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自己中心性の発現について

 人間関係の悩みは誰しもが持つし、悩みの八割方がその類いであると言えるだろう。ここで自己中心性と表したのは、人間関係の悩みとは、自己を取り囲むコミュニティに対して理想主義と現実主義の乖離に悩むことであり、自己中心性を発現させていない状態であると位置付けたからである。例えば、身近な友達三人がいつものように集まって食事でもしていたとしよう。この三人の中で一人はいじられやすい性格をして、他二人は軽い気持ちでいじりを行い、それを受けていたとしよう。その子は現状満足していれば問題ないが慢性的に人格攻撃されるなどして自己を小さい存在に持っていかなければならない現状に嫌気がさしてしまうと新たな悩みが生まれる。悩むと考えるは異母兄弟と捉えているがこのような自己を傷つけてしまう関係から脱却するためには一歩下がって考えること、つまり現状を履行しないために悩みを抑止力としなければならない。なぜならたいてい利用しようとする側は傷ついていることを大して問題にはしない。相手側はほとぼりが冷めたと勘違いして、または思わして変わらぬ関係に引き戻されることが多い。現状を打開したい人は自分を大切に思いたい悩みを力に変えて建設的な対応策を見つけることが必要である。そのために自己中心性を発現することが思考停止状態を終わらせるネックとなる。自己中心性を発現させることで、未来永劫利用されるサイクルに問題意識を持っていくことができる。
〇人よりも情弱で周りに合わせる生き方
 しかしこのような自己を重んじる生き方を選択することが苦手な人たちがいる。例えばHSP(ハイ・センシティブ・パーソン)という特徴を持つ人たちである。このような人たちは並外れた感受性を持っていて、それをうまく生かすことができず、それどころか動揺しやすい負の側面として生きずらさを抱えている。うまく生かすことができれば周りが求める反応や声掛けを見出すことができる観察眼やコミュニティの全体最適を考えることができる優れたバランス感覚が評価されるだろう。しかしこのように感情に重きを置いている心理的な傾向を持っているせいか問題が生じてしまう。一つはストレスをため込み憂鬱な状態から抜け出せなくなるということだ。周りの期待に応えることができるばかりに人間関係においてやることが増え続ける。周りの気持ちを忖度してしまい本来の意思表示ができずにストレスばかり溜め込んでしまう。周りと協調することが上手いばかりに傷つきやすい本来の性格を見抜いてくれない。気の合う友達が見つからないといった場合が多いためストレスを解消できないと言ったことが挙げられる。二つ目は自らを縛るマウンターが周りに居るということだ。本人は気づかないがモラルに反し常識から外れた行いを気にせずやり遂げる人たちからいい様に扱われていることがある。常識に収まる生き方を必ず選択して来て、それを周りは理解しているため、弱みを握られ使い勝手が良い人という扱いを受けてしまうこともある。
〇コミュニティに依存してしまう生き方
 私たちはこのように利用されている状態を再度体験しているのにその不条理さになんら対策を講じない例が多々ある。それは私たちが成長していく中で体験した共同生活から見つけることができるのではないだろうか。確かに個人の自由が確立していない、しがらみを持っている生活でもその現状が相対的に幸福であると片付ければ問題意識が芽生えることはない。ところが、自己犠牲を強いていると巡り巡って個人の問題として帰ってくる。集団の抑圧を耐え忍ぶマゾヒズムに陥るのではなく個人の問題としてその現実に向き合っていかなければ将来的に耐えきれなくなるだろう。例えば上記に提示したHSPの人たちは並外れた感受性をもっているために感情と思考が分化できない傾向にある。それによって属している集団で困っている風な人を見つけた時、同情し世話をしてあげたいという気持ちから抜け出せなくなってしまう。彼らの手に収まるような悩み相談であればよい。しかしそもそも抱えきれない責任を持とうとするから現状に絶望して人生の目的を見失ってしまうのである。
〇人生の目的を見失わないために
 では人生の目的を見失わない幸せになれる生き方とはどんなものであろうか。それはまず、自分を中心に置いた人生の上での優先順位を確立しておくということだ。日々の降りかかってくる課題を全部やってしまおうとせず、仕事上やらなければならないことに絞ってこなすことが必要なのである。行動の順序を測る際に大切なものは「課題の分離」である。アドラー心理学で紹介されているものであるが三つに分類している。一つは仕事で役割・義務・責任が問われる生産活動への取り組みである。二つ目が交友で三つ目が愛とされているがごちゃごちゃした課題を整理するためにはまず、一つ目の仕事のタスクを見極めなければならない。このようにはっきりとした行動がとれるようになるためには全体の幸福を調節するために備わっている能力を自分自身の内的な部分を最適にするための調整方法へ還元していくことが人生の目的のために必要なのである。私たちはみな主観というメガネをかけている。そのメガネが生み出すゆがみが私たちを不幸せにしている。しかしそのゆがみを直す、つまり主観と客観を一致させるために個別的な調整方法をもってそれを実行することで実現できるのではないだろうか。例えば、コミュニティに無理に協調していた人たちであれば感情と思考を分化し、付き合っていける者と距離関係を取捨選択していけば調和がとれた生き方ができる。どんな対策を講じるかは三者三様であるが自らの持てる知恵を内的世界に還元して目的意識を取り戻し、最低限対立しないための行動がとれるようになることで十分だといえるのではないだろうか。
<参考文献>
岸見一郎、古賀史健(2013)「嫌われる勇気」
時田ひさ子(2020)「その生きづらさ、「かくれ繊細さん」かもしれません」

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