文字を書くのは裸を見られること

今しがた、初めてのnoteを書き終えアップしてきた。
ふん、なかなかいいんじゃないの。読み返しては悦にひたっているが、現実に引き戻されるのは時間の問題であろう。

ところで、私は点で本を読まない。文字は、そこから動かないからだ。動きがないというのは、スマホ世代真っ只中の若人にとって、かくも拷問のようである。

だから、悪文とか良文とか、まるきり分からない。そもそも、そんな概念があることすら、先日講義の課題で出された、小島信夫著「アメリカン・スクール」の感想文をちょろまかそうとした先の読書感想文サイトで、この作品は相変わらず悪文だなんだ小うるさく言われていたので、そこで初めて知ったぐらいである。3日前のことだ。知りたてホヤホヤだ。そして、小島氏の文を悪文だとも思えなかった。やはり、このことからも察してしまうように、文才はからきしのようだ。

話を戻す。
本を読まないのに文を書き始めたのは、ありふれた暇潰しである。
が、なかなかどうして、小っ恥ずかしい。
例えば、私は趣味で絵を描く。描いた絵を、インターネットに投げる。このとき、「勝手に見やがれ!」という気持ちである。人様の目に自身の創作物をお出しするに、文も絵も根本は変わらないというのに、文章となると、なんだかもう、舌を噛み切りたくなるのだ。
文章は推敲される。
書いては読み、書いては読み、消しては書き、書いては読み。この無限にも思える行為を繰り返し、ようやっと、これだと思える、私の芯からの文字どもが、お行儀良く並んでくれる。
ここに羞恥の種が撒かれるのだ。文というのは、なるほど死ぬ程吟味され、余計なものをとっぱらった、己を写す鏡である。剥き出しの自我である。そう、言うなれば、裸。
読まれる気持ちは、「あら、こんな所に黒子があったのね」と、自身の裸体を隅々まで見られるときそのもののようで、もう死んでしまいたいほど、恥ずかしい。

だがやめられない。おかしな話だ。

私が文を書くのは、とりとめもない脳味噌を静かにさせてやるためだ。暇潰しともいったが、まぁ、そんなところだ。細かいことはどうだっていい。生きてるんだから数秒前に言ったことだって二転三転する。

あなたは何のために文を書くのだ?私は、自分の第二の裸体を託すために文を書いているような気すらしてきた。面白い文がまぐれで書けたら、それはそれで気分が良い。だが今は、慟哭に近い形で、文を書き殴っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?