第3話「衝」『星霜輪廻~ラストモーメント』第二章:月面編
≫一≪
月面で坂入真佐の処罰が決する一方で、在地でも文系派粛清の波が押し寄せていた。
「随分と……華美な出来レースを催すのだな、月面は」
実子・成宣を月面に送り込んだ坂出財閥の首長重成は、報道でしか伝えられない文系粛清の情報に四苦八苦していた。額ににじみ出る汗の量は、そのまま理系派への猜疑心の表れでもあった。
「ひょっとしたら読みが外れたのでは」
そんな重成を部屋の隅から見つめるのは、坂入真佐同様に有罪宣告を受けるであろう浅黄田弓。文系派の贈収賄を会見で明らかとし、その後の調査委員会の方針に一石を投じた浅黄の罪状については、坂入真佐同様に議論が続けられていた。
「読み……、読みなどというものはない……」
「はい?」
憂いに耽る重成は、怪訝な表情を浮かべる浅黄を一瞥し、首をゆっくりと横に振る。
「読みと呼べるほどの高尚な政治劇を繰り広げる才など、俺にはそもそも備わってなどいない」
「じゃあ……」
「俺の権力闘争とは、常に敵がいてこそのものだった。単立の敵、タイマンであれば俺も気を張ることが出来た」
「ふん、列島をこれから統一しようという時に、そんな弱音を吐くなんて。よほど理系派の動きが想定外だったのかしら」
「馬鹿をいえ。少なくとも今回のことに関しては、予め察知していたことだ」
なら、と浅黄は言葉を重ねる。「何を焦る必要が?」
「理系派の動きは、さっきも言った通り。君と社保の坂入真佐が有罪となる、それは俺も分かっていた。問題は〝西〟だ」
重成のいう西、即ち朙靕のこと。朙靕には都市の主として依然LC社が構える。その首であるシュゼ・ニヤ日本支局長について――。
「LC社……、確かに首脳陣の交替劇があざやかに行われて以来、目立った活動はしていないけれど」
「俺はこの列島を再び一つにまとめようとした頃からあの女とは相対してきたが、イマイチ何を考えているのかが分からん」
「シュゼ・ニヤ……、レ・プレリュード期にフランス財政を指揮していた偉大なるヴァルチャ・カピタリストの一人娘。その才は父親譲りだったものの、唯一の違いは古典的なナショナリストだったということ」
「奇妙だと思わないか。それほどフランスに愛を感じていながら、今や愛郷を離れ遠く極東の島国で雑多な執務に追われている。フランスがゲルマン人に呑み込まれようと、彼女はこの列島に在り続けた」
「現最高顧問のロームル・スー、そして現社長のレーム・スーは同郷です。経営陣に仲間を据えることが出来て、シュゼ支局長も安堵しているのでは」
ところが、重成は苦い表情を浮かべたまま首を横に振る。
「連合は文系派が失墜し、理系派が取って代わろうとしている。首座には未だ弥神皐月が就いているではないか」
重成の言葉に浅黄は「まさか」と返した上で、苦笑する。
「たかがフランス一国を取り戻すために、桑茲司を挿げ替える? そんなことをしても今のLC社……否、シュゼ支局長に何のメリットが」
「メリット? 今さら何を言うかと思えば」
浅黄を笑い飛ばすようにそう吐き捨てた重成は、椅子を起つなり窓のブラインドを閉める。
「今ここに俺という存在がいる。それが何よりもの証拠ではないか」
「……まさかナショナリスト?」
「俺が日本にいて、支局長はフランスを愛す。果たして俺たちは例外的存在か? 国家の死滅がガスコイン法制委員長によって宣言されてはや百余年。在りし日の国体を羨望し蠢動する〝蛮族〟は少なくない」
国家はシステムだ。ヒトの進化過程において、現生人類は集団化・社会化を進めてきた。職業を分化し、社会階層を複層化させ、人類は支配者と被支配者とに分かたれた。
世界連合が産声を上げた二二世紀初頭、国際連合に死の宣告を申し渡したロベルト・ガスコインは国家の存在様態について「(前略)……国家とは真の真なる命題の体現者(大いなる存在)による進化の方向性を決定づけるための器たり得なかった。いやむしろ、国家という存在が人類進化のために不適格であるということを我々人類に自覚させるためだけに現世に顕現したということで、今ここに国家をはっきり棄却することは宇宙始原の時に予め決せられたことである……(後略)」と述べている。国家とは、捨て去られるために登場したシステムであり、人類の進化工程はもはや国家を必要としなくなった、と結論付けている。
連合は国家を否定すると同時に、元来使われてきた固有名詞の名称変更を強力に進めてきた。国家という土壌で培われてきた文化的風土のもと定着した固有名詞はやがて復古運動に回帰するというのが連合の考えであり、各地で国語と文明との離隔運動が展開されてきた。現在州として高度な自治を行う行政体の名称は、いずれもかつての国名とは一線を画したものとなっている。
しかしながら、あるものを否定したときに一方で肯定の声が上がるのは歴史の常である。国家を否定し成立した連合に対し、国家主義者たちは「排他的国際主義者との抗争」を掲げて強烈に抵抗した。連合はそうした彼らを〝蛮族〟と呼び法制化された軍事力〝軍閥〟を以て鎮圧していったが、彼らの根強い抵抗の背景にはかつて桑茲府と権力闘争を繰り広げた政治家組織「賢人会議」が控えていたのは自明だった。延命公主導の「螺旋開綻抗争」、そして「失楽園事件」による賢人会議の消滅は間違いなく桑茲府による連合領導体制の確立を促したが、一方で賢人会議は、当時の議長であるアイザイアの言葉を借りるならば『陰府へと堕ちた』のである。
重成はゆっくりと息を吐くと、古びた日本列島の地図を机上に広げる。
「黄泉の者たちは、死を超克した現世を恨んでいる。今となっては、世界中のあちこちに比良坂が開かれているといえるだろう」
死を忌避し、今現在我々が生きている世界とは別個に死者の世界が存在する、という世界観はあらゆる文明で培われてきた。日本神道では黄泉の国として、仏教世界では極楽浄土・地獄として、西洋社会では天国・冥府(陰府)として。
生命の根源的原理を調律せんとする世界連合は、而して社会的人格の選別を不断なく実行し、燦然たる光明をこれ見よがしに市民へと照らし出している。その結果生じた色濃き本影には見向きもせずに、連合はその周囲に現れるペナンブラの外科処置にのみ明け暮れた。超然的国家主義者たちの胎動は、今まさに梗塞せんとする月地間の交流に更なる影響を及ぼすのは必定。それでもなお連合は利己的に政治を動かし、文系派による強引な相関関係が破断された今、抑えつけられていた国家主義者たちが蠢動しているという情報もはや重成の耳に届いていた。
「もし今、俺がシュゼ支局長との政争のさなかにあるとするならば、俺とて先方の読みくらいは分かる。恐らく俺に命乞いをさせたいのだ、俺……否、日本という国に、借りを作らせたいのだろう」
「となると支局長は私たちの二歩、いや三歩ほど先に進んでいるということでしょうかね」
「だからといって指を咥えて趨勢を見守るだけでは意味がない。ただでは日本州という果実が手に入らないことは百も承知だが、このまま支局長の手のひらの上で踊らされるのも癪。かといいつつ蛮族の邪魔立てに遭い比良坂を転げ落ちたくもない。ここは日本、相対するは文系派。その基軸を曲解してはならない」
「じゃあ?」
「今俺たちが後れをとっているのはこれまでの動向に対し受け身になっているからだ、月面の顔色を窺って賽を振るかどうかを決めあぐねている。これでは今までと何も変わらん。まずはそこを変える」
「既にご子息は施設長と共に月面へ。ところがあの騒動の折に発せられたシンプレックス通信の煽りを受けて月地間の情報伝達に遅延が生じている、思いのほか先手を打てないのはそのせいもあるのでは」
「もちろん、それもある。俺が練った策は……やはり〝西〟だ」
「西、とは」
「即ち筑紫自治区だ。俺は筑紫自治区に使者を出そうと思う」
重成の言葉を聞くなり、浅黄は顔をしかめて首をひねる。朙靕はともかく、何せ筑紫自治区は日本自治区にとって列島統一という目的途上にあっては紛れもない〝仮想敵〟だからである。
「筑紫自治区には大漢がついているのは明々白々――」
「今は大東亜州だぞ」
「……っ、変わりないことでしょう」
かつて日本崩壊の刻、虎視眈々と海洋進出を狙っていた大漢は、しかし自身も南北に政体が分かたれ、共産主義派と民主派との間で対立状態を生じさせていた。その折、南岸の民主派政府はかつての魏や後漢の故事に倣い九州地方に接点を持とうと南西諸島沿いに使者を派遣。爾来筑紫自治区は民主派政府が主体となって成立させた大東亜州の事実上の保護州となっていた。
「列島統一は日本自治区主導で。日本国政府の正統な後継政府である私たちが日本州を動かしていくのではないのですか」
「無論だ、そこに変わりはない。だが今回の日本州昇格の件で対応を渋っているのは大東亜州出身の行政官、羅啓明だと聞く」
「まさか羅啓明に媚を売るのですか」
「いいや、むしろ逆だ。仲良くなったフリをして相手の懐に入り込み、ここぞというときに汚職の証拠を振りかざしてやるのだ。表にはださずとも、支局長との間で何か良い取引材料となればこれまた幸いだ」
「あなたがそう考え至ったのであれば、支局長は既に行動に移している頃かもしれませんね」
浅黄の皮肉に、重成は煩わしそうに右手を振り回す。
「例えそうだとしても、それがどうした。きっと支局長は同じ考えに至った俺を無下にはしないだろう」
「だといいですがね」
程なくして浅黄に対しても判決が下された。その内容はやはり坂入真佐と同様で、罪状の割には罰の軽い、見せしめのようなパフォーマンス色の強い結果となった。
一方で、坂入真佐と浅黄田弓への判決は判例として非公然的に法曹関係者に共有され、これ以降停滞しがちだった文系派糾弾の裁判の速度がうなぎのぼりとなる。いずれ調査委員会がその所以を突き止めるだろうが、それでも理系派――否ホアンは俄然協調憲章改定へ向けて動き出す。理系派による領導体制の構築、その目的に向けた一歩として、真佐と浅黄は体制の踏み台として利用されるのだった。
≫二≪
朙靕地区の中央にそびえ立つLC社日本支局ビル。その最上階にある執務室の一角で、シュゼはロックアイス入りのグラス片手に一人思案している。
「焼酎でいくか、白酒でいくか……」
シュゼの眼前には、つい最近仕入れたばかりの酒瓶が二本。一本は日本自治区内で生産されたという焼酎で、もう一本は白酒といい大陸で作られた中国酒の一種で、筑紫自治区で流通しているものとは別に自治会員独自のルートで仕入れたものをこれまたシュゼ独自のルートで掠め取ったものである。
「弱ったな、仕事終わりには何のこだわりを持たずにアルコールで疲れを飛ばしたいものなのだが」
執務室にはシュゼ以外には誰もいない。時刻も間もなく夜の七時となり、一杯かました後はシュゼも大人しく退局するつもりだった。
月面における理系派の動きは当然シュゼの耳にも入ってはいた。新しく社長となったレーム・スー、そして社内自治の原則を踏みにじって検察官の関与を招いたロームル・スーはしかして新しいポストである最高顧問としてLC社の頂点に君臨する。そのいずれの動向も立策したシュゼは日本支局長の地位を離さなかった。
「――まだ帰っていないんだろ?」
何をキメるか決めあぐねているシュゼの背後にて響く声。
「残業をさせるつもりかな、ろーちゃんさんや」
「何をバカなことを。これから帰ろうという人間が通信回線を開きっぱなしにするか」
声の主はロームル・スー。ビデオ通話をオンにして、執務室の窓は一瞬のうちにスクリーンと化した。
「今日は動いたな。私らが知らないだけの予定調和だろうが」
二本の酒瓶を両手に抱えながら、シュゼは窓際の椅子を引っ張り出して支局側のカメラもオンにする。
「……っておいおい、一人で乙なことを」
「気にするな、ろーちゃんが出世したおかげでこっちも仕事がしやすい」
「はっ、君はハナから月面のことなんざ歯牙にもかけたことない癖に」
「そんなことはないさ、少なくともこの二年はまるで天国のような気分さ」
そういって日本酒と中国酒をカメラの前に突き出し、シュゼはあろうことかロームルに決断を促す。
「聞いて呆れるな……、それに時機がとんでもないほど悪い。私は日本酒一択だ」
「ほう、麻婆豆腐が好きなろーちゃんにしては珍しい」
「茶化さないでくれ、シュゼだって分かっているんだろ」
ロームルの様子をみて、シュゼは嘆息する。
「羅啓明か。そういえば私も近いうちに列島の方向性を月面に諮ろうと思っていたんだ、ちょうどいい」
「日本自治区の社保局長、名前は何だったか」
「坂入真佐、だったな。有罪判決を受けたはいいが、どうせ見せかけだろ」
「そう、本当はそう。日本自治区も文系派マターでの州昇格をモノにしていた……だが羅啓明はノーを突き付けた」
十二人会議における動向は、あくまで噂レベルではあるものの外部に漏れ出るほどにその権威が弛緩しつつあった。一体どこの誰が関与しているのかは定かでないものの、おおよそ事実に沿った噂が会議外の人間に伝わっていくことは、陪臣たちにとっては不気味なことこの上ないことだろう。
「やはり、か。シャドウは追認の構えだったのにな」
「なんだ、そこら辺の情報も君は持っているのか」
ロームル自身、羅啓明の言動はボイレにおいて度々見聞していることから噂の中に事実たりうるものが埋もれていることは看破していたが、ほぼ同質の情報をシュゼが持っていることに呆れにも似た感嘆を漏らす。
「私の視野はいつだって広い。常在戦場の気持ちでいなければいつ足を救われるか分かったものじゃないからな」
「これは恐れ入った、私も用心しなければね」
「私が心を落ち着けられる時間は、こうして仲間と過ごしているときくらいだ」
「やけに感傷的だねえ、そろそろ頃合いかい」
ロームルと会話を進めつつ焼酎を体に流し込んでいたシュゼの顔は若干ピンクがかっている。
「文系派は仕事をこなす上で大事なことを蔑ろにした。だからこうも呆気なく権力の基盤が崩壊した、そうだろろーちゃんや」
「ふむ……、大事なこと?」
「そいつぁずばり人間関係だ。本来であれば時間と労力をかけて培うべき信頼関係を奴らは金で繋いできた、『Les bons comptes font les bons amis』の原則を無視した結果が今回の益江事件に繋がったのさ」
自身も在地に身を置いている以上、文系派の統治理論はシュゼにとっても理解できる部分もあった。中央政府と地方政府、地上で二千年の歴史を紡いできた人類が広域な領土を納めるうえで、避けて通ることのできない〝自意識〟の差異。政に近い者はその掌中に権力を固く握り、そこから遠ざかったものは鬼の居ぬ間に何とやら。
世界連合は延命主義を貫徹する装置に過ぎない――、桑茲府が螺旋開綻抗争の中で再認識した一文を、文系派は逆手に取り瞬く間に在地社会に権勢を奮った。中央へ接近する手段を介助することで、文系派は容易に在地を支配した。と同時に背信の脆さも手にすることとなったのだが。
「人間関係、私も肝に銘じよう。最高顧問というこの立場も、言ってしまえば社の善意で置かれているようなものだしな」
「善意ねえ、れーちゃんの重石あってこそだろうに」
「まあ、そうだねえ」
照れ隠しか、椅子のリクライニングを下げて画角から消えていくロームルをよそに、シュゼは淡々とグラスを傾けていく。結局終業後のお供に選んだのは白酒だった。
「ヘルマンの軛が外れて、文系派も烏合の衆に成り果てた。続々と理系派へ転向する動きがあるのは事実。しかし」
「――誰かが裏で手を引いているはず。文系派の責任を度外視して急進的に在地層を取り込んでいることは把握しているが」
再び画角に映り込んだロームルが、地球地図の映るタブレット画面をカメラに向ける。
「グラウンドゼロはここ、大陸だ。大東亜州が旧国の興復を目論んでいるのか、或いは在地を糾合するただ一点として存在するを望んでいるか」
依然として在る国家復活論。連合の隆盛により息の根を止められた属民の吸血装置たる国家群が、日の見えぬことを良いことに闇の内で蠢いている。
「ホアンはいい。言ってることとやろうとしていること、奴は実直で分かりやすく故に扱いやすい」
グラスを片手に、シュゼの視線はスクリーンから机上の酒瓶に移る。
「……ホアンがシャーロット・ノヴァを出し抜くことが出来たのもある意味でホアン自身が純粋だったからといえる。政略謀略渦巻くこの界隈で奴が生き残れた理由は知らないが」
首を傾げながら、ロームルも画角の外から冷水を注がれたグラスを手に取る。
かつて月面で繰り広げられてきた文理両派の権力闘争。シャーロットとヘルマンの対立の中で、ホアンは星室庁の長官として動態し、やがて恩師であるシャーロットを漂白刑に追いやった。その翻意の真相については誰彼もがヘルマンの誘惑を口々に妄言したが、事実としてホアンは理系派のニューリーダーとしてヘルマンとは対峙する関係となった。
純粋さ。その言葉が示すホアンの強さ――或いは弱さ。その両性について、ロームルも、あまつさえシュゼすらも分かりかねている。
「それにかえて、羅啓明の行動は不鮮明だな」
ホアンの右腕として行政官に名を連ねていた羅啓明だったが、在任中の動向はあまり対外的に響くものではなかった。確かだったのは、文系派・中道派・理系派の均衡で保っていたはずの内務市民委員会が常に文系派寄りに動いていたということ。羅は理系派陪臣であったものの、その様子があまり明確でないことは文系派は元より理系派の間でも噂の種だった。その疑念を抑えてまで、ホアンは羅を登用し続けた。
「やはり、ね。シュゼも分かりかねてたのか」
「少し前までは名前すら聞くことのなかった、それがここ最近になっていきなりホアンの右腕、敏腕行政官ときた」
「確かに、私ですら羅という人物を良くは知らなかった。月面に戻って、LC社を改革しようという時、ニコライとシュリッツの横に佇む女を見、初めてそれが羅啓明という人物だと知ったくらいだ」
羅啓明という人物の解像度を上げようとするのは何も二人だけではない。突如現れたかのように見える羅を知ろうとするのは、何も文系派だけではなく、むしろ身内の理系派から探りを入れていることの方が多かった。
「これは匂うな、間違いなく」
シュゼの鼻は政争の芽吹きについては特に効いている。
「……羅の出身州は大東亜州。ここ最近の動きをみると何らかの連携があるとみて然るべき、か」
「理系派に旧国興復勢がいるとホアンの理念も霞んでしまうな。獅子身中の虫を生かすも殺すもホアン次第だが、そこが理系派体制の急所となるか」
「――時機が来たのかな」
ロームルの言う〝時機〟。意義深く口ずさむその言葉に、シュゼのグラスを持つ右手がピクリと動く。
「この時の為に私たちは備えてきたんだろう、シュゼ」
しかしシュゼは首を縦に振らない。むしろロームルの言動を戒めるようにグラスを持つ指を一本立ててみせる。
「まずは理系派の溝にちょっかいを出そうじゃないか。ヘルマンとダッチの二者相関と違い、ホアンと羅の間には隙間風が吹いている……」
「しかし理系派を壊すと連合には何も残らなくなる。立てて代えるべきイコンも意味を成さなくなる」
「なんだ、そんなことか」
そんなこと、と日本支局長はのたまう。そもそも延命主義に文理両派の双頭はいらない……、いやむしろ、シュゼにとっては連合という枠組みさえ残っていれば──。
「君は月面にいないから分からないのだろうが」
「何も無くなるなら私らで創ればいい、足りないなら足せばいい。そんなことを気にしていたら完全持続循環社会はやってこないぞ」
「簡単に言ってくれるな……」
シュゼが、そしてロームル、レームが目指す理想郷。完全持続循環社会は、かつてLC社を興したシャーロット・ノヴァは、延命主義の貫徹精神を実践することで人間の肉体的寿命による有限な善政を絶やすことなく紡いでいける、と思索。これを完全持続循環社会とし、LC社の社是としてきた。
「万物は流転する──、同一性に固執するのは人間だけであり、逆に言えば人間の特権でもある。即ち何が同じで何が違うか、決めるのは人間だ」
「人間が創り出した政治の在り方も然り、だと」
「例えばこの街には川が流れている。もはや誰も見向きはしないただの水の流れに過ぎないが、百年二百年と流れる水が変わり続けても同じ川だ」
「連合もまた……」
そこでロームルは口をつぐむ。それ以上の言葉に意義などないことを知りながら、そっとロームルはグラスを傾ける。
「さてと、私はそろそろ家路につくかな」
すっかり顔を赤らめたシュゼが空っぽのグラスを机に置くと、ロームルもそれに答えるように背を伸ばす。
「私も羅啓明について調べてみよう、果たして利用できるのかどうか見定めようじゃないか」
「面白くなってきたじゃないか、こういうのを私は求めていたんだ」
ロームルとの接続を切る刹那、シュゼは自分の意志ではない笑みを不意に浮かべた。画面が暗転し、再び夜景が飛び込む間、シュゼは思いもしない自らの笑みを見てふっと肩の力を緩める。
「政争……、実に分かりやすい止揚の形態だ。敗者は社会に捨てられ、勝者は社会に造られていく。全く人の世は人に生かされているのかそうでないのか見誤ってしまいそうだ」
シュゼの右手は僅かに震えている。酔いのせいだろうが、それでもシュゼはお構いなしに右手を支えに立ち上がる。眼前には朙靕の夜景、誰かの労働の対価ではなく、そこにあるのはLC社職員の生活の発露。東の暗闇と西の光彩。分け隔てられた文化の連続性が、朙靕の外資企業によって再構築されていくサマ。どちらへ近づいていくのかはシュゼの判断によってのみ決される。
「私は零れたミルクをグラスに戻してみせるさ」
不敵に笑うシュゼは、果たして何を目論んでいるのか。それはある意味で、ロームルをも出し抜くような危うき一手――
≫三≪
夕飯時の坂入別邸。食卓に出来立ての夕飯が並ぶ中、周囲の空気感は極寒そのもの。
「……アサミさんは、浅黄さんを売ったんですね」
「いいから、聞いて」
「なさっちのパパも!」
既に益江事件の総括については、月面は元より人類社会に周知されるものとなっていた。即ち浅黄田弓と坂入真佐の有罪、そして二人の証言に基づく文系派への訴追の段階的実行。
「ねえ由理ちゃん、もういいから」
「いいや、よくないよ。こんなやり方!」
由理からしてみれば、アサミは身代わり出頭・身代わり有罪を浅黄田弓や坂入真佐に押し付けたようなもの。間違いなく上に立って指示を出していたのはアサミだったのに、と反発する一方で、アサミに追及の手が及ばなくてよかった、と思う自分自身がいることも由理は分かっていた。
「――つい先日だったか、特別調査委員会が益江事件についての暫定評価書を公開しただろ」
由理とアサミとの対峙に割って入るように口を開いた千縫が、手元のタブレットを裏返す。
「益江事件は三月革命以降の文系派の汚職体質を象徴する事件だ、施設長の前でこういうのも気が引けるけど」
「構わないわ、元より断罪されるべきと思ってる。けれど今の世の中に私を裁ける奴なんていない、だから私はここにいるの」
「……本当であれば益江町体制で恩恵を受けた――いや、あの体制で日常を築いていた者は連座してもおかしくないくらいだった」
由理は静かに生唾を呑み込む。
「それをあの二人の存在が防いでくれるんだ、理系派の中には軽すぎるといった反発が生まれるほどだ」
どこからともなく現れた成宣が、消沈する由理の肩を叩く。
「それに……、とっくに十分すぎる代償を私たちは払っているのよ」
キッチンの縁に寄りかかるアサミの視線の先には、今は亡き小出李音と生死不明の水戸瀬肖の写真。
「そもそも益江町だって、アサミさんが始めたものじゃないですか。失敗と共にいなくなって、アサミさんはここにいて……」
言葉に詰まった由理が、その場に屈みこむ。それをみた奈佐が、優しく背中を撫でる。
「じゃあ由理ちゃんはアサミさんに居なくなってほしかったのかい」
そう問いかける成宣の口を慌ててアサミがふさぐ。
「それは……っ」
「アサミさんは何よりも、由理ちゃんのことを考えて――」
「私は誰にも死んでほしくなかったし、いなくなってほしくもなかった!」
不意に立ち上がった由理は、乾いた瞳でアサミを見やった後、すぐにそっぽを向く。
「……そうよ。私は偉そうなことを言ってるけど一人じゃ何もできない、おまけに尻拭いを人にやってもらう人でなし」
重苦しく話すアサミは、しかしそれでいてその眦は退くことなく由理をジッと見据えている。
「それでも私は歩いている。正しいと思った道を、足を引きずりながら歩いている。その足跡をみて、ついてきてくれる人もいる。先の見えないこの世に生きる人格である以上、その時々の判断に善悪なんて存在しない、あるのは結果だけ――権力者は結果を示すだけ、判断するのは私じゃない……だから折れそうになることだってしばしば」
そこでアサミは大きく息を吐くと、由理の頬を両手で覆いながら互いに顔をジッと見合わせる。
「由理が判断して」
「やめてください」
「あなたが決めたことに私は従う」
「やめてくださいって」
「ねえ由理」
「だから――」
アサミを強く引きはがした由理は、いたたまれなくなって部屋を飛び出した。
「ゆ、由理ちゃん!」
追いかけようとする奈佐の肩を、成宣が押さえる。
「で、でも」
「月面の街並みを眺めていれば、じき気持ちも落ち着くだろう」
「『故郷を思えばなおのこと、か』――それでも」
ナーシャの言葉に奈佐は眉をしかめるが、由理が開け放ったドアをみて嘆息する。
「お互いに求めすぎなんじゃ……ないですか」
「それはそう、由理ちゃんもアサミさんも、コミュニケーションが下手だと思う」
千縫と奈佐の視線を受けて、成宣はそれをそのままアサミへと流す。
「……否定できないわね」
苦笑いを浮かべながら、アサミはキッチンの蛇口を捻る。「似るものね」
「『昔からそう』、だそうですよ」
ナーシャの言伝を聞いて、成宣は吹き出しそうになりながらアサミの肩を叩く。
「……傍にいても、見ているようで見えていないこともある。知らないものから逃れようと親の背中に隠れ、かと思えばいつの間にか遠くに行ってしまって、太陽の影に隠れることもある。親子なんてものは、そういうものさ」
何か知ったような口を利く成宣を、これまたアサミがその背中を叩く。
「まあでも、そうかもしれない」
「ぬいっち……」
親、という存在。千縫も、父親と離別して同じく二年と少し。意思の相違で離ればなれとなった親子だが、ふとした拍子に思い出しては、逡巡する時があるという。
「親の背中に隠れる時が一番距離が近い時だ、とは私も思います。隠れられるなら、その親子はきちんと親子なんだって」
延命社会は親子の近傍を整頓する。現世に固定化された人格は必ずしも子孫を必要としない。また、親と子として現世で巡り合わせた二者相関は、必ずしも血の絆を発揮するとは限らない。一方は肉体の絆として、また一方は魂の絆として。その二つの関係性に、親子という関係は必ずしも必須ではない。
それでも子は生存本能として親を欲する。自身を庇護してくれる者、何か大きな存在にぶち当たったとき、己を隠してくれる者。
「言っていいのか分からないが――」
成宣は、千縫を一瞥し口をつぐむ。「君のお父上のことだ」
「あー……、死にましたか」
「いや、大丈夫。彼は今火星にいる」
「火星?」
「ロランジュ社。屈指のイエローペーパー……といったら失礼かもしれないが、そこで勤務しているらしい」
ロランジュ社。火星に本拠を置き、世界連合下の世界各地に関する話題をセンセーショナルに報道する煽りのプロフェッショナル。その悪名高き社名は人智継承教育科学機関の別名であるシトラスになぞらえられ〝民営オレンジ〟と言われることもある。
「そう、ですか」
「噂によると、来週彼が書いた記事が初めて紙面を飾るそうだ」
「成宣さん」
アサミの戒めに、成宣は「喋り過ぎた」と両手を合わせて頭を下げる。
「由理ちゃんも子供をもてばいいのかもね」
「ちょっと、なさっち」
奈佐の意外な提言に慌てる千縫。しかし、成宣もアサミも満更でもない様子で顔を見合わせる。
「確かにそれはあるかもしれん」
「また、そんなこと言ってたらまた喧嘩になりますよ」
あきれ顔の千縫だが、或いは、と口を開く。
「私たちが弱っている風を装えばいいんじゃないか」
「なるほど、庇護欲を高める、とかか」
由理不在の中、互いが好き勝手に話す空気感。益江町では成し得なかった日常が、ここ月面で確かに醸成されている。
いつか、必ず日本へ帰れることを信じながら。
時間を少し戻し、つい家を飛び出した由理は当てもなくただぶらぶらと周縁道路を歩いていく。天窓には飾りの星空が明滅している――今の人類には宇宙を見ることが出来ないなんて――と、由理は足元の石ころをテキトウに蹴り飛ばす。
「いてっ」
かと思いきや、通行人の誰かに当ててしまったと気づいた由理は大慌てで声のする方へと走り出す。
「だ、大丈夫ですか……って」
「別にけがはしてねえよって……」
そこにいたのは、カルパティア・ハイツの近くで出会った中東風の少女だった。
「なんだか妙な巡り合わせだ、気味悪いな」
「それはこっちの台詞なんですが……っ」
ふとひと息つくと、夕飯前だったこともあって腹の音が鳴ってしまう。そんな由理の様子をみて、少女もふと表情をほころばせる。
「ははん、さてはママと喧嘩したのかな?」
「そ、そんなんじゃないんですけど。……ってか、あなただって何なんですか? なんも悩みがなさそうな感じで、随分とお気楽ですね」
「はん、そうみえるなら思う存分羨ましがれってんだ」
すると少女は手持ちのカバンから何かを取り出して由理の手に握らせた。
「お、お茶?」
「そうだ、まだ口もつけてないし、腹空いてるんだろ?」
「いや、そりゃ空いてますけど……」
「私ゃイスカンダル、君は?」
唐突な自己紹介に戸惑いつつ、由理も自身の名を返す。
「なるほど、ジャポンか。道理で」
イスカンダルの何かを知ったかのような様子に、由理はムッとしつつ言葉を返す。
「そういうイスカンダルさんは、どこから?」
由理の問いかけに、イスカンダルは眉をピクリと動かす。
「逆に聞くけどどこだと思うかい」
めんどくさい人だ、由理は口から溢れそうになった言葉を呑み込み、少しだけ思案する。
「うーん、案外月面人だったり」
「半分正解、半分間違い。まあ世の常に鑑みれば大正解か」
「ちょっと意味がわからないですけど」
「んー、君は笑える人なんだな」
「……はい?」
「いや、まあいい。しかし君はあれだな、欲深い。欲深さは業の深さだ、覚えておいたほうがいい」
「はあ?」
「あれもこれもと欲しがるのは現実の物差しが出来ていない証拠。そんなことでは騙されたまま一生を終えるぞ」
「あの……」
「君は何をするために月面にやってきたんだ、ただ物件探しをしてぷらぷらするだけか」
「別に私は来たくてここにいる訳じゃないんですけど」
「ふふ、そうか」
しかしイスカンダルは笑ってなどはいなかった。機械的に漏れた吐息を吸って、イスカンダルは由理の眦を見据える。
「月面は単なる住処に非ず。また中枢都市にも非ず。ここは──戦場であり、舞台だ」
「戦場……、舞台……?」
「例え望んでいようといまいと、月面に佇む君は人類社会のプレイヤーになった。……まあ君の保護者がそれを望んでいるかどうかは知らないが、無為に時間を食っているようでは格好の餌食だ」
月面という空間の深秘性は、到底地球にいる間は視認できるはずもない。地球から見た月面は、夜空に輝く天体で、闇をも照らす神秘性の体現でもある。昔はただの天体ショーに過ぎなかった月の動向も、今となっては政治的動態をも帯びた政治ショーだ。当然そこに住まう人々も、世界連合という枠の中で活動する登場人物となる。
「といっても自由に動ける身でもないし……、それに私はいつまでも月面に住んでいる訳じゃないので」
「ふうん、なーんだ」
あからさまに興味を失ったような態度を示すイスカンダルに、由理は気になったことを問いただす。
「どうしてイスカンダルさんはわざわざ私なんかにそんなことを?」
するとイスカンダルはあっけらかんと「なんとなくだ」と宣う。
「はい?」
「もうちっと詳しく言うなら、君から懐かしい匂いがした。それが何かは知らんが、延命主義のこの時代、一期一会という諸行無常の儚い生業を貫通するのは匂いだと、私は思うんでね」
「に、匂い?」
反射的に服の匂いを嗅ぐ由理に、イスカンダルは首を横に振る。
「あー、柔軟剤の匂いじゃなくてな。言葉にはしにくいが……、例えるなら魂の匂いとでもいうのかな、体臭とはまた違う……フェロモンのような、漠然とした……でも確かに感じるような匂い」
「それは……確かにあるのかも……?」
「本当に分かっているのか?」
由理が感じ取ったのは、過去の経験から惹起される匂いの記憶。とはいえイスカンダルのいう匂いは、きっと延命施術後の匂いだろうから、由理にとっては関心の外であった。
「まあこうして会えたのも何かの縁かもしれんが──」
そこでイスカンダルの持つ端末が鳴動し、咄嗟にイスカンダルは耳に手を当てる。
「いいや、まだ承知していない。喫茶店にはこれから向かうが同盟州の意向は変わらんのだろう」
「…………」
電話口でも口調を崩さない様子を見て、由理はきっと友達相手の通話だろうと悟った。そしてイスカンダルの通話が終わるのを見計らって、別れを告げる。
「あ、そう。まあ、また会うことがあったらその時はゆっくりお茶でもしようじゃないか――喫茶店とやらで、でもね」
そういうなり、イスカンダルは来た道を引き返すように去っていく。
「……やっぱ変な人だなあ」
すっかり気持ちの落ち着いた由理は、とぼとぼと別邸へと歩き出す。
しかし由理の月面生活は、当初の見通しよりも長く、そして困難なものへと変わっていくのだった。
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