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花子の物語(祖母の記憶)昭和の代4

釧路に落ち着いた花子一家でしたが、先行きのことでは揉めていました。
ユタカさんは、満州を目指そうか。
花子は、満州へは行きたくないと。
そんな中、花子は2度目の懐妊となりました。
そして、ユタカさんへは、2度目の招集招集令状が届きました。

ユタカさんは、再び日中戦争へと出兵して行きました。
多少視力に問題があったユタカさんは、通信及び衛生兵として任務にあたっておりました。

昭和17年3月。
花子は、ユタカさんが居ない中、女の子(トミ)を産みました。
北海道の春は遠く、まだ寒い日が続いていたそうです。

翌年、ユタカさんは無事に家族のところに戻ってきました。
安堵する花子。
でも心配ごとがありました。
トミは目が悪く、立ち上がりも遅い子でした。

元の会社に復帰したユタカさんは、トミの身体のこともあり、満州移住を諦めました。
すると、秋田への転勤命令が出されました。

こうして花子一家5人は、秋田へ居を移しました。
秋田では、1年ほど過ごしました。

大東亜戦争(太平洋戦争、第2次世界大戦)が激しくなってきたこの頃は、男子中学校では陸軍将校による教練が正科として行われておりました。
さらに兵役で人手が亡くなると、軍事工場での就労もさせられるように。

小学校では体練科や防空壕堀や防空避難の訓練が行われていました。
女子でさえも、中学生から射撃訓練が課せられていたそうです。

秋田でのユタカさんは、会社の工場では中学生に作業を指導し、学校では陸軍将校として、教練や射撃訓練の指導をしていたようです。

そして、昭和19年春、ユタカさんに3度目の招集令状が届きました。
大東亜戦争(太平洋戦争、第2時世界大戦)への出兵です。

ユタカさんが出兵すると、花子は子供たちをつれて故郷に戻りました。

母の実家はもう頼れないので、豪族に嫁いだ伯母(母スカの姉)の元へ。

伯母の夫は村長を務めており、広い屋敷の離れ1室を貸してくれました。
しかし、表玄関からの出入りは禁止です。

伯母夫婦には子どもが無く、家の存続のために、養子を迎えていました。
伯母は60代半ばでしたが、まだ養子は結婚しておらず、家督を譲る前だったので、花子たちは、運よく寄せてもらえたのでした。
その養子が36回目の見合いで見染めた嫁を、ちょうど迎えるところでした。

花子の養子のコウは、この年中学生になり学徒動員で軍事工場へ。
セツは小学3年生となっておりました。
花子は、娘2人と身を寄せ合って過ごす日々を送ることとなりました。


今回は、祖母「花子」が北海道、秋田をめぐって、再び故郷へもどってきたまでのお話でした。
続きは、また次回です。

おばあの実話をもとに、憶測や妄想などでつないで書いています。
ただの想像作品ということで、ゆる~く、お許しください。


貴重なお時間を費やして、ここまで読んでくださり、誠にありがとうございます。


ここまで、ご覧いただきありがとうございました💖 妄想竹は、気まぐれで鈍脳、時間管理能力低、メカ音痴&超遅筆な未熟者ゆえ、記事の内容、スキやフォロー、コメントへの無返答等、多々不備不足があるかと存じます。 その節は、どうか寛大なお心でお許しくださいますようお願いいたします🙇