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人間関係における、「信じること」の重要性(2024/03/10)

お久しぶりです、ルリタニシです。
もう3月だというのに北海道は未だ冬景色で、SNSで回ってくるミモザやサクラなどの写真を見ると温度差にびっくりしている今日この頃です。
最近の私はというと、絶賛春休み中でありまして毎日自分のすることを自分で決められるという贅沢な日々を送っています。しかし、このnoteを更新しているということは...。そう、ルリタニシ絶賛悩んでおります。今日はここ最近モヤモヤしていて、なんとか出口を見つけようとしているこの苦悩を書き残したいと思います。

私が今悩んでいることは、お付き合いしている人との向き合い方です。
元々私自身に気持ちに波があって、相手の悪いところもひっくるめて好きだなぁと思える期間もあれば、相手の良いところでさえも素直に受け取ることができない期間もあり、なかなか情緒が安定しないという悩みはありました。しかしなんとかこれまでその波を耐え凌ぎ、その度に相手をまた好きになるというサイクルが回っていたのですが...。今回も気持ちを上向きに持っていけるか戦っている最中です。

「会いたい」と「会う」は常にセットではない

これまでを振り返ると、まずこの時期の私を呼び起こすトリガーとして、相手からの連絡が遅いだとか会う頻度が落ちるといった、「当たり前だと思っていたものが急に揺らぐ」という現象が挙げられます。
そうすると、相手に何かあったんじゃないか、私が何か悪いことをしてしまったんじゃないかと不安になり、気づいたら相手のことを気にしてしまっているという時期に突入します。大抵この時期は私が思い切って「会いたい」と伝え、本人と答え合わせをすることで脱却しているのですが、実は厄介なのはここからなのです。
あまり会えなくなっていた原因がわかり、そのときはホッと一安心するのですが、その原因が解消された後でまた誘いの連絡が来ないぞ.…と不安になると、いよいよ理由がないので、もしかして私に会いたくないのでは…とより一層不安が強まるのです。(書いていてわかる、とんでもない奴だ。)
実際に会っている間も、無意識に相手を疑っているのか自分自身が素直になれず、心から楽しめないという事態に繋がっていきます。自分が楽しめないと2人で会っている時間さえ否定してしまい、幸福度が急降下していきます。ここまでが恐ろしく早いのです。

結局自分を不安にしているのは、会えない理由でも会いたい時に会えない相手でもなくて、自分自身なんだと思います。
私だって1人の時間も大切なのに、会っていない時間に相手が「なぜ誘ってくれないんだろう、会いたくないのかな...。」なんて思われていたら困ります。少し客観的になると、「会わない時間 =   会いたくない」という公式を無意識のうちに受け入れている自分に気づいてきます。もっと言うと、会いたいな…と言う気持ちと、会いに行くと言う行動は常にセットではなくて、会いたいという思いを持ちながら1人で過ごす時間もあれば、会いたくないけど会いに行く時もあるんだと思います。
そう考えると、私自身が相手に会いたいなぁと思うその気持ちを素直に受け入れることが最大限自分に出来ることではないかと思えてきました。そして相手もそう思ってくれていたら嬉しいな、とささやかに願うことが信じることなのだと思います。

確かめようとすることは信じることと相反する

先ほど私が相手からの行動を求めすぎてモンスターと化している間は直接会えても満たされないと言うことを言及しましたが、これも自分が出来ることのテリトリーからはみ出てしまっているからこそ起こる問題なのだと思います。相手の好意を確かめようと躍起になることと、相手にも好意があったらいいなと願うことは全く異なります。確固として揺らがない事実がある事象の検証であれば「確かめる」という行為は必要不可欠ですが、感情という確証のないモヤのようなものを、ましてや他人の中に生まれるものを確かめようとするのはあまりにも無謀であると感じます。仮に相手の好意を確かめられた!!と感じても、それは思い込みにすぎないのかもしれません。
結局私が出来ることは自分の中に生まれる感情の「確かさ」を実感することと、相手にも似た感情が生まれているといいなと願うことしかないのだと思います。

考えて書いて、読み直して考えてを繰り返すと、やっぱり自分が想像していなかった結論に至りますね…。でも本を読んでいるときの、誰かの考えをなぞっていく楽しさとはまた違う面白さが書く行為にはある気がします。この文を何度も読み直して、少しずつ自分の中に落とし込んでいこうと思います。

それではまた…🌱

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