「若者が…」に対する批判への部分的批判

核廃絶を目指す、国連職員の方による講演会に参加した時のことですが、

講演の終わりに私が「核は本当に無くなるのか、必ずしも無くす必要はないのではないか」という趣旨の発言をすると、

ジョークか分からないのですが、「そのような質問は、広島や長崎の方にはしない方がいいと思いますけどね、」と前置きをされた。

この時から既に数か月が経過したが、この言葉だけが妙に自分の頭から離れなかった。

これは題名にもしたような、「若者が…」と似た論法なのではないだろうか。

この論法に名前があったら、是非とも教えて欲しのだが、どうも当事者とそうでない人を、あちら/こちらとして境界を作り遠ざけているように感じられる。安直には使いたくない言葉だが、差別的に感じてしまったのだ。

このような考えは以前から持っていたし、多くの人が感じたことがあると思う。

このような境界線を無くしていこうとする動きは、最近大きくなってきていると感じる。

一方で、最近、ポストモダニズムの批判について勉強しているのだが、

自分が述べたような、境界線を曖昧にすることは、ポストモダン的とされるのかもしれない。

あまり言葉がまとまっていなくて恐縮だが、

境界線を引かねばならない場面というのも存在するのではないか。

例えば、善/悪に関することがら。

ポストモダニズム批判を行っている、マルクスガブリエルは、その特徴を相関主義に見出している。

現在世界には、様々な価値観が存在しており、それがインターネットを通じて簡単に共有できるようになった。それは、人生を豊かにするような考えを共有することや、マイノリティの声を拾い上げることを可能にした。正によく言われるSNSの恩恵だろう。

しかし、それは逆の要素もまた然りだ。イスラム研究者の飯山陽は、自身の著書「イスラーム2.0」で、今日イスラム教徒はコーラン本来の記述内容をインターネットで簡単に知ることができ、それがイスラーム原理主義と結びついていることを指摘している。つまり、道徳的に良くない主張も共有されてしまうのだ。

そこで、今日特にインターネット上でよく見受けられるのが、「価値観の違い」を重んじる言説だ。

確かに、SNS上では様々な価値観が存在しており、そこで争いを招かないためには、自身に「彼らには彼らなりの価値観があるのだ」と言い聞かせなければならない。

これは、今日SNSを使うためには、”当たり前のルール”と言えるのかもしれない。

SNSで(いや、もはや、ぼかす必要はない笑)、Twitterでこのような思考の過程を踏んだことはないだろうか。

「自分は正しいと思う、いや、案外自分の考えが間違っているのかも?まあ、いいやトラブルは御免だし。あ、また次のニュースが流れてきた、次行こう。」

稀に、Twitter上でやり合っている人たちも見受けられるが、Twitterの利用人口を考えると、極々一部、おそらくほんの数パーセントだろう。

多くの人が、事実や考えをはっきりさせることはなく、ただとんでもなく速いスピードで流れていく情報を目で追うだけでである。


前提とする話が長くなり過ぎた。話を戻そう。

ガブリエルはこのような状況を、相対主義に陥るとして批判している。

つまり、価値観が違うだけで留めてしまうと何も前に進まないのだ。

また、Twitterが議論のプラットフォームとなっている現代において、(前述した通り実際に議論している人はごく一部だけれども)相対主義が蔓延すると、何が正しいのか、真実なのかを自分でキッパリと判断しにくくなっているのだ。

これは、単に政治的無関心だけに終着する話ではなく、「ポスト真実時代」を招くきっかけともなった。

ポスト真実時代とは、何が真実か否かを大衆が判断できなくなった時代のことである。

フェイクニュースを当たり前のように目にするようになった時代において、相対主義に慣れてしまった私たちは、「こういう考えかたもあるんだ」や「価値観が違うだけだ」というように、フワッと自分の考えをまとめ上げ、それらの虚偽情報に立ち向かえなくなっているのではないだろうか。


では、どうしたらいいのか。

ガブリエルは、「倫理を絶対的な価値基準にすること」と「SNS上での議論をしないこと」を掲げている。

私は、Twitterで様々な考え方を一つ一つ処理できないから、いっそのことSNSなど無い方がいいのではないかと思うが、

前述したとおり、マイノリティの声を拾い上げることも大切であること考えると、SNSを無くそうとはなりにくい。ここが最も難しい点だと思う。

大事なのは、相対主義に陥ることなく、何が正しいのか十分に吟味したうえで、自分の考えを持つことなのではないか。


そして、「若者が…」言説については、それに対して、「大人は…」となってはならない。それでは同じことをしているにすぎず、建設的とは言えないからだ。また、そのような言説を「気にしない」ことだ。

突飛にも思えるが、これはどういうことか。

Twitterは、ユーザーそれぞれに、ぞれぞれのアイデンティティを決めさせる。しかしそれらは、ユーザーが自身を言葉で言い表した”表現”に過ぎず、ユーザー自身とは全く、全く持って一致しない。

それぞれが持つアイデンティティなる個人の特徴は、より複雑であり、言葉で表現するのには限界がある。

私たちは、現実世界では、このこと理解しているから、リアルでは相手を気遣って議論できるのだ。

Twitterの”呟き”などその当人のほんの一側面にしか過ぎないことを改めて理解する必要がある。

しかし、ここで再び、相対主義の罠が生じる。

相手を気遣えば、相対主義に陥り、かと言って、SNS上での分断も深刻な社会の問題である。


後半があまりにもまとまりに欠けるが、「SNSは議論の場にならない。」

というのが私の本音である。


千葉雅也「Twitterの哲学」を図書館で借りてきたので、読むことにより何らかの答えや新たな発見があったら、また文に起こしたい。

この件については、自分の考えも固まっていないことではあるので、考えがある方は、共有していただけるとこれ程嬉しいことはない。

では。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?