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馬車は時代を越えて――鹿島茂のN'importe Quoi! 「前回のおさらい」

こんにちは!ゲンロンスタッフの野口です。ゲンロンではフランス文学者の鹿島茂さんによる講義放送「鹿島茂のN'importe Quoi!」を実施しています(放送プラットフォーム「シラス」でご覧いただけます)。

毎回の講義内容を振り返る「前回のおさらい」。この記事では2022年4月12日に放送した「パリの歴史――集団的無意識の研究」第4講の内容についてご紹介していきます。毎回さまざまなテーマを切り口にパリの歴史について考えている本番組、この日のテーマは「馬車」でした。

1.馬車以前の都市間交通

講義を通してよく取り上げられているパリの「パサージュ」は、その両端に都市と都市を結ぶ乗合馬車の停留所がある場所をつなぐかたちで作られるものが多かったのですが、その乗合馬車も盛んに使われるようになったのは、実はパサージュが建造されるタイミングに近い、18世紀末以降。それまでは国内の都市と都市を結ぶ「都市間交通」の手段は、ほとんどなかったというのです。

皆さんは「近代以前の道」というと、どんなイメージを思い浮かべますか?歴史を1500年以上さかのぼれば、「すべての道はローマに通ず」の言葉通り、ローマ帝国時代に作られた道路がありました。
アーチ構造を活かした石造りの道の上を馬車が走り、広大なローマ帝国の兵站と物流を支えたこの道。しかし、ローマ帝国崩壊ののち、100年もしないうちに管理者を失ったこの道は、なんと周辺の住居や教会のための石材として略奪されてしまいます。
そうすると、雨が降るとぬかるむような道ばかりになり、まして重量のある馬車が走れるような道は減少。そのうちに陸上交易は衰退し、やがてイスラム勢力の地中海進出や、北海との交易も断絶し、船をつかった海上交易も衰退していきます。さらにモノの流れが減少し、交換機能が弱体化した都市も孤立し衰退していきます……。

そんななか、交易そのものは比較的地域が限定された中で行われるようになり、それまでワインがメインだった酒造りでブドウが手に入らない地域では代用品としてビールやシードルが作られたり、当時のたんぱく源として貴重だったチーズも地域ごとの発展を見せます。
モノの流れに加えて、知識の伝達も途絶える中、それらを支えたのは以前の講義でも紹介されたシトー会などの修道院でした。
これらの解説の中ではお酒の文化圏ごとに異なる人々の距離感のお話や、搾りたてを飲むしかなかった牛乳やヤギのミルクを当時どう提供していたかの紹介も。前回の講義でもパリ市内にはブタがいた、という話がありましたが、当時の街中には牛にヤギにと、動物がたくさんいたんですね。

お酒の文化圏ごとに異なる人々の距離感について説明する鹿島さん

もちろん、長距離の交易もまったくゼロになったわけではありません。ロバを率いた行商人たちによって都市間交通は補われ、彼らがさまざまな商品を運びます。その中には農村で重宝された、様々な聖人の日を記した「農事歴」などの書物もあったそうです。農村部においては、修道士以外の識字者であったノデール(公証人)がこれらを読み聞かせたのかもしれません。

2.馬車誕生

ではその後、馬車はどういった経緯を経て都市間交通の手段として使われるようになったのでしょうか?都市間交通の手段以前で馬車が用いられたのは、「都市内」の交通……街の中での王侯貴族のパレードなど「見せびらかし」でした。つまり、実用性はあとまわしの「ドーダ!!」の用途だったのです。現代のスポーツカーや高級腕時計のような感覚だったのかもしれません。
とはいえ、初期の馬車は前輪が独立して方向転換できないものだったり、振動を緩和する装置もない乗り心地の非常に悪いものだったようです。この「振動を緩和する装置」を「ショックアブソーバー」というのですが、初期は樫の木などをつかった木製のものが使われ(非常に重量があって、これも都市を結ぶ道を使うには不利だった)、のちにベルリン馬車=ベルリーヌという馬車で鋼鉄製のものが使われるようになります。
女性遍歴で有名なジャコモ・カサノバやモーツァルトも馬車の乗り心地に言及した手紙を残しているのだとか。

野口のノートより……ショックアブソーバー、伝わりますでしょうか……

さて、カサノヴァやモーツァルトが手紙に残している通り、彼らが活躍した18世紀には、都市間交通で馬車が使われ始めます。その背景にあったのはフランスで推進されていた重農主義政策。財務大臣テュルゴーらが推進したこの政策を通じて道路の整備が進み、ようやく都市間交通が発達し始めたのです。乗合馬車“Tugotine”=テュルゴチンは、まさにこのテュルゴーの名前に由来するそうです。

※『馬車が買いたい!』(白水社)より

また現在の4t車ほどのサイズがあり、6頭ほどの馬で引いていたといわれる巨大馬車である「ディリジャンス」、あるいはスピード重視の郵便馬車なども紹介されました。

ディリジャンス。御者も3人態勢、事故などもあったそうです。
写真は『馬車が買いたい!』(白水社)より

3.時代を越えて、馬車が残したもの

その後19世紀には鉄道が普及し、馬車の時代は長く続かないのですが、その痕跡は残ります。例えば先ほどご紹介した「ディリジャンス」というタイプの馬車は14~5人ぐらいの乗客が乗れたのですが、その中で使われていた「1等席」「2等席」などの客席の区別がそのまま鉄道に残ったり、郵便馬車が「poste=ポスト」と呼ばれていたり。郵便つながりで言えば、今も私たちが手紙としての「メール」だけではなく、電子的なものも「メール」と呼ぶように、新しいテクノロジーにはその前身となる言葉や習慣が引き継がれています。
また、都市間交通が盛んになった影響は地方との情報・時間格差の縮小にもつながります。『ゲンロン12』にもお寄せいただいた新聞王・ジラルダンによる新聞革命も馬車の普及なくしてはありえませんでした。また地方から都市に出てくる人たちが増えたり、社会の流動性にもつながり、それがのちの発展を生んだとも考えられます。
さらに新たに富を得る人が生まれ、ブルジョワジーが誕生していく一方で、いわば「食べられないインテリ層」というべき階層も生まれてきます。背景には東との対談の際にも紹介された官職売買の話や、ヨーロッパの小説にもよく出てくるという「持参金」とも絡むのですが、フランス革命の遠因という見方もあるということで、じっくりと解説いただきました。

ホワイトボードの1億円、5%といった数字は何の数字なのか……
ぜひアーカイブでご確認ください!

ジュール・ヴァレスの『子ども』などの文学作品も引きながらお話いただくなかで、視聴者の方からは「昔の話を聞いていたはずなのに、現在の話なのでは?という気がする」といった感想コメントも。個人的にも『子ども』で描かれる「habit noir(黒服=スーツ)の悲劇」のお話は胸を締め付けられる思いでした……。


まだご覧になっていない方も、もう一度見たい、という方も、ぜひアーカイブ視聴でお楽しみください!

鹿島茂のN'importe Quoi!」は毎月第2、第4火曜日19時から放送中です。次回もぜひご覧ください。

※本記事の内容は、2022年4月12日に放送された「鹿島茂のN'importe Quoi! 『パリの歴史ーー集団的無意識の研究』」の内容をもとに、ゲンロンが独自にまとめたものです。

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