日本古典 幕末・大正時代 「富岡鉄斎」
1836年―1924年鉄斎の実家は京都の裕福な法衣商だった。生まれた頃の病で耳が遠くなり、そのため学問の道に進むことになり、早くから富岡家の家学の石門心学を学び、漢学や国学などを身につけた。また、尼僧で歌人の大田垣蓮月に預けられて、人格形成に大きな影響をうけ、号を鉄斎と名乗る。
絵は、浮田一蕙など多くの師に学ぶが、師風を全く感じさせない独特の表現に至った。
幕末、勤王の志士と交わり、衰退していた大和石上(いそのかみ)神宮などの神官を新政府の依頼で歴任するが、パトロンたちに絵を売り、これを復興にあてたという。
書風は、青年時代の細く鋭い「針金鉄斎」と呼ばれる書から年とともに変遷し、力強く金石の気みなぎる晩年の書へと向かった。
顔真卿、貫名菘翁など和漢の先人の書を座右に置き、真摯に向き合う学者文人であり、あらゆる書画や法帖類などを自身の中で昇華して、大胆かつ自在に筆を運び、作品として表現した。
・画賛
〈原文〉
画竹写个還添介、濡毫落墨十余回、此竹雖奔一龍値、清風楽有襲人来、庚子七月露自夜白々、鉄斎外史
〈読み下し文〉
竹を画くには个を写し、還(ま)た介を添ふ毫を濡らし墨を落とすこと十余回、此は竹と雖(いえど)も奔(はし)りて一龍に値す、清風に楽しみ有りて人を襲ひ来たらんか、庚子七月、露は夜自(よ)り、白々(はくはく)たり。鉄斎外史
・玄妙個展2021「古典漫遊〜文字の変遷をたどる〜中国編」
・玄妙個展2022「古典漫遊 中国書法から日本の書まで文字の変遷をたどる」
・玄妙個展2023「古典漫遊 中国書法から日本の書まで文字の変遷をたどる」
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