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得ることと失うこと by 高見邦雄(GEN副代表)

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 私が大同の農村で感じたのは懐かしさでした。そして、農村のこどもたちにかつての自分を重ね合わせました。それが小学校付属果樹園の計画に結びついたりもするんですけど、今回はちょっと別の角度から。
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 1992年から3年つづけて、日本人としては私一人で、秋に2か月余り大同の農村を回りました。そんな話をすると、たいへんだったでしょう、苦労をされて、といった反応が返ってきます。
いまと違ってインターネットも携帯電話もないので、日本との連絡は困難ですし、食事も住まいもずーっと粗末でした。農家に泊めてもらって夜暗いなかを外のトイレに通い、ここにだけは落ちたくないと思ったことを忘れることはないでしょう。
 ほかの人には苦痛かもしれませんが、私は喜びも感じていました。
私は鳥取県の貧しい農家で生まれ育ちました。田畑が少なく、子供が多かったので、父親は農業のかたわら馬車引きをしていました。大山山麓の木を伐りだし、それを馬車に積んで貨物駅やトラックの入る広い道まで運び出すのが仕事です。父親っ子だった私は、それにくっついて山に行き、ときには1週間ほど草小屋で寝泊まりすることもあったのです。農家なので食べ物に困ることはなかったけど、学級費など学校にもっていくお金を母親が近所に借りに走っていました。
 大学に進学が決まり、1966年に東京にでました。高度成長まっ只中で、経済はどんどん膨らみ、ものがあふれていきました。
 いつもの道で、新しい建物ができればすぐにわかります。逆に空き地ができても、そこになにがあったか思いだすことはめったにありません。同じように、なにかを得ればそれは自覚しますけど、それと同時に失っているものに気づくことはないのです。
 私の次兄は戦後しばらくのころ、生後2週間で亡くなりました。乳幼児が生命を失うことが珍しくない時代でした。三男坊の私はそのおかげで大切に育てられたのです。よく発熱して引きつけを起こす私を父親が抱き抱え、隣村の医者まで走ったのです。「しっかりな、しっかりな」と呪文のように唱えながら。それが私の記憶の始まりのような気がします。
 その後、効果的な薬もできれば、医療も発達し、乳幼児が死ぬことは少なくなりました。それは得ること、得たことです。その反面、子育てに私の両親の世代ほど心血を注ぐことはなくなり、親子や家族の結びつきも薄まったように思えてなりません。それは失ったことでしょう。
 大同の農村にいくと、とくに貧しい農村にいくと、家族の結びつきの強さを感じます。地縁、血縁が濃厚にあります。それがなければ生きていけないのでしょう。私たちが失い、失ったことに気づくことのなかったものに、そこでであって、確かめることができるのが、私はうれしかったのです。
 14回のリピーターの石原務さんは「天鎮県に行くなら参加するけど、そうでなかったら行きません」と単純明快でした。天鎮県の多くの農村は大同のなかでもっとも貧しいんですけど、「そこの人間がいいから」というのが石原さんの理由でした。

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