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ささえるもの

このところ、ずっと体調もすぐれず、気持ちも落ち込んでいた。
何もする気になれなかった。
そんなときに、息子が1泊2日の修学旅行で留守になった。
いつも息子がいるからなんとか食事を用意して、学校へ送り出すための用意をしていたのだが、それがないと私は本当に抜け殻のようだった。
あー、私は一人では生きられないのかも、と思った。
そして、すごく久しぶりに本棚の本が目にとまり、読む気になった。
その本の気になった文章を抜き出して、書き写させてもらおう。

愚痴はいやがられる。
一方、弱音というのは逆に認めてもらえるものだったりする。
誰かに対して憎悪をぶつける愚痴とは異なり、弱音は自分の弱さを正直に吐き出す行為だからか、相手に受け入れられることが多い。
愚痴は邪気のようなものであり、弱音は自分の真の姿なのである。

息子のひと言に安心することができた。
弱音は本当に親しい人間、親友や身内にだけ吐き出すものなのかもしれない。
誰にでも彼にでも弱音を吐いていると、ただ弱い人間になってしまう。
しかし本当にきついとき、いちばん信頼できる人にぼそっと自分の弱さを見せることは、いいガス抜きになる。
このような異常事態の日々、弱さを隠さないことも必要なのかもしれない。
その弱さは、自分の底力を引き出す強さの引き金となる。
愚痴を言っても、人生はきっと変わらない。
たぶん、愚痴というのは憎悪だからだろう。人に責任を押しつける行為だからである。
ところが弱音というのは、ダメな自分を見つめる力でもある。
自分の弱さを知っている人は強い。

愚痴を言っても、状況はきっと変わらない。
もちろん、弱音を吐いても劇的に状況が変化することはないだろう。
しかし弱さを見せる相手によっては、その吐露が人生を再構築するための第一歩になる。
自分を切り替えるスイッチになる場合もある。
弱音を吐く相手というのは決まっているはずだ。その人は頼れる人間なのであろう。
そういう相手がいるというだけで、あなたの人生は素晴らしい。
叱咤激励を受ければいい。

『自分流 光る個性の道を行く』辻仁成 P45、46

今、自分がどうすれば少しでも前を向けるようになるかを考えていたら、学生時代のことを思い出した。
学生時代、よく本や雑誌、新聞などの気になった文章を抜き書きしていた。
ただ読むだけよりも、自分の体の中に入ってくるような感覚があって、時間があれば書き写していた。
その後、活字や文章を扱う会社で20年働いたこともあり、私を支えるのはよくもわるくも言葉なのかもしれないと思えた。
だから、気になった言葉をこうやって書いていたら、自分を客観視できるかもしれない。
そんな期待もあり、またnoteに記すことにした。

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