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黄土高原史話<42>馬上、天下を争うべし by 谷口義介

 不人気ゼミゆえの対策で、数年間「三国志」をテーマにしたことが(「黄土高原の環境と歴史」などでは志望者僅少)。案の定、オタクの男子学生ばかりで、横山劇画とゲームソフトで育った口。決まって出るのが、「誰が一番強かったか」。
 個人的な勇力という点では、曹操のボディガードの典韋(てんい)と許褚(きょりょ)。劉備と「桃園結義」した関羽・張飛もメッチャ強いが、最強の武将は何といっても呂布(りょふ)(?~198)だろう。
 出身は并州(へいしゅう)五原郡九原県というから、今の内モンゴル自治区第二の都市包頭(パオトウ)のすぐ西隣り。陰山山脈と黄河にはさまれた地で、一帯は清朝以後漢人が入植して畑地化したが、このころは牧馬いななく緑の草原。呂布には匈奴の血が混じっていたかもしれません。それかあらぬか弓・馬にすぐれ、人称して「飛将」となす。名馬赤兎(せきと)にうちまたがり、颯爽と戦場を駆けるさま、時人語って「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」(注引く『曹瞞伝』)と。しかし、「驍猛なりと雖も、謀 (はかりごと)なくして猜忌(さいき)多く、その党を制御する能わず」というわけで、結局曹操に投降する。それでも、「殿が歩軍の指揮をとり、拙者に騎兵を率いさせたなら、天下平定もわけなきこと」と言ったのは、いかにも「飛将」呂布らしい。
 以上すべて正史『三国志』(晋・陳寿著)に依拠したが、呂布の死後、赤兎は曹操から関羽に贈られたとするのは、小説『三国演義』(明・羅貫中作)によるフィクション。 赤兎よりは格下ながら、劉備が乗った的盧(てきろ)も有名。ただしこれは陳寿の本文には見当たらず、『三国志』の注が引く『世語(せいご)』に出てくる。劉備追われて危機一髪、三丈も躍りあがって檀渓(だんけい)を跳び越えた、というのだが。
 馬がらみで面白いのは、「単馬会語」。「交馬語」ともいうが、対陣中、双方の大将が単独で出ていって、騎馬のままサシで会談すること。軍馬の産地、涼州隴西郡出身の老雄韓遂(かんつい)が二度している。一度目は、董卓(とうたく)なきあと後漢朝廷のナンバースリー樊稠(はんちゅう)と。二度目の相手は、曹操。「ここに於て交馬語して時を移すも、軍事には及ばず、ただ京都(みやこ)(洛陽)の旧故を説り、手を拊(う)って歓笑するのみ」。ときに曹操57歳、韓遂は70に近い。両軍対峙する緊迫の場面だ。それぞれの大将がむかし都にいたころの思い出話に興ずるなど、なんともいい情景ではないか。
 最後に、馬に関連した故事成語を一つ。「髀肉(ひにく)の嘆」がそれだが、『三国志』の本文ではなく、注の『九州春秋』に出る。荊州(けいしゅう)の劉表のもとで長らく無聊をかこっていた劉備、厠(かわや)から出てきてハラハラ涙を流す。劉表がいぶかって聞くと、
 「常に馬上にあったので髀(もも)の肉は落ちていたが、近頃は戦場に出ることがないから肉がついてきた」と言って、功名を立てる機会の得られぬことを嘆いた、と。ではなぜ馬に乗っていると髀の肉は落ちるのか。たぶんそれは、当時の乗馬具に鐙(あぶみ)(馬に乗ったときの足掛け)がなかったことと関係しよう。


 漢民族は匈奴から騎馬の術を学んだわけだが、匈奴にはもともと鐙などなく、そこで乗馬が不得手な漢民族が鐙を発明。ただしそれは4世紀代のことで、三国志の時代にはまだ無い。両足を支える鐙がない状態で馬を乗りこなすためには、両髀の力でしっかり馬の背をはさんでおく必要あり。そこで必然的に贅肉が取れ、筋肉質の髀になったのでは?
 (図は横山光輝『三国志』⑧147ページを利用させて頂いたが、呂布の右足に注意。鐙はまだ無いはずだから、時代考証的にはおかしい)。
(緑の地球124号 2008年11月)


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