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黄土高原史話<34>謊糧堆(ホワンリヤンドウイ)の正体は? by 谷口義介

 大同市の中心部から北東へ約50キロ。陽高県には、2000年夏のワーキングツアーで一度行ったことが。その北端、守口堡(しゅこうほ)村で長城に登れば、眼下はすぐに内蒙古。尾根上には点々と、はるか彼方まで烽火台。長城線を背に、途中白登河(はくとうが)を渡って東南へ数十キロ、前方に桑乾河*を望む手前に許家窰遺跡あり。10万年前、旧石器時代中期と推定され、本シリーズ<2>でふれたところです。
 これを少し戻ると、今回述べる古城堡(こじょうほ)漢墓群。その数、大・小あわせて100基ほど。大なるものは直径35メートル・高さ6メートル、小さいものだと直径5メートル・高さ2メートルばかり。底面は方形あるいは矩形に近く、がんらい方墳だったらしい。
 ただし、この土饅頭、地元で語り伝える楽しい故事によると。
「宋の太宗が北の蒙古(実は契丹)と戦争したときのこと。老臣楊継業(楊業)の第6子六郎は、一つの奇計を思いつく。土を盛って多数の小山を築き、それを兵糧の山と見せかけて、味方には充分な備えあることを敵に誇示、戦わずして撤退させた、と。ゆえにこれを「糧堆」(偽りの糧食の山)と言っている、云々。」
 やめときゃいいのに(!?)、この伝説の真実が明らかにされたのは、1942年、考古学者の発掘による。ちなみに、「発」には「あばく」の意味あり。
 初め第12・17号墳から取りかかり、ついで小さな第15号墳へ。3基とも、幸いなことに未盗掘。地表下10メートルも掘り下げて、ようやく木槨(もっかく)(木製の外棺(そとかん))が現われる。もちろん木槨の自然的破損は免れず、副葬品もほぼ圧し潰されてはいたけれど、比較的よく保存。遺物の種類も豊富で、多量。第12・15号墳からは、男女2体ずつの人骨も。
ポイントをまとめると、土器・銅器・漆器、いずれも漢代の特徴あり。7面出た銅鏡は精白鏡・連弧文鏡で、前漢の形式。五銖銭(ごしゅせん)のなかに穿上横文のものが混じるが、これは宣帝時代(B.C.73~49)の五銖。木棺や古墳の構造なども、漢墓の通制。
 つまり、これら3基の古墳は前1世紀代の漢墓とみて誤りない。
 また、この附近に豊富な漢式土器の包含層や散布をみる。あるいは漢の郡県の所在地か。候補としては、代郡高柳県。前漢時代には、代郡西部都尉の治所であり、その西隣り雁門郡平城県(現在の大同)と並び、北辺の要地だった。
 第12号墳からは「耿嬰(こうえい)」という印、第17号墳では漆器の上に「魯相(ろそう)」の文字。墓主はおそらく高柳県の役人たちで、原則として夫婦の棺を納めるから、家族を伴っての辺地での生活。ただし豪華な副葬品は、かなり高度な文化生活を送っていたことを窺わせる。
 60体余出土した木偶のなかに、左衽(さじん)の女性像1例あり。左衽とは左前に衣服を着ることで、いわゆる北方遊牧民の風習。つまり、役人の家の召使のなかに匈奴の出身者も含まれていたということか。
 武帝期を過ぎて宣帝の時代、漢と匈奴の関係は平穏なものとなっていたのでしょう。
*編集部注:桑乾河は桑干河に同じ。
(緑の地球114号2007年3月掲載)

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