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黄土高原史話<36>後漢時代の高柳県 by 谷口義介


 今夏予定していたワーキングツアーは、結局実現できず。GENで計画した日程だと、まだ前期末の試験中。自由に設定できる弊学単独のツアーは、04・06両年と実施したものの、今回は学生の応募者が少なく、中止のやむなきに。植林活動のあと、陽高県・天鎮県あたりの遺跡を探訪し、その知見を本稿に生かそうと目論んでいたのだが…。
 具体的には、<34>の古城堡漢墓群、<35>の代郡西部都尉の項をうけ、当該の地、つまり高柳県のその後の運命を述べようかと。やむをえず、文献にもとづき、多少推測もまじえつつ。
 まず、『漢書』五行志に、
 「景帝の中三年〔B.C.154〕秋、蝗(いなご)あり。これよりさき匈奴、辺を寇し、中尉〔魏(ぎ)〕不害(ふがい)、車騎材官の士を将(ひき)いて、代の高柳に屯す。」
 景帝初年、高柳には騎射の武卒が駐屯し、匈奴に対する砦をきずく。そのあと地理志にあるごとく、代郡西部都尉の治所となったわけ。
 古城堡漢墓群の存在は別として、前漢時代、高柳についての記録はこの二件のみ。
 ところが後漢に入ると、俄然その名は頻出する。
 ここに一人の漢人あり、名を盧芳(ろほう)という。武帝の曾孫(ひまご)と称するが、もとよりアヤシイ。王莽(おうもう)(B.C.45~A.D.23)簒奪の混乱に乗じ、匈奴の支援もとりつけて、五原郡九原県に独立し、朔方・雲中・定襄・雁門の諸郡を収め、それぞれ守令を任命する。
 「このとき盧芳、匈奴・烏桓(うがん)と兵を連ね、寇盗もっともしばしばなり。縁辺愁い苦しむ。」(『後漢書』王覇伝)
 かかる情勢下、成立まもない後漢では、A.D.30年、代郡太守の劉興が郡治の桑乾より出撃し、盧芳の部将賈覧(からん)を高柳に攻めるも、あえなく敗死。つまり代郡高柳は、このころ盧芳の勢力下にあったわけ。とんで33年には、大司馬の呉漢・捕虜将軍の王覇らが再攻撃をしかけるが、望み果たせず返り討ち。しかし翌年、呉漢・王覇ら、兵6万で賈覧を破り、高柳奪回に成功する。
 しかるに高柳攻防戦と並行して、後漢政府は33年、雁門の吏人を太原に移し、34年には定襄郡を省いてその民を移住させたほか、39年、雁門・代・上谷3郡の民6万を常山・居庸両関以東に移している。これすなわち、匈奴と盧芳の圧迫を受け、北辺諸郡の維持が不可能になったことを物語る。
 ところが『後漢書』馬援伝にいう。
「明年〔建武二十一年、A.D.45〕秋、〔馬〕援(ばえん)すなわち三千騎を将いて高柳を出で、雁門・代郡・上谷の障塞を行く。烏桓の候者、漢軍の至るを見て、虜ついに散去す。」
 すなわち高柳は、後漢北辺の基地として、孤塁をまもっていたわけだ。
 後漢にとっては幸いにも、匈奴は南・北に分裂し、盧芳も匈奴のなかに死す。これを機に南単于の投降を許し、内郡に移した漢人も故地に戻して住まわすが、かつてのごとき郡県統治にはほど遠く、一種の緩衝地帯ができたのみ。
 高柳に限っていうならば、それまでの桑乾に替って代郡の郡治に昇格する。
 しかし後漢のあと、鮮卑南下の激動の時代、いかなる運命が待ちうけていたか。
 いま地図に、高柳の名はありません。
(緑の地球117号 2009年7月掲載)
 

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