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パラソルばあばの来し方

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カメラのおはなし

母の遺影は わたしのスナップ写真をつかいました。 写真館で撮っておくつもりでしたが 後回しにしていて 間に合いませんでした。 いつもおだやかな慈しみの笑顔で モデルになってくれました。 それがあたりまえと思っていましたが 今では大切な思い出です。 デジタルカメラを はじめたばかりは 楽しくて仕方がありませんでした。 「自動オートが一番」といいはり カメラ先輩の夫に笑われてました。 今でもよくひやかされます。 かわいいものですよね、、、 うれしかったのは旅行鞄にフイルム

note 2年生

皆様、 いつもスキ、フォロ、コメント ありがとうございます。 今月中旬に ようやく noteの街で2年生になります。 登録は 去年の10月でしたが なかなか踏み出せず もぞもぞ、、、 2か月後の12月に え~い、ままよ!と 初投稿しました。 自分の記事に スキしてあわて、 消すまで大変たったり、、、 まだまだ ひよっこの”よちよち”歩きですが どうぞよろしく。 こけても、失速しても 「ちちんぷいぷい!」と ”パラソル”かざして 起き上がるつもりです。 笑って、見

母のぬくもり

                                            寝室での出来事 自分の手なのに母をかんじました! その晩も あ~眠られない。 暑くて ねがえりを なんどもうっていました。 薄明りの部屋で 横向きになり 片手を無意識に もう一方の手を重ねると 不意にあのぬくもりを 感じたのです。 えっ!おかあさん? 指関節のちょっと骨ばった一節一節が なんと同じとおもいました。 自分の手なのに、、、 白魚のような手と 父に言われるほど 指も

扇子から香木へ

昭和の扇子と匂い袋 今ではどこでもエアコンがありますが 昭和時代のおでかけには扇子がおとも。 薄地い絽の着物に扇子のご婦人、 パナマ帽に和服や背広の 少しおおぶりの扇子の殿方を みかけたものです。 そばに座ると 会話とともに変わる 扇子のリズミカルな手の振りが なんとも魅力的でした。 ふわ~っと漂ってくる すこし大人びたゆかしい香りも 心地よいものでした。 それは地色がくすんで 手に馴染んだ 白檀の扇子からでした。 におい袋の香りもおぼえています。 和タンスの

昭和6年の「文藝春秋」はインターネットだった?

昭和6年(1931年)の時代とメディア 手元の「文藝春秋」が発行されてた昭和6年(1931年)は 五・一五事件の前年、関東大震災から8年がたっています。 当時は紙メディアが中心です。 もちろん新聞はあります。 雑誌はどうかと言いますと 大衆総合雑誌の「キング」、 若者、中間層サラリーマンを読者にした 総合雑誌「文藝春秋」がありました。 総合雑誌「文藝春秋」とは この総合がすごい! 編輯(へんしゅう)後記に ”知識の百貨店化が近代生活の要求である以上、、、” "「世界は

洛北・修学院をめでたお方は?                         そのⅡ・完

そのお方は後水尾天皇です。1596年~1680年 見出し画像 大覚寺・安井堂 等身大の僧形 離宮造営上皇から法皇(56歳)になられる頃には 修学院への御幸(お出まし)が かなり自由になりました。 ひな形を土や石でつくり 造庭たくみな者と工夫をかさね 現地へ出かけられた等と 伝聞されています。 造営のあらゆる指揮をとられ 65歳ごろには ほぼ完成なさいました。 浴龍池と舟遊びうえの写真、ここ浴龍池《よくりゅうち》で 平安時代の絵巻物のように 舟遊びをなさっております。

洛北・修学院をめでたお方は?            そのⅠ

後水尾《ごみずのお》天皇です 1596年~1680年           見出し画像は上《かみ》の離宮からみた浴龍池《よくりゅうち》 離宮と私コロナ流行の少し前に修学院離宮にでかけました。 比叡山の麓、洛北・修学院の地に広がっています。 17世紀中ごろ、 はじめにお茶屋(別荘)がつくられ 上《かみ》、中《なか》、下《しも》の離宮が造営されました。 明治時代の部分もみかけられます。 事前予約済の参加者がぞろぞろとグループごとに 歩いていきます。 宮内庁の方がガイドでした。

朝ドラとネジバナ

朝ドラのネジバナ 日本の植物学の父、牧野富太郎博士がモデルの NHKの朝ドラ,”らんまん”に 大好きなネジバナが登場しました。 高知から舞台がはじまるオリジナルドラマです。 主人公がこの花とめぐり合うのは 里山のすこし薄暗い森のなか、木漏れ日のさす場所でした。 近くには古びたお社もあります。 ネジバナを見つけた万太郎(藩校に入学の歳)は 嬉しそうに「今年も、咲いちゅう(咲いている)!」と 腹ばいになって小さな花のかわいらしさと ねじれ具合のちがい、、、右巻、左巻を 不思

"ぎゃらりー807(はちまるなな)”

20年ほど前、私はあしどりも軽く函館山への坂道を登っていました。 その日はハイキングでなく、 ふもとの”ぎゃらりー807”をめざしていました。 エリオット・アーウィトの写真に会うためです。                      お目当ての写真は 写真活動50周年記念誌の表紙にもつかわれている 父親の自転車に乗っている男の子とフランスパンの一枚。 彼のこちらを向いたちょっとはにかむ笑顔と 長~いパンにこちらもほほがゆるみます。 愛犬家でもあるアーウィットは いろい

ながいきな時計

ダイニングのかけ時計は毎日のおともです。 時刻を正してもいつのまにか早くなるので 引き算しないと、いま何時かわかりません。 ちょっとした脳トレかしら(笑) 記事になにを書こうかしらとぼんやり考えながら かけ時計をみあげて、アッ!となりました。 50年以上もいっしょなんだ~ 記事にしようときめた瞬間でした。 これは主人の親友からの結婚祝いでした。 いただいてから修理は二度したでしょうか、わすれました。 目をとじるとうかんできます。 右も左もわからない土地での新婚生活から

梅にウグイス、藪にウグイス

「梅」に 「ウグイス」と聞くと 枝に一羽がとまっている 春ののどかな一幅が浮かんできます。 でもある時から「やぶ」に「ウグイス」大合唱!となりました。 台風一過のさわやかな六月の上高地。 河童橋をこえたヤブのなかでウグイスの声が 響き渡っているのです! びっくりしてヤブの中をのぞいてしまいました。 蝉しぐれのように必死にさえずり競いあっていたのです。 今までの常識が吹き飛びました。 地鳴きでも、下手なさえずりでもない”ホーホケキョ、ケキョウ”でした。 エサがたくさんある

なつかしいお皿

偉人伝が小学校のころ 大好きでした。 キューリー夫人、 野口英世、湯川秀樹、、、 わたしがその中に 入れたいのは とおい祖先の 梅田五月(うめださつき)です。 梅田五月 幕末に石川県江沼郡大聖寺(現加賀市大聖寺)に 生まれた大聖寺藩士。 若い頃は藩のすすめで剣や洋学を おさめています。 廃藩置県のあと        士族授産のために産業振興、公共事業に尽力、北陸鉄道発起人、熊坂新道開墾、九谷陶器会社、衆議院議員、大聖寺町長、県工業学校校長、、、歴任しています。   

そのⅠ 「随筆」から        

この92年前の「文藝春秋」は 骨董市で値切らず1000円で購入。 「文春」愛読者の私には 買わないという選択はなかった。 ミーハーなり。 昭和6年発行時の定価は40銭。                    (昭和5年ラーメン10銭、駅弁30銭) 茶色に変色したザラ半紙で ページ数309ほど、、、 目次からはじまり 広告、随筆、のページとつづく。 野上彌生子(文化勲章受賞者)の一文                  「芥川さんに死を勸めた(すすめた)話」   死を選ぶ十

そのⅡ ”座談會”から

春宵四方山話の會    出席総数8名(主催者2名) 星丘茶寮にて 座談は日本画からはじまり、  芸術、政治、外国人、景気、将来の世界など 多彩で20ページほど。 今も聞き知った名前がある。  松竹 大谷竹次郎  阪急電鉄 宝塚歌劇 小林一三  帝国ホテル 犬丸徹三  教育学者 五千円札「武士道」 新渡戸稲造  日本画家 松岡映丘(えいきゅう)  小説家 久米正雄  主催者 菊池寛 佐々木茂作 外国人と多く接する犬丸徹三は 美術品を一同に集める美術館をと 提案している。