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黄土高原史話<15>原点は心の中で懐くもの by 谷口義介

 十数年前、詩人・評論家の谷川雁氏と一夕、不知火町の料理旅館で飲んだおり、氏の著作『原点が存在する』が話題に。そもそも<原点>という言葉を書名で使ったのは氏が最初で、以後「何々の原点」という言い方が広まった由。『二十歳の原点』なるベストセラーもありましたね。
 ワタクシ的なことですが、中国史の原点といえば、黄土高原のほぼ真ん中、陘水(けいすい)の中流、陝西省北部の彬(ひん)県、以前は邠(ひん)と書かれました。もっと古くは豳(ひん)。
 『史記』周本紀によると、周族が興ったのがこの地で、のち岐山の麓に遷り、さらに渭水岸まで南下して豊邑・鎬京を造営、前11世紀半ば武王のとき殷(商)の紂王を伐って西周王朝を樹立。だから原点、というわけではありません。
 前9世紀ごろ西周時代の後期、『詩経』豳風(ひんぷう)七月の詩に、この地のことが歌われています。詩は7章構成、1章ごとに11句、すべて77句に及ぶ長編。
「三の日(旧暦1月)ゆきて耜(春耕)し、
 四の日趾(あし)を挙ぐ(足踏み作業をする)」(第一章)
「六月すなわち績(つむ)ぐ。
 すなわち玄(くろ)く、すなわち黄なり。
 わが朱はなはだ陽(あざや)か、公子の裳となさん」(第四章)
 悠久な蒼い空の下、野には耕やす農夫の影あり、家には紡ぐ娘たちあり。その他の詩句もあわせ、一年にわたる農村の生活を活写して生彩に富むもの、『詩経』三百篇中に比類なし。フランスの碩学マルセル・グラネーは、ヘシオドスの叙事詩『仕事と日々』になぞらえています。
 七月篇で歌われたの村は、そのまま中国の古代村落の典型。中国史の原点、と考える所以(ゆえん)です。
 清代中期の歴史家・崔東壁いわく。「七月を読むに、桃源の中に入るが如し。衣冠樸古、天真爛漫にして、太古に煕々(なごやか)たるかな」
 1996年の夏、宿願の豳の地へ。『詩経』によると、山々は豊かな森林におおわれ、山腹からの清流が泉をつくって、その縁辺には肥沃な耕地が広がっていたはずですが……。


 わずかに彬県大仏の裏山に鬱蒼たる樹林(写真)。このシリーズの<12>
で書いた黄陵県の黄帝陵は、ここから東北へ100キロほど。「黄色い大海に浮かぶ緑の巨艦」と形容しましたが、それと同じく人為的に手厚く保護されたからでしょう、古代以来の景観をほんの少しだけ窺わせてくれます。
(緑の地球93号(2003年9月発行)掲載分)


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