見出し画像

普通の人なんていない。自分にも他人にも優しくなるために

私は、生物学上男性ですが、ジェンダーアイデンティティがノンバイナリーです。
自分の好きなことやしたいこと、表現したいことが性に縛られません。性別を前提にしていない、と言った方が正しいのでしょうか、?
難しいことはよく分かりませんが、男性っぽい一面も女性っぽい一面も持っていることは恐らく確かでありまして、、、。
でも、可愛いか、カッコいいか、だと、可愛いの方が好きなので、女性らしい一面を求めている感はあるのかな?
もっとも、可愛いが女性らしい要素だと考えるのも偏見ですが、恐らくそういう社会だという前提で話しています。

具体的には、最近女性っぽいサラサラの髪に憧れて、髪のケアを始めたり、レディースっぽい服を着るようになるなど。

でも一方で、化粧はしていません。化粧水をつける程度。素顔よりも綺麗になれるのには、憧れます。化粧で顔を明るくしたいし、眉毛も細くしたい気持ちも無くは無い。
しかし、それと引き換えに早起きするのは面倒くさい、、笑
周りからどう思われるのかが怖くてしていないのもあるのかもしれませんが、恐らく自分が女子でも、化粧を面倒に感じるタチだっただろうと思うので、それ程「したいのにやりにくい苦しさ」は感じていません。
一度やってみると、楽しさが分かるのかもしれないけどね。

冷静に考えると、本当に良いとこ取りしてるだけなんですよね。
自分が欲しい女性らしさだけ女性の真似ごとをして、それ以上の面倒くさいことは、生物学上男性であることを盾に防いでいる、という具合です。

"いいとこ取り"という表現をしたことでも分かると思いますが、私はこの自分がそこそこ気に入っています。今のところ。
正確には、周囲の環境に恵まれて、気に入ることができています。

思えば、本当に自分が在りたい姿、というのは自分でも気付くのが案外難しいものです。
中学一年生の時、当時サラサラだった髪を同級生の女の子に褒められて、心底嬉しかったのを覚えています。
小学6年生の頃、クラスで1番仲が良かったのは女の子でした。休み時間、普段は使われない教室に勝手に忍び込んで、その子の恋バナに付き合う時間が1番楽しかったのも覚えています。

しかし、同時に、具体的にいつ言われたかは覚えていませんが、女々しいと言われたこともあったと思います。
小学生の頃は、それほど気にしていませんでしたが、思春期を迎えるにつれて、やはり周囲の目が気になり始め、女々しいと言われそうな自分の要素を、無意識のうちに徹底的に排除するようになりました。女の子の方が会話のウマが合うことも、髪がサラサラなのに憧れていた事実も、いつしか忘れていました。

そして、これが本当に自分が何よりも最も悔いるべき、心の底から申し訳なく思っていることなのですが、
周囲にいる少し女の子っぽい男の子を妬むようになっていました。あの頃の自分は、男らしくあるよう心掛けるあまり、周囲の人にもそれを強要してしまい、傷つけていました。

償えるものなら償たい、出来ることなら思い出したくもない、自分が過去に犯した罪です。


しかし、この過去の出来事に向き合えるようになったのも、自分が自分の在りたい姿を受け入れるようになったからだと思います。
今までは、過去にした行いは、自分が悪かったこと以外に理由が見つからなかったので、自分が悪魔の様な人間だという事実に向き合うことが恐ろしく、逃げてきました。
一方、あの頃の自分は、男らしく在らねばならないという重圧に苦しんでいたということも、自分が罪を犯した要因の一つであっただろうと考えられた時、少しだけ、罪の意識から解放されて、その事実に向き合うことができました。

もちろん、自分がした事が許される訳ではありませんが、罪の意識を克服することができ、何年も喉の奥につっかえていたものが取れた、そんな感覚です。
今、それを再びゆっくりと噛み砕いて受け入れることができます。

自分が、ノンバイナリーだと認めることの怖さはありましまし、今でも怖いです。道ゆく人によく見られる気がするし(たぶん実際にそう笑)、傷つかない保証はありません。しかし、在りたい自分を認めることで、他人にも優しくなることができ、今は、そんな自分を認める事ができて良かったと思っています。

(※自己防衛のコツ;周りの目を気にしそうになった時は、「てめぇなんて誰も見てねーよ!」と自分に言い聞かせております笑)


でも、自分がこんな自分を認める事ができたのは、周囲の環境があったからです。
どんな自分も受け入れてくれる、そう自分が信じる事ができる人がいてくれたおかげで、自分は自分に優しくなることができました。

そして、同時に他人にも優しくなれるようになりました。周りの人がどんな人であっても受け入れたいし、周りから疎まれそうな言動を取る人がいたとしても、それには何か事情や理由があると信じて寄り添いたい。それは、過去の自分に寄り添うことも意味しているだろうし、過去に自分が傷つけた人にできる、せめてもの償いだと信じているから。


ここまで読んで下さった方、ありがとうございます。

どんな自分も受け入れることができれば、どんな人にも優しくできます。同時に、どこか人に優しくなれないと感じている人がいるのならば、どうか自分自身に優しくなってあげて下さい。どんな自分も許してあげて下さい。辛い事もあるかもしれませんが、あなたを受け入れてくれる人は何処かにきっといると思います。


追伸
hum.@Fukuoka さん、素敵なイラストをお借りしました。ありがとうございます。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?