「赤と死神のクロ」第1話

 死神は、人間と同じ姿をしている。人間と同じ、感情を持っている。この姿は、かつて過ちを犯した彼らへの罰か。それとも、救済か。
 
 だが、一つだけハッキリしている。彼らがどれだけ人間に情を入れ込んだとしても、どれだけ人間を愛したとしても
 
 死神が人を救うことは出来ない。
 
 何故なら彼らは、傍観者なのだから。
 
 今、自ら命を散らした少女の前でたたずむ、彼のように。
 

 
 この世の全てから、拒絶された気がした。
 
 心地よい、まるで暖かいお湯にでも浸かっているような感覚。何もかも忘れ、全てから解き放たれて、ゆっくりと傷ついた羽を休める。
 
 ずっとこのままこうしていたい。
 
 そう思っているはずなのに、一向に心のモヤモヤは晴れない。何かに追い詰められるような危機感を感じる。
 
 一体何故なんだろう。

 そんな疑問を抱いた時、僕は気づいた。
 
 息が吸えないことに。
 
「……ぐっ息が」
 
 苦しい……助けて、こんな急に死にたくない!!
 
 何とかここから脱出しようと、僕は必死にもがいた。すると、指先にひんやりとした風が当たる感覚がした。
 
 外に出られる。そう思い、僕は更に必死にもがく。だが、肺もそろそろ限界。既に中の空気は出し切ってしまっている。
 
 頭がぼーっとして、気を失いそうになる。苦しくて、辛くて、何故か悔しい。最後の力を振り絞り、僕は外に向かって思いっきり手を伸ばした。
 
 誰か居るなら、この手を握って。助けて。そんな淡い期待を、心の支えにして。段々、辺りが真っ白になってきた。何も考えられない。もう苦しさすらも感じない。
 
 駄目だ、死ぬ。
 
 ガシッ。
 
 その時、僕の手を誰かが力強く掴んだ。そしてその手は、そのまま僕を一気に外へと引っ張り出す。
 
「ぶはぁ!!」
 
 なんとかギリギリ、僕は外に出ることが出来た。気を失う寸前で、意識が朦朧として白目をむきかけている。
 
 すると、僕のぼやけた視界を一人の青年がのぞき込んでこういった。
 
「やあ、初めまして、俺は死神のワイト」
 
「……へ?」
 
 一旦待って欲しい。只でさえ今、死の危険から救い出されたばかりだというのに、こう突然訳の分からないことを言われても頭に入ってこない。
 
 いや、もしかしてあれだろうか。助け出されたと思っていたが、本当はさっき死んでて、あの世で死神に会ったって事か?
 
 いや、そんな馬鹿な話があるわけ無いか。うん、きっと聞き間違いだ。ワイトさんだっけ?外人さんかな?
 
命の恩人のこの人には悪いけど、さっさとお礼を行ってここから立ち去ろう。
 
 世の中変な人がいっぱいいるから。
 
「……あのさ、お前信じてないだろ。顔がそう言ってるんだけど」
 
 徐々に意識がハッキリとしてきて、僕のぼやけた視界もクリアになってきた。先ほどから僕に変なことを語りかけている自称死神のワイトさんは、じとーっとした目で僕を見つめている。
 
「え、すいません……」
 
このワイトさんという人の容姿は、ゾッとするほど美しく、完璧に整っている。日本語を喋っているが、見た感じ日本人の顔立ちではない。だが、なに人かと言われると分らない。透き通るような白い肌に、黒い髪。くっきりとした大きな目の中に、レーザーポインタでも放ちそうな真っ赤な瞳。
 
 なんなら、この人の髪が長かったら女性なのではないかと勘違いしてしまいそうなほどの中性的な顔立ち。
 
 そう、顔立ちがあまりにも整いすぎている。思わず、数分見入ってしまいそうな程に。
 
 身長も185くらいはあるんじゃないだろうか。こんな人が町を歩いていたら、たちまち騒ぎになってしまうだろう。
 
 僕も思わず、その美しい容姿に少しばかり目を奪われてしまった。いや、そういう趣味という訳ではなく、こんな人がいるんだと物珍しく見入ってしまった。
 
「……ていうかさぁ、そろそろ自分の足で立ってくれない?重くってさ」
 
 見ると、ワイトさんは右手だけで、僕の左手を掴んで持ち上げていた。黒人バリの超筋肉。だがよく見ると、ワイトさんの右腕はプルプル震えている。にこやかな顔をしている物の、どうやらやせ我慢をしているようだ。
 
「……あ、すいません」
 
「いいよ」
 
 僕はそのまま地面に足をついて、力の入らない重い体を支えて何とか立ちあがる。
 
「助けてくれてありがとうございます」
 
 僕は律儀にお礼を言い、そそくさとその場から立ち去ろうとした。だが、ちょっと態度が良くなかったかもしれない。変な人だと決めつけてしまったせいか、きちんと目を見てお礼を言っていなかった気がする。
 
 命の恩人なのだから、せめてそれぐらいはしなければ。
 
 そう思い、僕は頭を下げた。頭を上げる時に目を見て、もう一度ありがとうと言おう。そう思って。
 
「いやいや、そんな律儀にお礼しなくったっていいよ……それに俺は、君を助けてないからね」
 
「……へ?」
 
 反射的に顔が上がってしまった。そして、僕は目の前の光景に絶句した。それは、あの人間とは思えないほどの整った容姿のことではなく、ワイトさんの背中に生えたカラスのような真っ黒な羽と、右肩に担いでいる巨大な鎌だった。ついでに服装も、フードのついた死神がいかにも着そうな真っ黒なローブ。
 
 鎌とローブならまだコスプレって事で説明はつく。でも、こんなに大きくてリアル羽が、人に作れるとは思えない。何なら、さっきから羽も普通に動いてるし。
 
 もしかしたら自称死神。ではなく、本当にワイトさんは死神なのかもしれない。よく考えたら、僕がいるこの空間だって見慣れない場所だ。辺り一面灰色で何にも見えない。
 
 明らかに現実とは思えない光景。それにさっきワイトさんが言ってた言葉……助けてない。
 
 ということはやっぱり、さっきので僕は死んでて……死後の世界で死神と会話している。のかもしれない。
 
「あの、じゃあここって‥‥‥あの世ですか?」
 
「いや、ここは死神界。まあ、名前の通り死神が住んでいる世界だね。不安にさせちゃったかな?」
 
「そりゃ、この後どうなるか分からないのは不安ですけど」
 
「この後?大したことはないよ。人を殺すだけ」
 
「……人を殺す?」
 
 何で僕が人を殺す必要があるんだ?っていうか、死んでるのは僕の方なんじゃ?そんな僕の疑問を見透かしているかのように、ワイトさんはニヤリと笑った。
 
「そう、君は死神だからね」
 
「……は?」
 
 唖然としている僕の背中を、ワイトさんはツンツンっと指さした。僕はつられて自分の背中に目をやると、そこにはワイトさんと同じ黒い翼が生えていた。
 
「そう、君は今日死神として生まれたんだ!!
 
 ワイトさんが両手を大きく広げた瞬間、辺り一面灰色だった景色は一変した。まるで、死神の世界にやってきた僕を歓迎するかのように。
 
見渡す限りの青い空、輝く地平線、透明な死神界の床の向こうに広がる人間の街。ここはどうやら、空の上のようだ。
 
雲がすぐ近くにある。さっきこの空間が灰色一色だった原因は、きっと雲の中に入っていたからだろう。
 
 僕は、その景色に目を奪われて、しばらくの間固まっていた。
 
「おーい、聞いてる?死神の仕事について説明をしたいんだけど」
 
「あ、はい・・・・・・えっと」
 
 情報量が多くて、頭が追いつかない。そもそも僕は、まだ自分が死神であるという事実に戸惑っている段階だって言うのに。
 
「おっとその前に、死神としての君の名前なんだけどさ」
 
「名前?」
 
「うん、クロって名前はどうかな?良い名前だと思うんだけど」
 
 なんだかクロって、犬の名前みたいであんまり釈然としないけど、死神の間では普通なのかな。
 
 まあ、別にこだわり無いから何でも良いか。
 
「じゃあ、それで」
 
 ワイトは真っ赤な目を輝かせて、僕の方にその真っ白な手を差し出した。
 
「うん!よろしくクロ!!」
 
 僕はワイトさんの手に自分の手を添え、堅い握手を交わした。
 
「……」
 
ワイトさんは何故か、しばらくの間握った僕の手を離さなかった
 
「……ワイトさん?」
 
 どうやら何か感傷に浸っているみたいで、僕の手を握る強さはどんどん強くなっていく。
 
「ワイトさん、イタいんですけど」
 
「あ、ごめん」
 
 ワイトさんはパッと手を離し、何事もなかったように話を続けた。
 
「それじゃ、死神の仕事について説明するね」
 
 僕らが持っている死神の鎌。この鎌を、寿命が来た人間の胸に刺して魂を抜き取る。そして、抜き取った魂を三途の川に流す。
 
 それが、死神の主な仕事らしい。人を殺す。何故か不思議と、この言葉に抵抗感がない。それもやっぱり、僕が死神だからなんだろうか。
 
「三途の川って何なんですか?」
 
 ワイトさんは、また僕の背後を指さしながら言った。
 
「三途の川?そこにある、さっきクロが出てきた黒い奴だけど」
 
 さっき僕が出てきたって……。
 
 僕が後ろを振り返ると、地面から湧き上がる真っ黒な液体が、滝のように空へと流れていた。
 
 その異様な光景に、僕は思わず腰を抜かした。
 
「……」
 
 ワイトさんの話によると、三途の川は場所によって呼び方が変わるらしい。日本の死神はもちろん、三途の川と、この黒い液体の滝のことを読んでいる。外国に行くと、生命の木とか、ユグドラシルだとか言う呼び方をしているそうだ。
 
「あっはは、反応良いねぇ」
 
 そんなワイトさんの笑い声が響き渡ると共に、三途の川から黒い木の枝のような物が生え、街の方へと伸びていった。
 
「あれは・・・・・・」
 
「あの先に、寿命が来る人がいる。こっから先は実践で教えるよ」
 
 ワイトさんはふわっと浮き上がり、枝が伸びた方へと移動していく。
 
人を殺す、まだ自分が死神である自覚もないのに、急すぎやしないだろうか。
 
「殺す……か」
 
 あれ、なんで僕はさっきまで、自分を人間だと思ってたんだろう。
 
「クロー、早く行くよー!人を殺しに!!」
 

「ああ、きみといるとなんだか安心するよ」
 
 柔らかな声色でそう話すこの青年は、朝の通勤ラッシュでスーツ姿の男があふれているこの駅のホームの最前列で、悠長に女と連絡を取っていた。
 
「いやそんなことないよ。だって、君と会いたいから今日会社休んだんだよ?」
 
 忙しない足音しか聞こえないこの場所でそんな言葉を吐き散らすので、2列後ろでスマホをいじっている女子高生にまで、会話の内容は完全に丸聞こえだ。
 
(リア充め)と、女子高生は心の中で呟くと、またスマホの画面に目を落とす。
 
「うん、愛してるよ。君のこと」
 
 そんな気恥しい言葉は、ものすごい轟音を立てて駅のホームに入ってきた、電車の音にかき消されていく。
 
「……」
 
 その轟音に合わせて、男に近づく女がいた。
 
「噓つき……」
 
 歯ぎしりをしながらそう呟くこの女。
 
 ホームの最前列で惚気ている男を見つけるや否や、ゆっくりと男の方へ向かって行く。
 
 最初に異変に気付いたのは、先ほどの女子高生だった。
 
 後ろから迫りくる異様な気配を背中で感じて振り向くと、ブランド物に身を包んだ女性が、目に涙を浮かべながら女子高生のすぐ隣を横切った。
 
 (怖っ……かかわらないようにしよ)
 
 そう思い、再び女子高生がスマホに目を落とした時。
 
 ドン    
 
 という鈍い音と共に、先ほど彼女の隣を横切った女性によって、男は電車の目の前に突き飛ばされた。
 
 迫りくる電車を目の前に、男は恐怖の顔を浮かべる時間すらない。只々、目に入った電車の運転手を見つめるだけである。
 
 男が今にも電車に跳ね飛ばされそうになり、運転手が男の存在に気づいて顔をゆがめたその瞬間。
 
 男の胸に真っ黒な木の枝が刺さった。
 
「今だ!クロ!」
 
 という叫び声と共に、女子高生の横を少年が横切る。
 
 クロは電車の前に浮き上がっている男に近づき、右手に持っている巨大な鎌を、男の胸に突き刺した。
 
「うっ」
 
 鎌を突き刺した男の胸からまばゆい光が溢れ出し、クロはその光にのまれていく。
 
(う、眩しい)
 
 その瞬間クロの頭の中を、映画のような映像が、ぐるぐると頭の中を回り始めた。
 
(これがワイトの言ってた……走馬灯)
 
 クロは先ほどワイトから聞いていたこの事象について理解すると、続けてクロの頭の中に、男の声が響き始める。
 
※走馬灯※
 
(世の中金がすべてだ)
 
 声の主は、突き飛ばされた男のものだった。
 
そして、男の声は彼自信の人生を振り返り始める。
 
(別に、初めからそんなひねくれた考えをしていたわけじゃない。
 
 多分、最初に俺の考えがゆがんだのは、あの時だろう。
 
 大人たちが巨大な箸を使って何かを箱に入れている光景を、少年の頃の俺は訳も分らずただ呆然と眺めていた。
 
 自分の会社が倒産したとか何とかで首を吊って、大好きだった俺の父親はあっけなく死んだ。
 
 子供だった俺が金の恐ろしさを知るには十分だった。いや、逆に子供の時に知ることができて良かったのかもしれない。大人になってから知ったところで、もう遅いのだ。親父は、金の恐ろしさを知るのが遅かった。だから死んだんだ。
 
 それから母さんは、金を稼ぐ必要が出てきて、中々家に帰ってこなくなった。親父も死に、母さんも遅くまで帰ってこない。
 
家には俺一人。そばにいた家族は、あっという間に俺の側から離れていった。。
 
 学校から帰ったらいつもおやつを作って待っててくれた母さん。父親がいなくなってからは、毎日夜遅くにやつれた顔をして帰ってくる。
 
 本当は遊んだりしたい。沢山喋りたい。沢山甘えたい。なのに、母さんはすぐ簡単な夕飯だけを作って小奇麗な服装に着替え、やけに厚めの化粧をしてからまた俺を置いて出て行ってしまう。
 
 ある日、疲れ切った母さんの膝にお茶をこぼした。すると、母さんは突然顔を赤らめ、俺の頬を叩いた。
 
 俺の泣き声を聞いた母さんは、我に返って泣き出した。まるで子供みたいに。何度も、何度も、俺に謝りながら。
 
「ごめんね・・・・・・ごめんね・・・・・・ごめんね・・・・・・お金さえ、あれば」
 
 いつからだっただろう、こんなことを始めたのは……動機もあまり覚えていない。確か何かの夢を追おうとして、それをかなえる為に……金が必要で。
 
 今では、どんな夢だったのかも覚えていない。
 
 清潔感を出し、金をもってそうな雰囲気を醸し出していれば、自然とそういう女が寄ってくる。時間をかけて信頼を得ていき、後はいもしない親父の治療費がどうとかなんとか言って、金を巻き上げるだけ。
 
 毎日が楽しかった。いろんな女と遊び放題、美味いものも食い放題だし、金にも全く困らない。
 
 そんな生活を送っていた時、彼女と出会った。
 
「そんなことない、貴方は本当は優しい人でしょ!?」
 
 ……純粋な女だと思った。騙しやすいと思った。最初の方は彼女のことを、俺は金づるとしか思っていなかった。
 
 だが、あるとき気づいた。こいつは、ちゃんと俺を見てくれている。金とか才能とか顔とか清潔感とかじゃない、こんなどうしようもない俺に、本気で淡い恋愛などという愚かなことをしようとしていた、馬鹿な女。
 
 俺はそんな純粋な馬鹿である彼女に、不覚にも惹かれてしまった。
 
 今思えば、そんな彼女に惹かれてしまった俺の中にも、純粋で馬鹿な部分があったのかもしれない。
 
 だが、彼女と一緒にいる純粋で馬鹿な時間は、汚い金に塗れた俺にとって、いつしか心の癒しになっていた。
 
 俺は後悔している。女を騙したことじゃない。金に汚くなったことでもない、彼女に引かれたことをだ。そのせいで俺は、死ぬ直前にこんな……こんな思いをしなければならないのだから。
 
 そう言って後悔から逃げようとするが、それでも、どうしても、彼女のことを思い出すたびに、俺はこう思ってしまう。
 
  ああ、こんな風に馬鹿みたいに生きられたら、楽しかったんだろうなぁ……。
 
………俺、馬鹿だったなぁ。
 
※走馬灯終わり※
 
可哀想だ。
 
そう、思ってしまった。この人に悪いところがあったのは、間違いないんだけど。それでも、何かが違えば、こうはならなかったはずだと、そう思ってしまう。
 
 走馬灯を介して彼の全てを、僕は知ってしまった。彼の苦しみも、怒りも、愛情も、優しさも、寂しさも。
 
 だから只々、可哀想で。
 
「待っ……」
 
 助けてあげたい。こんなところで終わってほしくない。生きて欲しい。馬鹿みたいに生きて欲しい。
 
 僕は、死にゆく彼を助けようと、必死に手を伸ばした。
 
「待って!!」
 
 そんな僕をあざ笑うように、虚しくも僕の手は、彼の体をすり抜ける。
 
「……そんな」
 
 まるで、僕には助ける資格がないと言われているようだった。
 
 彼のことを助けることができないと、僕が悟った次の瞬間。
 
 ゴシャッという鈍い音と共に、彼は無惨に電車に突き飛ばされた。
 
 電車に跳ね飛ばされた際に、彼から飛び散った無数の血液。それすらも、僕の体をすり抜けて、地面にピチャッと降りかかる。
 
「……」
 
 頭が真っ白になった。
 
 こんな光景を見たのは、初めてだったから。電車に轢かれた人間が、あんな・・・・・・あんな姿に・・・・・・。
 
 さっきまで、何事もなく生きていたのに。
 
 考えれば考えるほど、その事実を頭が受け入れない。その影響で、どんどん呼吸が荒くなっていく。
 
「はあ、はあ、はあ」
 
 死んだ。あっけなく、どうして?僕が殺したから?いや、違う。自分で招いたんだ。僕が殺したんじゃなく、あの人が自分で招いた事なんだ。
 
 迫り来る、強烈な罪悪感。僕は必死に、それから逃れようとする。
 
 魂を抜いたのは、確かに僕だ。だけど、僕は悪くな・・・・・・
 
「し……tあ……く……nあい」
 
 甲高い不気味な声が僕の耳の中に入ってきた。
 
 胸の芯から沸きあがってくる生命的恐怖が、僕の生命が危ないと全神経を通して伝えて来る。
 
 僕は、甲高い声のする方を恐る恐る見上げて固まった。
 
「!?」
 
 そこにいた怪物は、人の形をかたどっていた。しかし、目を当てられない程醜い風貌をしている。
 
 電車でひかれ、先ほど死んだあの人と同じような様。手足は折れ曲がり、顔面どころか体中がつぶれている。只一つ違うのは、体中から黒い液体をドロドロと垂れ流している。というより、体がその黒い液体で出来ている。
 
 今までに見たこともないような、不気味な何か。
 
「え……」
 
 僕がこの怪物の存在を認識した瞬間。ぶつっという音と共に、僕の右腕にしびれるような強烈な違和感が走った。
 
 僕はその瞬間バランスを崩して尻もちをつく。怪物の左腕は人の腕の形から、大きな鎌のような形に変形していた。
 
 何なんだ、このしびれるような感覚。右腕がまるで動かない。
 
 ・・・・・・いや、違う。動かないんじゃない。
 
右腕が、ない。
 
僕がそう認識した瞬間、違和感はとてつもない激痛へと変貌する。
 
「ぐあああああああああああああああああああああああああ」
 
 右腕は、先ほどまで持っていた鎌と一緒に、駅のホームの隅まで飛ばされていた。
 
 腕の切断面からは、怪物と同じ真っ黒な液体が勢いよく噴出している。
 
 パニックになり、僕は何も考えられい。只々、叫ぶだけ。
 
「クロ!あぶない!!」
 
「ぐあっ」
 
 切断面を押さえてもがき苦しんでいる僕に、未練は容赦なくハンマーに変形したもう片方の腕で、僕をホームの端まで叩き飛ばす。
 
 強い衝撃で意識が朦朧としたおかげで、右腕の痛みは和らいだものの。いっそ今すぐ死んでしまいたいと思うほどの、不安と恐怖は健在だ。
 
 この怪物の存在は、ここに来るまでの道のりでワイトから聞いていた。
 
 魂が抜かれた人間の中にある、精神的な原動力とも呼べる欲望や感情の残り。未練と呼ばれるこの怪物が、魂を取り戻すために死神に襲い掛かってくる。
 
 心臓部分にある弱点を壊し、暴れ狂う人の未練を鎮めてやることも、死神の仕事なのだと。
 
 しかし、僕にそんなことができる余裕はない。
 
 腕が切り裂かれた激痛で、今にも気を失いそうだ。
 
「し・・・にtあkうなーーあああいーーーー!!!」
 
 未練はまたあの甲高い奇声を上げると、折れ曲がってまともに歩行できない足で、僕の方へ向かってくる。
 
 僕は先ほどの悲鳴で枯れてしまった喉元から、声をひねり出す。
 
「た……す……けて」
 
 未練は僕の目の前までやってくると、その右腕をハンマーからカッターのようなものに変形させ、振り上げた。
 
 死を覚悟した、その瞬間だった。
 
「おつかれさん……」
 
 ぶちぶちっという音と共に、未練は頭から真っ二つに切り裂かれた。
 
 切断された体は黒い液体となって形状崩壊し、割れた水風船のようにばしゃっと地面に叩きつけられ、広がっていく。
 
「いやー、流石に初っ端で未練と一対一は無理あったかー、申し訳ない」
 
 未練の黒い液体を目いっぱい浴びている、異様な状況であるにも関わらず。ワイトは陽気な顔で頭をポリポリかいている。
 
 そんなワイトの顔を見て、僕は未練に襲われるこの状況から脱したと理解する。
 
「よいしょっと」
 
 ワイトは、地面に広がっている黒い水溜まりを無造作に救い上げると、倒れた僕の体に無造作に振りかけた。
 
「あ……」
 
 振りかけられた黒い液体は、僕の体にみるみる吸収され、切断された右腕や折れ放題になった肋骨は、みるみる治って行った。
 
「ま、今回は駄目だったかもしれないけど、そう落ち込むなって。未練を倒すチャンスは、まだいくらでもあるんだからさ」
 
 声帯は治っているはずなのに、僕は声を絞り出すように呟いた。
 
「僕にはできません……」
 
「え?いや、大丈夫だって、また次があるって言ったろ?」
 
 この死神は、何も分ってない。僕の気持ちを。
 
「もう一回、殺せって言うんですか……人を」
 
「・・・・・・そうだね」
 
 そうか。これからずっと僕はこうやって、人を殺し続けていくんだ。自分の心を削りながら。
 
そんなの、そんなの……。
 
「僕には……耐えられない」
 
 ワイトはクロの言葉を聞き、何も言わずに頷きながら、僕の肩に手を置いた。
 
「確かに今は苦しいかもしれない、でも、頑張ってればいずれ慣れるからさ」
 
「僕には、こんなこと平気な顔で続けられる、ワイトさんの気が知れない……」
 
 沈黙が走る。
 
「そりゃ……そうだよな。でもな、クロ。俺たちがしていることは、人の為だってことを忘れないでくれよ。今は分らなくても良い。でも、ゆっくりでも良いから、この仕事の大切さを、クロには知って欲しい」
 
 そんなこと言われても、この仕事が大切なのが分ったって無理だ。
 
「……」
 
「帰ろうか……」
 
「……」
 
 先に空に飛んだワイトを追って、僕もこの駅を後にした。
 
 列車事故で駅のホームにいる人の注意が、彼の亡骸にくぎ付けになっている中。一人の女子高生だけが、空を見つめ続けていた事に、僕は気づかなかった。
 
「これは……夢?」
 
 女子高生は、ぽつりとそう呟く。

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