『 普通ということ 』 . 「 只 (ただ) 」
『 生活の中で 』
自分でも良く分からないのですが、私は中学、高校の時からテレビの天気予報の時に流れているようなBGMの音楽が大好きでした。どういう訳か自分の中の大事な琴線に触れるような感じがあって、ふと幸福な気分に身を置けるような気がするのです。そして、今の若い人は知らないでしょうが、その頃はテレビも夜の12時になると各局とも放送終了となり、それぞれの終了時の映像と音楽が流れるのですが、それはおそらく開局当時のものなのでしょう、何とも素朴でノスタルジー溢れる魅力的なもので、大好きでいまだにはっきり覚えています。
自然が好きだった私は、大分以前から番組として、クラシック音楽をBGMとした様な、美しい自然の映像を流すだけのヒーリング番組のようなものがないものかとずっと思っていたのですが、最近になってやっとこのような番組が増えて来て、やった〜と喜んでいたのも束の間、見ているとBGMに、美しい自然の映像に全く合いそうもないハードなロックやジャズ、思いっきりシャウトする女性ボーカル、さらには現代音楽などが使われたり、映像にしてもやたらにスローモーションと早回しの繰り返しだったり、ピントをぼかしたり、色彩にハレーションを起こさせたり、ひどいものになると画面がぐるぐる回転したりするのを見るにつけ、一緒に見ている家内と「なんで普通に出来ないんだ?」というのが口癖になってきてしまい、最近ではあんなに求めていたヒーリング番組を見なくなってしまいました。今では、YouTubeで探しています。
どうして昔の様に「普通でいいもの」が創られなく、また創らなくなって行くのでしょうか?
今でははそんなに普通と言うものは評価されないのでしょうか?それとも普通と言われてしまうものを作っていたのでは採用してもらえないのでしょうか?
どうもこの辺りの事情がよく分からないでいるのです。
以前住んでいた所では、毎年恒例の3月の道路工事がしきりに行われていたものですが、工事の後の道路の修復がいつもひどく、道路の端の側溝との境に段差ができて、大きなくぼみになったりしていて、雨が降れば水が溜まり、歩く際には 車が通ればハネがあがり、自転車で通れば段差に車輪が盗られ転びそうになったり、車で通れば段差の衝撃で腰を痛めたりと中々の不都合があるにもかかわらず、一向に改善されないその仕事ぶりに、どうしてこの様な平らに戻すだけの当たり前だが大事な仕事を普通に出来ないものか、その様な仕事の経験の無い私には、その原因がどこにあるのか(時間が足りないのか、人員が足りないのか)分かりませんが、それが残念でなりませんでした。
『 普通の仕事 』
若い頃から様々なバイトを渡り歩いて来た私ですが、歳を重ねるに従って段々と境遇の悪い仕事が増えてくる事になり、その様な中、過酷な労働だったり、新人という事で意地悪をされたりと中々に辛い思いをしたものです。しかし、どういう事かその様な中にも親切な人がいるもので、ろくに仕事が出来ない私に色々と教えてくれたり、かばってくれたりと、色々と助けてもらったものです。
そして、その様な人の多くは愚痴や不平不満を言わず、与えられた、大抵は大変な仕事を黙々と、坦々と行なっている人が多く 関心したものです。その様な人に出会い、その様な経験が重なってくると、そのうちに「 この様な人達が世の中を支えているのではないか? 」という想いが自然と生まれて来ました。こんな事を書くとちょっと大袈裟に聞こえるかもしれませんが、これは私の経験から出てきた紛れも無い実感です。
私は母の介護でしばらく実家に帰っていたのですが、その中で全く経験が無く右往左往するばかりの私にとって、看護婦さん、介護士さん、ヘルパーさん方の明るく、親切な対応を見るにつけ感謝せずにはいられませんでした。さらにはヘルパーさんなど、仕事でもないのに「 近所に来たんで様子を見に来ましたよ〜」とオムツや下の世話をしてくれたりと 全く頭の下がる想いで、どれだけ精神的に助けられ、救われたか分かりません。その様な事を経験してきた者として看護婦さん、介護士さん、ヘルパーさん方の境遇の悪さ(過酷な労働、賃金の安さ、人手不足)などの報道を見るにつけ、社会、経済の事には全く疎い私には、どうしてその様な状況になってしまうのか、全く理解出来ないでいるのです。
最近の情報番組などを見ていると、しきりに若い起業家や投資家の方々がコメンテーターで出演されているのを見かけます。もちろん若い人で優秀な方が立派な仕事をされているのは良く知っているのですが、彼らの問題ではなく、何か世の中の流れが全て、その様な仕事をもてはやす様な風潮は何かしっくり来ないものを感じるのです。もっと普通で当たり前だが、然し大事な仕事、その様なものを大事にしてもらえないものかと素直に思うのです。
仏教哲学者の鈴木大拙氏は、この辺りの事について文章を残してくれています。
本当に分かっている人は、誰にでも分かるように簡単な言葉で伝えてくれるのがありがたいです。
何でもない仕事、それが最も大切なのです。何か人の目を驚かす、といふやうなものでなくてよいのです。この節は、人々の目を引くやうなことをやらぬと、立派でないやうに考える人もあります。あるいは、何でも異常なことでも申さぬと豪傑になれぬとか、偉い人になれぬと思うのです。妙なことになりました。ほんとの人間尊重といふことの意味は、そのやうなことに對してではないのです。いかにも平凡ですね。木をかうやって挽いてをるところが、そこが最も大事なところです。われわれの一生といふものは、なにも人の目を驚かして、偉い者になろうとか、なったかとかいふところにあるのでなくして、日々の仕事をやることが一番です。
鈴木大拙.(1982).『鈴木大拙全集』.「東洋の心」.「人間尊重の根底にあるもの」.pp.145-6.岩波書店.
『 只(ただ)』 という事
両親が亡くなり、実家の整理が始まりました。
両親、祖父母の物と二世代に渡る物があり、中々大変です。
全く知らない写真やハガキ、さらには母親の通信簿が出てきたりと、毎日その様なものを見ていると、なんとも言えず感慨深いものがあり、誰しも言うように、もっと色々な話を聞いておけば良かったと後悔の念が出て来たものです。
毎日そんな想いで整理をしているうちに、両親、祖父母の人生を想うにつけ、いつしか自分の中に「人は、すべき事をして死んでいけばいいのではないか?」という想いが生じて来ました。こんなものが何処から出て来たものかも分かりません。彼らの人生を想っているうちに自然と生まれてきたものです。これには何も難しい意味はありません。すべき事などと言っても義務というような面倒なものではありません。どうも言葉にする事は出来そうにないのですが. . . .
私の祖父母、両親は誰でもそうであるように特別な人間では無く、ごく普通の当たり前の人達でしたが、 すべき事をして死んでいったもののように想うのです。これは特別な事ではなく、誰でもしている当たり前の事です。そしてこれはひょっとすると「 只(ただ)生きていけばいい」という事かもしれません。(もちろんこれは刹那的なものでも、消極的なものでもない事は言うまでもありません。)
仏教哲学者の鈴木大拙氏は、生前、アメリカに渡って哲学の講義をされていたのですが、その当時紹介されていた本の中の話に関心して何度か紹介しています。
それはある親子の日常的な話で、小さな娘が外に遊びに出掛けて、しばらくして帰って来た時に、母親が「何処にいっていたの?」と聞くと「out 」という素っ気ない返事、「何をしていたの?」と聞くと「nothing(何もしていない)」と答えるだけだったそうで、その返事に不満だった母親は「そんなはずはないでしょう、何をしていたの?」と少しキツく問いただしたのですが、相変わらず娘は「nothing」、「nothing」と泣きながら繰り返すばかりだったそうです。この話に大拙氏は書いています。
これだけの會話だが、自分はこれを讀んで「ここに東洋的「自由」の眞理が、いかにも脱洒自在に擧楊せられてゐる。實に菩薩の境地だ」と関心した。 (中略)
「何もしていない」には無限の妙味がある。子供心理の全面が、何らの飾りもいつわりもなしに、赤裸裸底に出てゐる。大人から見ると、子供は、とんだり、はねたり、種種様々の遊びをやったに決まってゐる。(中略)何らの努力もなければ、何らの目的も意識せられぬ。ただ興の動くにまかせ、そのままに、飛躍跳動したにすぎないのである。當面の子供から見れば、何もしてゐないのだ。春の野に鳥が啼いたり、若駒が駆けまはるのと、何もかはらぬ。何らの目的をも意識してゐない。 (中略) 老子の「無為」である。東洋人のよく云ふ「無我無心」である。
鈴木大拙.(1982).『鈴木大拙全集第20巻』.「大拙つれづれ草」.「自由の意味」.pp347.岩波書店.
人は毎日動き、働き、活動しているが、自分がしている行為は、同時に表面的な自分ではない「自分の中の背後に在る大きな働き」がしているのだという、この大きな働き、この子供の言う「nothing(何もしていない)」はこの事の無意識裡の表現なのでしょう。そしてこの事は「只(ただ)生きていけばいい」という事に通じるものがあるような気がします。
以前、何処かで読んだ事があるのですが、浄土真宗の徳のある僧が、まだ安心を得られない信者に「どうやって念仏を申せば良いのか?」と聞かれた時、「只(ただ)申すばかりー」と答えられたと言う話が載っていました。私はこの「只(ただ)」という言葉に妙に魅かれるものがあります。どうもここに何か分からないながらも、東洋的なもの、東洋的な深い世界を、何やら個性などを超えた人間の働き、是非を裁断した、一刀両断的な絶対的なものを感じるのです。この「只(ただ)」に 「すべき事」の意味を見たいのです。つまりは「只(ただ)生きていけばいい」のではないかという事です。
私は以前から、絵にしても、文章にしても、何をやるにしても、とにかくやってさえいればいいと言う思いが強くなって行ったように思います。そしてやってさえいれば、仕事は、必ず終点に連れて行ってくれる、必ず答えを出してくれる、そんな風に思っています。そして、仕事に身を任していれば、何となく生活全ての事がうまく回転して行く様な気がするのです。これは誰でも同じでしょう、違いは無いはずです。
そしてこれが陶工 河井寛次郎の言った「仕事が仕事をしている仕事」の言葉の真意だと思っているのです。そしてこれを成り立たせているものこそ、繰り返して述べてきた、自分の中の『背後の働き』、『背後の創造者』の実相だと思うのです。
この、「仕事を進めてくれる者」が自分の中にいるのです。誰もの中に在るに決まっています。この事を自覚する時、「普通ということ」、「当たり前の事」、「只(ただ)」というものに徹底出来るように思います。そして、昔から禅の世界で言われて来た「無事無難」、「平常心」、「只麽(しも)」、の片鱗を垣間見る事が出来るかもしれません。
私はこの事の中に『普通ということ』の最上級のものを見るのです。
(この辺りの事に興味のある方は、記事の『河井寛次郎』、『禅』.2、を読んで頂けたら嬉しいです。)
仕事が仕事をしてゐます
仕事は毎日元気です
出来ない事のない仕事
どんな事でも仕事はします
いやな事でも進んでします
進む事しか知らない仕事
びっくりする程力出す
知らない事のない仕事
聞けば何でも教えます
頼めば何でもはたします
仕事の一番好きなのは
苦しむ事が好きなのだ
苦しい事は仕事にまかせ
さあさ吾等は楽しみませう
河井寛次郎.(1953).『火の誓い』.「いのちの窓」.pp.223.朝日新聞社.
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