のカップルの男の方は、生き残るために恋人の犬を見捨てたり、同級生(ジェイミーの恋人)をオタク呼ばわりしたりしたからか、運悪くサメに食われる。この人らも悪い人間だったというよりはむしろ弱かったのかなと思うけど、じゃあ強い/良い人間が生き残るのかというとそうでもない。ティナの現恋人は混じり気なしのいいやつで、みんなのために命がけで水中の配電盤操作に向かう勇気もあるけど、そこで窒息死する。オーナーは友達思いだし、脱出しようとした排水管がデカめのクモだらけでも「やれる」と言ったけど、もがいている最中にサメジャンプで下半身を食いちぎられる。生き残りの法則はあるようでなく、でもある。

ティナの今彼とオーナーはなぜ死ななくてはならなかったか

 ガッツと優しさを持ち合わせた二人が非業の死を遂げた理由(二人ともアジア人なのはちょっと複雑)は正直、生き残りs'のしがらみを無くしておくためだと思う。ティナの今彼は言うまでもなく、ジョッシュとティナがよりを戻すために消える必要があった。ティナの今彼が作中でやったことは、ジョッシュにティナと体の関係はなかったと伝える、ブレーカーを落とす、そして死ぬ。彼は言ってみたらティナの貞淑、ジョッシュへの愛を証明するためのツールで、役目を果たしたら邪魔にならないように退場させられた。オーナーは生き残りs'の三人、ジェイミー、ジェイミーの恋人、そして強盗の善玉枠と因縁があった。彼は地震が起きる前はジェイミーを万引き犯として警察に突き出したし、雇用主としてジェイミーの恋人を解雇した。強盗には、本人が手を下してはいないが共犯が友人だった同僚を殺したから敵討ちを宣言していた。彼が生き延びればこの三人、とりわけジェイミーと強盗はスーパーを生きて出られてもトラブルを免れない、だから彼は死ななきゃならなかった。これがこの物語のメインテーマとも関わってくる。

「再生」とその裏にあるもの


 主人公ジョッシュの物語は、明らかに「再生」譚になっている。サメから親友を守れなかった罪の意識を、マーケットでサメを仕留めその妹であるティナを含んだ人々を守ることで精算する。瓦礫の山になった町に重なる最後のセリフは「やり直そう」なのも示唆的。
ジェイミーも同じストーリー持ちなのが強調されている。母の死から逃げたことをずっと後悔していた彼女は、サメに立ち向かう道具調達のために自ら水に入る勇気を示し、不仲だった警察官の父との絆を取り戻す。加えて善玉強盗も類型。自分の行動の結果人が死んだ罪悪感を抱え、悪玉のほうを殺し人質を助ける。これでいくと悪玉強盗の死も善玉強盗の罪の精算のツールだった。あとこれはこじつけに近いけど、ジェイミーの恋人に「オタク」の烙印を押しておそらく日常的に虐げていたおバカップル男の死も、彼がこれまでの生活から人生を一新するために必要だったと思う。
 要は、「パニック・マーケット」は過去に犯した罪を償いたいと思っている人たちがそれを精算し、「やり直す」機会を与えられる場所だった。それがジョッシュ、ジェイミー、善玉強盗。でもそれは裏を返すと、彼ら主人公的存在が「やり直す」上でしがらみになる人たちを順々に退けていく物語でもある。原題の「bait」は「餌」の意で、オーストラリアでは「泳ぎ上手」という意味もあるらしい。でも原理的に考えれば、「餌」は釣りやら狩りやらの目的を達成するために差し出す供物のことを指す。死者たちは、罪人たちの罪の精算という目的のために犠牲になった「餌」だったと言えるんじゃないか、と思った。


 もちろん統計を取れるほどサメ映画を見ているわけではないため、一作品を観た一個人の所感です。
最後に、こちらの『パニック・マーケット』、2022年12月現在はAmazon Primeで視聴できます。よろしければぜひ。

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