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明治維新の周囲(2)

維新を準備した「会読」による結社の誕生と文体の革命<ビフォー維新> 
 江戸時代の儒学の教育が生み出した、結社的な連携と訓読体という文体によって、明治維新が準備されたという話です。(東大のUTCPのブログ2017.07.18【報告】前田勉先生による「江戸の読書方法と訓読法」および「江戸後期の思想空間」前田勉著2009年をもとにまとめました。)

共同学習としての会読
 儒学を学ぶ方法は、つぎの①から③までの段階をふんでいた。
①素読(音読と暗誦)
②講釈(先生による講義)
③会読(議論を重ねる読書会)

この「会読」は古学の伊藤仁斎、荻生徂徠のもとではじまった共同学習の方式であり、一定以上のレベルの会読者全員が対等に議論した。会読というシステムにおける相互コミュニケーション性、対等性、結社性は、江戸身分制社会の中では別次元の空間を成立させた。会読というシステムは、蘭学の導入・普及にも寄与し、ヨーロッパに遅れることのない合理的思考の成立にも貢献している。
結社の誕生
 そもそも、江戸時代にはあくまで学問=読書は江戸時代では余暇のたしなみにすぎず、奨励もされなかったが、世襲身分社会への埋没を拒否する心情で集合した、学問を学ぶという集まりは、身分社会の垣根を超えた「結社的なるもの」として、公議輿論を提唱する維新へのみちをひらいてゆく。前回書いた思想の3流派(古学、陽明学、国学)も、こうした結社的な活動によって全国に波及していった。対等の議論の場によって身分制にとらわれない実力主義が醸成されていったのである。
文体の革命としての訓読体の発明
 さらにこれを補強、促進したのが、文体による革命としての「漢文訓読体」の発明と普及である。敬語は少なく、世界に向けての自己の意見の表明を可能、容易にした文体であり、四民平等の理念を体現する革新的で清新な文体であった。 従来の手紙をもとにした「候文」の相手との上下関係を示す敬語表現にまみれた文体ではそれではとうてい不可能であったのである。この文体と、西洋からの概念の翻訳で発明された和製漢語によって、近代化は可能になった。明治の言説(エクリチュール)と思考はひとまずは訓読体によってリードされた。      
 これらの文体と単語は日本に亡命していた梁啓超に影響を与え、彼が提唱する<新民体>によって、中国に翻訳紹介された明治維新の思想は、中国革命にも大きな影響を与えた。西洋思想の和製漢語だけではなく、漢文訓読体とも、当たり前だが中国語との親和性があるので、文体においても影響を与えた。
 維新という革命に先立って、会読システムがもたらした「結社」と「文体」の革命が事前に準備されていたのである。

英語がうまい人
 言語ということにかんして、岡倉天心の英語について。加瀬英明は「岡倉天心(1863-1913)や新渡戸稲造(1862-1933)の英語は素晴らしかった。自分は及ばない。彼らは日本という国家を救うために英語を学んだのだから。私のような自分のための英語とはちがう。」と謙遜して書いている。(「米陸軍日本語学校」(H・パッシン著/加瀬訳)の解説)
 同時に加瀬は「維新のころ英語を話せる人が少なかったから植民地化されなかった。」とも書いてあって、なかなか面白い意見だと思った。維新や近代化において、会読システムにより西欧合理的思想や技術が日本語として消化されていたからこそ、独立が保たれたのである。日本の和製漢語を導入しえた中国以外のほかの東アジア諸国は結局知的思考においても植民地化されてしまった。よく知らないが、最近の日本のある大学では(国際関係だけではなく工学部ですら)、すべての授業が英語でなされていて、英語の得意な留学生が議論をリードしているという。学問レベルの低下も心配だが、なんとも寒気のする光景である。今、知的な植民地化が起こっているのだろうか?明治の先人たちが守り抜いた知的独立の精神はどこに行ったのであろう。天心のように、国家を救うための英語ならいくらうまくてもかまわないが。
余談その1:
 英語の流暢すぎるひとはちょっと信用がおけないというのが、英語が下手なわたしの極端な偏見・暴論である。GHQやマッカーサーと対峙して日本の独立の気概を示した白洲次郎は、接収されていた広畑製鉄所を外貨獲得のためと称して英国の企業に売り渡そうと画策し、永野重雄に銀座のバーでぶん投げられた。外資の日本進出にあたっては代理人としての白洲のもとに莫大なフィーが入ることになっていたし、じっさいそうやって稼いでいたらしい。狭い日本の枠にとらわれずに、広くインターナショナルなレベルで自立した個人として、むしろ尊敬すべきなのだろうが、なんとなく虫が好かない。
余談その2:
 北一輝が、痛烈な英語批判をしているのが面白いので、ここに引用します。「日本改造法案大綱」における国民教育で、英語を排して国際語(エスペラント)を第二外国語と課すべしと述べ、その註で:
「英語は国民教育として必要にあらず、また義務にもあらず。現代日本の進歩において英語国民が世界的知識の供給者にあらず。また日本は英語を強制せらるる英領印度人にあらず。英語が日本人の思想に与えつつある害毒は英国が支那人を亡国民たらしめる阿片輸入と同じ。」と述べ、その害毒として
「・英語国民の浅薄なる思想を通じて空洞なる会堂建築として輸入されたる基督教。」
「・人格権の歴史的覚醒たる民主主義が哲学的根拠を欠如したる民本主義となりて輸入されつつある「デモクラシー」。」
「・英米人の持続せんとする国際的特権のために宣伝されつつある平和主義非軍国主義が、その特権を打破せんがために存する日本の軍備及び戦闘的精神に対する非難として輸入されつつある内容皆無の文化運動。」
の3つを挙げて、「単にこれらをのみ視るも一利に対して千百害あること阿片輸入の支那を思わしむ。言語は直ちに思想となり思想は直ちに支配となる。」と論じています。(北一輝「日本改造法案大綱」1923年・中公文庫p76,77) 
まったくひどい暴論でとんでもないですよね。
(北一輝は明治維新ではまだ真の国民主権が実現されなかったとして、いわば第二維新を念願し続けた人物としてあらためて書いてみたいと思います。)

 


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