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黄土高原史話<49> 山西匈奴騎馬軍団by 谷口義介

 映画なるもの、テレビやビデオでもほとんど観ないが、前回の拙文を下読みした編集子、「『レッド・クリフ』の曹操役は貫録ある俳優が演じていた」と。
 メール添付で拙文を送ったしばらくあと、その郷里の安徽(あんき)省亳(はく)州で曹操の墓が見つかった、とのニュース(真偽のほどは定かならねど)。眠りを妨げられた曹操の祟(たた)りか、珍しく刷上がりに誤植多し。寿(じゅ)→陳寿(ちんじゅ)、『新語(しんご)』→『世説新語(せせつしんご)』、高句(こうく)→高句麗(こうくり) 、眼光麗(り)→眼光炯炯(けいけい)、と訂正されたし。
 内容的には、もう少し説明がいりましょう。匈奴にかつての勢威なく、だからその使者が本国に帰るのを曹操が拒む必要なし、という推定自体に誤りないが。はるか遡って紀元後48年、匈奴は南・北に分裂し、このうち南匈奴は後漢に服属。いまの内蒙古自治区から山西北部にかけて、遊牧しつつ漢族と雑居、人口は50万に達したが、後漢への従属化も進行する。黄巾の乱のとき、於扶羅(おふら)は騎馬軍団をひきいて出撃し、漢室を救援したことも。188年、内紛がおこって、美稷(内蒙古自治区准格爾旗)と平陽(山西臨汾)の両単于(ぜんう)(王)がケンカ別れ。後者の方は216年、曹操に投降し、単于の弟は都の鄴(ぎょう) に留め置かれ、その族衆は租税を負担、自立性をうしなって、弱体化していった。
 かくみれば、曹操が匈奴の使者を恐れる必然性はあまりない。
 しかし、このあと山西匈奴のあいだでは、統合・自立の動きが活発化。これに対し曹魏政権は、分割統治策をとり、その方針はつぎの西晋にもひきつがれた。図は、『晋書』が伝える匈奴の五部と魏・晋の要地(杉山正明『遊牧民から見た世界史』p.182)。一方、半農・半牧の生活のうちに、匈奴の定住化はすすみ、人口も100万を超えたという。
 しかるに、山西匈奴騎馬軍団は健在で、すぐれたリーダーを求めていたが、その人物こそ於扶羅の孫・劉淵(りゅうえん)にほかならず。生粋の匈奴王子でありながら、ほんらい漢籍に通じた文人肌。ところが武芸を身につけるや、衆に抜きん出る技倆となった。身長2メートルを超す雄偉な体躯、アゴヒゲは70センチあったとか。魏から晋へと、その才幹を畏怖されて、都で飼い殺しにされかけたが、父が他界したこともあり、ようやく山西への帰還が許される。かくして、虎は野に放たれた。匈奴にとっては、待望久しい統合の核の実現です。
 以後、劉淵はみごとな指導者ぶりを発揮する。「財を軽んじて施しを好む」大人(たいじん)ぶり。五部の鉄騎はいわずもがな、河北の名儒・秀士まで千里も遠からずとやってくる。大単于に推戴され、西晋における八王の乱にはキーパーソンとして存分の活躍。
 「今、司馬氏(晋王室)、骨肉あい残し、四海鼎沸す。邦を興し業を復するは、これその時なり」(『晋書』劉淵伝)
 304年、ついに自立して漢王となり、308年には皇帝たるを宣言した。匈奴による漢王朝の出現で、五胡十六国時代の幕が開(あ)く。即位2年後、惜しくも劉淵は死去するが、311年、匈奴の騎馬軍団は洛陽を陥(おと)し、西晋王朝は滅亡へ。
(緑の地球132号 2010年3月掲載)

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