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黄土高原史話 by 谷口義介

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書き手:谷口義介(GEN会員) 研究分野は東アジア古代史・日中比較文化。寄る年波、海外のフィールドはきつくなり、いまは滋賀の田舎町で里山保全の活動。会報に「史話」100回のあと、…
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黄土高原史話<61>北の大地の百万都市(上)by 谷口義介

 いま大同の市中の人口は100 万と。では、北魏時代の大同つまり平城は? 「大規模かつ強制的な移民政策によって10 以上の民族が遠方からも集められ、平城の人口はまもなく100万人を突破し、中国最大の都市になったといわれる。」(GEN『中国黄土高原における緑化協力』2005 年、13 ページ)  戦国時代最大の斉の臨湽(山東省)の城内人口が35 万、華の都・唐の長安 が最盛期で100 万、南宋の臨安(杭州)が近郊も含め120 万、元朝が首都にした大都(北京)が100 万人。北魏

黄土高原史話<60>「中国化」がコンセプト by 谷口義介

 2001 年5 月に本誌79 号でスタートしたこのシリーズ、延々と続いて、今 回でなんと60 回。00 年夏のワーキング・ツアーのおり、もとの地球環境林 センターの敷地内で前漢時代の土器片を拾い、そのことを書いたのが第1 回目。当初は筆者も編集子も5 回程度、長くて10 回くらいと踏んでいたのだが。たまには反響もあって、休載のときには問合せもあるとか。図に乗って分量もだんだんふえてきて、第1 回に比べ今では毎回3 倍ほどに。スペースを割き取り、編集子を困らせている次第です。

黄土高原史話<59>石はどこへ行った by 谷口義介

 8月23日(火)の新聞テレビ欄をながめていて、京都テレビ、11:00、北魏馮太后(字幕)というのを遇目(ぐうもく)。したがって、前回<58>で「関西では京都テレビが放送したが」と書いたのは不正確、いまも継続放映中らしい。なお同拙文所掲の系図にある「憑」は「馮」の間違い。それはともかく、馮氏による夫=第5代献文帝の毒殺よりまえ、息子による父=初代道武帝殺し、のちの2代目明元帝による異母弟誅殺(ちゅうさつ)、さらに宦官(かんがん)による第3代太武帝と自ら擁立(ようりつ)した新帝

黄土高原史話<58>祖母一孫でなく母一子では?by 谷口義介

 前回「太后馮氏がお膳立て」を書いていて、これは歴史小説のネタになる と見立てたが、案の定、華流ドラマ「北魏馮太后」が2006 年に制作されていた由。ネットで検索すると、  中国版「善徳女王」!中国史上初の女性権力者“馮太后(ふうたいごう)”の波乱に満ちた生涯を描く、大スペクタクル歴史劇。  このキャッチコピーからも、日本で大モテした韓流ドラマの二番煎じが見 え見え。ちなみに「善徳女王」とは新羅最初の女王。また「中国史上初の 女性権力者」といえば、馮太后よりまえ、漢の高祖劉邦

黄土高原史話<57>太后馮氏がお膳立てby 谷口義介

 本シリーズ、「黄土高原史話」と銘打ちながら、なおしばし地域的・時間的に広がらず、北魏の大同から離れません。それというのも大同はGENの緑化協力の拠点にして、北魏の平城時代、中国の北半を支配した強盛国家の首都だったわけだから。 さて、前回は雲崗石窟の調査の経緯をたどったが、その前の<55>は北魏の第4代文成帝(452~465)。このときから、雲崗で石窟の造営が始まります。この大事業、5代献文帝(465~471)・6代孝文帝(471~499)と引き継がれるが、この三代はまさしく

黄土高原史話<56>雲崗石窟博物館 by 谷口義介

 今夏ワーキング・ツアーの最終日、雲崗石窟の説明は現地ガイドの某氏、いささか頼りない日本語だったとか。それもあって参観には前回拙文が役 立った、とツアー同行のGEN 事務所河本さんの話。久しく木を植えに行って はいませんが、このシリーズ、本誌の埋め草くらいにはなっているかも?  今回の準備とて、李凭(りひょう)著『北魏平城時代』(社会科学文献出版社、2000 年)など披見のおりしも、『朝日』紙10 月26 日の文化欄に記事あり、「世界遺産に歴史の影」「中国・雲岡石窟 周辺に博

黄土高原史話<55>皇帝様は生き仏 by 谷口義介

 このところ若い人のツアー参加が少ないそうですが、今夏は高校生1名・大学生4名とか。必ずや貴重な体験となるでしょう。最終日には、たぶん雲 崗石窟の見学も。  さて、その雲崗石窟。  大同の市街から西へ15 キロほど、武州河北岸の武州山南麓断崖に、東西1 キロにわたり穿(うが)たれた石窟寺院で、東側に1 ~ 4 窟、中央に5 ~ 13 窟、西側の東半に14 ~ 20 窟、西半に21 ~ 53 窟。ほかに多くの小窟もありますが、最初に開かれたのは16 ~ 20 窟。北魏の第4 代

黄土高原史話<54>血で血を洗うドロドロの by 谷口義介

 今回より肩書が変わったが、文章は中身と表現力で読ますもの。とは言い状、キレもコクもなきこと、諸兄姉すでにご明察のとおりです。  さて、北魏の三代目は、道武帝・明元帝をついだ拓跋燾(たくばつとう)太武帝(在位423~452)。明元帝の長子として408 年に生まれたが、まだ在世中の偉大な祖父は、「体貌瓌異」なこの孫を見て、「奇としてこれを悦(よろこ)び」、「わが業を成す者は必ずやこの子なり」(『魏書』世祖紀)と言ったとか。  本シリーズ< 52 >、雲崗(うんこう)石窟中で最大

黄土高原史話<53>父帝暗殺の後をうけby 谷口義介

 今春のワーキング・ツアーは、参加申し込みの出足が悪いとか。そんなわけで筆者にも、「久しぶりに、いかが?」と声がかかったが、3 月末をもって定年退職、ヒマができると思いきや、2つの大学で非勤。新学期早々に休講はまずい。おりしも本シリーズの正念場、北魏時代の大同の遺跡をめぐってみたいところだが。特に陵墓はまだ見てないし。  さて、北魏の初代道武帝は即位まえの398 年、それまであった新平城に本拠を移し、大規模な都づくりに着手する。プラン的には三つの区域よりなっていて、まず北側

黄土高原史話<52>北魏の初代道武帝 by 谷口義介

 GEN の黄土高原ツアーで緑化の作業とセットになっているのが、大同雲崗石窟の見学。いかに世界遺産とはいえ、リピーターには「毎度おなじみの」では、いささかもって…。  それはともかく、平城(大同)を北魏の都とした拓跋珪(たくばつけい)道武帝は、歴史に残る名君の一人。ただ彼の行なった大改革は、祖父什翼犍(じゅうよくけん)の施策をモデルに、その方向を徹底したところにあった、かと。  その第一は根拠地づくり。前回述べたごとく、什翼犍は338 年、漢の成楽故城の南8 里に壮大な規模の

黄土高原史話<51>興安嶺からやって来た by 谷口義介

 大同(平城)が最も栄えたのは、北魏(386~534)がここを首都とした約100年間のこと。  しかし、北魏大同は一日にして成らず。退屈でしょうが、今回はその前史ということで。  そもそも北魏とは、いわゆる五胡(ごこ)のうち鮮卑(せんぴ)の拓跋(たくばつ)部が建てた王朝ですが、鮮卑の原郷はモンゴル高原の東を限る大興安嶺(だいこうあんれい)の北部。1980年、内モンゴル自治区オロチョン族自治州の或る洞窟遺跡の調査で確認されました。興安嶺は古く大鮮卑山と呼ばれていたところから、そ

黄土高原史話<50> 旧大同市博物館 by 谷口義介

 毎年春・夏のワーキングツアーでは、だいたい最終日に雲崗石窟に行くのが定番。世界遺産に登録される以前を含め、私も6回ほど見学したことが。今春で17回目参加の石田和久氏、雲崗の方はもうウンザリと、このほど大同市博物館の参観を希望。もともと華厳寺内にあったのだが、市区の再開発にともなって、同寺外側の建物に移転したという次第。ところが今次ツアーは4月上旬に設定のため、清明節(中国の墓参り)と重なって、当日は休館。歴史好きの石田老、さぞガッカリされたことでしょう。  旧博物館の方は、

黄土高原史話<48>匈奴の使者は見破った by 谷口義介

  宮城谷昌光氏の『三国志』は単行本でいま第七巻目。劉備が蜀に入って、ようやく魏・呉・蜀鼎立(ていりつ)の形勢ができあがり、いよいよ佳境を迎えます。  そもそも三国志にはジャンルの異なる二種類あり。一は西晋の寿(じゅ)(233~297)によるレッキとした歴史書『三国志』、他はこれにもとづき明末・羅貫中(らかんちゅう)が小説化した『三国(志)演義』(16世紀)。後者は唐代後半(9世紀)からあった講談・戯曲の流れをうけて、グッと蜀びいきに舵(かじ)を切るが、その翻訳が元禄年間(1

黄土高原史話<47>寒い冬がやってきた by 谷口義介

 私事ながら、筆者が住んでいるのは滋賀県北部、琵琶湖と伊吹山に挟まれた地方都市。30年ほどまえ一戸を構えたが、文字どおり一階建ての陋屋(ろうおく)です。経済的事情もさることながら、生来の高所恐怖症とて、二階家だと屋根からの雪下ろしが恐ろしい。多い年には、優に1メートルを越すことも。視界が限られ恐怖感が薄らぐので夜に雪下ろしをするわけだが、平屋でも軒先近くでは脚がすくんだ。ところが、ここ25年ほどは、降った年でも約30センチ。家のまえの道路の除雪も、ずいぶん楽になりました。