「良心」小林秀雄を読んで

巷で人気のピーター・シンガーの Famine, morality and affluence というエッセイがある。

このエッセイは1972年にベンガル飢饉の際にシンガーが綴ったものであり、超簡単に要約すると「もっと寄付しろ」というものである。

これを6月くらいかな、に読んだのだがなんとも言えない味の薄いエッセイであったのを覚えている。メッセージは素晴らしいと思う。天災などに見舞われる人たちはできるだけ助けたほうがいいし、そうすべきだと主張する。この議論はとても堅固であり、粗探ししても前提にも論理にも問題はないのだ。でも、何かが物足りない。

最近、小林秀雄を触り始めたのだが、この物足りなさの尻尾を掴んだと思う。

考えるヒントの中の「良心」を読んだ。

この中の合理性と効率性の取り違えに話がここにブッ刺さっている。

効率性を感じる合理性には考えさせるsubstanceが少ない。どうしても受動的な読み方となってしまうのだ。しかし、倫理や善行は誰かに講義されて理解し、心の指針となるものなのか?それは自ら考えなければいけない問題であると私は思う。それゆえに、これらの主題を扱うものは多い空白がなくてはならないと思う。空白は自省そのものだ。それを与えなければ文章の意味はないだろう。効率性はそれを剥奪してしまうのだ。

また「良心」の中では倫理は情であると本居宣長を引用していた。

そりゃそうだ。しかし、倫理学の系譜を眺めると情の問題をあまりにも理性的な体系に引き込んでいるものが見受けられる。

「どう生きるべきか」を問うものは情を含んでいるべきだ。しかしあまりにも理性的な伝統に支配されてしまっていると感じてしまう。そして情という心の問題を頭の問題にすることで、論が安っぽくなってしまう。苦悩やあらゆる感情が失われる。

他の本だったりエッセイにも同じことを感じるが、名前を上げ始めると愚痴るだけになってしまうので控えておく。少し前の自分も確信犯であったことも自白しておこう。

私の感想でした。

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