学問の自由は、これを保障する。

大規模な国立大学法人に対して,中期計画や予算などを決定する「運営方針会議」の設置を義務づけることなどを盛り込んだ国立大学法人法の改正案が,12日の参議院文教科学委員会で行われた採決によって自民・公明両党や日本維新の会,国民民主党の賛成多数で可決された.

丁度,このニュースがTwitter(Xなどというアルファベット一文字を我が物顔で使用して革新的な事業をやってますよ感を出そうとするイーろんに対して熱いヘイトをもって,ここはやはりTwitter)に上がり始めたころ,私は美容院で縮毛したり前髪をいじいじやったりして,挙句の果てに

「いや奇麗なお姉さんが来たのかと思いました」

なんて美容師に褒められてしまったものだから,ルンルンで足取りも軽く丸善仙台店に突入するところであった.

↑調子に乗ったツイート


ふとスマホに目をやると19時すぎ.私のTLはこの採決に「強行採決だ!」「大学の終わり」など強い言葉でこれを非難する大学教授や院生のツイートで埋め尽くされた.

脳裏に走るは憲法23条である.
(一體,私はこの23条の条文が如何にも好きなのだ.5・7・5の,日本人が心地よく感じる川柳のリズムで,学問が如何様な権利にも束縛されるべきではないという理想を高らかに謳っているのだ.)


大學という場所が,何か国に直属する教育機関のように思われていることは,以前から危惧の対象であった.大学は,大学院は学問を追求する学徒研究者を育む公平な場であり,それは上位法や公共の福祉を害さない限りは自由主義で,権力に縛られない存在であるべきだろう.

この法改正が,平易な言い方をすれば「上を縛ることでトップダウンに対象の国立大学を掌握する」一種の権威主義的な風潮を生むことはあまり歓迎されたものではないだろう.

あんまり,反権的な思想を突き詰めることは極端な「理想主義」に陥るから,私はこれが嫌いなのだが,同時に,学問は何時でも,どこでも保障される自由の象徴の一翼を担うべきだと考えている.


これはちょっと違う話だが,私の好きな法学の用語に「懈怠」がある.これは「権利の上に眠るものは保護に値せず」とも言われていて,要は「権利は行使する努力を伴ってこそ存在するんだよ」という講釈である.

何時迄も権利は保障されるわけではなく,声を挙げなくてはならない.権利の存在価値を常に是正していくべきなのだ.

でも,私はなんだか臆病だから,小声でぼそぼそとぼやくのが関の山,といったところかもしれない.朝露が凍って乾いた枯れ葉を踏みしめて,生きた心地を半月ぶりに味わいながら,大学へ向かうことにした.



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