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黄土高原史話<35> 墓主は代郡西部都尉? by 谷口義介


 文学好きの通弊か否かは知らず、若い頃からどうにも制度史が苦手。歴史研究者としてのそんな欠陥を今更ながら実感したのは、本シリーズ〈1〉、特に前回を執筆中。具体的にいうと、前漢時代、平城(今の大同)は雁門郡東部都尉の、高柳県は代郡西部都尉の治所(政庁の所在地)だった、というあたり。そう書きながら、実は「東部都尉」「西部都尉」について、何の知識もあらばこそ。
 そこで今回、その筋の専家に教えを乞うた。
〈34〉を同封し、聞いた相手は秦漢時代の郡県制・分封制の権威たる紙屋正和福岡大学教授。15年ほど前、天神界隈で大酒を飲んだ縁もある。
以下、懇切なご教示を利用させていただこう。
 そもそも、漢代には「郡・国の二千石(にせんせき)」と称される地方官あり。主として民政をつかさどる太守と軍事にかかわる都尉のことで、機能上は両者による分割統治。しかし、都尉に軍事のすべてを委ねると、武力をバックに政治に介入する恐れあり。そこで政府は、都尉には兵士の訓練のみ、出兵権は太守に認め、出動したさいの指揮権も太守が握り、都尉は補佐に当るだけ。一郡には太守が1人、都尉が1人で、多くの場合郡内の別々の県に役所を有す。以上は、漢の領域の中央部を占める内郡のケース。
 これに対し、そのまわりの辺郡では、事情が若干異なります。漢の武帝は盛んに外征、西域・朝鮮・南方へと領土を拡大し、たくさん辺郡を設置する。しかして辺郡は外敵の侵攻にさらされて、臨機応変の措置が必要。また面積も広いため、一郡に一都尉では足りません。そこで広大な辺郡には、太守1人のほか複数の都尉を、それも太守のいる県(郡治)から離れた県に置きました。その県が郡内の東・西・南・北・中央のどこにあるかで、○○都尉と称したわけ。そして都尉には、軍事上の指揮権のほか、民政の権限も認めます。また太守の方も、兵士の訓練と管理も担当。つまり辺郡では事実上、太守と都尉に機能面の相違はなく、地域面からの分割統治がなされていた、と。
 西の朔方郡や東の楽浪郡、西南の蜀郡、南東の会稽郡などと同じく、山西省北部も辺郡です。斑固(32~92)の『漢書』地理志に、
定襄郡:武進県に西部都尉、武皋(ぶこう)県に中部都尉、
    武要県に東部都尉
   (成楽県は太守の郡治)
雁門郡:沃陽県に西部都尉、平城県に東部都尉
   (善無県は太守の郡治)
代郡:高柳県に西部都尉、馬城県に東部都尉、且如県に中部都尉
   (桑乾県は太守の郡治)
 の、それぞれ役所があった、と書いてある。
 前回紹介した古城堡漢墓群は、漢代では高柳県のエリア。
 その第12号墳は、直径26メートル、高さ4.2メートルのマウンド。地表下9メートルの墓壙(ぼこう)内に木槨(もっかく)。棺の中から男子の遺骸。「耿嬰(こうえい)」と刻んだ銅印をもつ。95センチの長剣も副葬。おそらく耿氏は、代郡の西部都尉をつとめた武官ではなかったか。
(緑の地球115号 2007年5月掲載)

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