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黄土高原史話 by 谷口義介

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書き手:谷口義介(GEN会員) 研究分野は東アジア古代史・日中比較文化。寄る年波、海外のフィールドはきつくなり、いまは滋賀の田舎町で里山保全の活動。会報に「史話」100回のあと、…
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黄土高原史話<53>父帝暗殺の後をうけby 谷口義介

 今春のワーキング・ツアーは、参加申し込みの出足が悪いとか。そんなわけで筆者にも、「久しぶりに、いかが?」と声がかかったが、3 月末をもって定年退職、ヒマができると思いきや、2つの大学で非勤。新学期早々に休講はまずい。おりしも本シリーズの正念場、北魏時代の大同の遺跡をめぐってみたいところだが。特に陵墓はまだ見てないし。  さて、北魏の初代道武帝は即位まえの398 年、それまであった新平城に本拠を移し、大規模な都づくりに着手する。プラン的には三つの区域よりなっていて、まず北側

黄土高原史話<52>北魏の初代道武帝 by 谷口義介

 GEN の黄土高原ツアーで緑化の作業とセットになっているのが、大同雲崗石窟の見学。いかに世界遺産とはいえ、リピーターには「毎度おなじみの」では、いささかもって…。  それはともかく、平城(大同)を北魏の都とした拓跋珪(たくばつけい)道武帝は、歴史に残る名君の一人。ただ彼の行なった大改革は、祖父什翼犍(じゅうよくけん)の施策をモデルに、その方向を徹底したところにあった、かと。  その第一は根拠地づくり。前回述べたごとく、什翼犍は338 年、漢の成楽故城の南8 里に壮大な規模の

黄土高原史話<51>興安嶺からやって来た by 谷口義介

 大同(平城)が最も栄えたのは、北魏(386~534)がここを首都とした約100年間のこと。  しかし、北魏大同は一日にして成らず。退屈でしょうが、今回はその前史ということで。  そもそも北魏とは、いわゆる五胡(ごこ)のうち鮮卑(せんぴ)の拓跋(たくばつ)部が建てた王朝ですが、鮮卑の原郷はモンゴル高原の東を限る大興安嶺(だいこうあんれい)の北部。1980年、内モンゴル自治区オロチョン族自治州の或る洞窟遺跡の調査で確認されました。興安嶺は古く大鮮卑山と呼ばれていたところから、そ

黄土高原史話<50> 旧大同市博物館 by 谷口義介

 毎年春・夏のワーキングツアーでは、だいたい最終日に雲崗石窟に行くのが定番。世界遺産に登録される以前を含め、私も6回ほど見学したことが。今春で17回目参加の石田和久氏、雲崗の方はもうウンザリと、このほど大同市博物館の参観を希望。もともと華厳寺内にあったのだが、市区の再開発にともなって、同寺外側の建物に移転したという次第。ところが今次ツアーは4月上旬に設定のため、清明節(中国の墓参り)と重なって、当日は休館。歴史好きの石田老、さぞガッカリされたことでしょう。  旧博物館の方は、

黄土高原史話<48>匈奴の使者は見破った by 谷口義介

 宮城谷昌光氏の『三国志』は単行本でいま第七巻目。劉備が蜀に入って、ようやく魏・呉・蜀鼎立(ていりつ)の形勢ができあがり、いよいよ佳境を迎えます。  そもそも三国志にはジャンルの異なる二種類あり。一は西晋の寿(じゅ)(233~297)によるレッキとした歴史書『三国志』、他はこれにもとづき明末・羅貫中(らかんちゅう)が小説化した『三国(志)演義』(16世紀)。後者は唐代後半(9世紀)からあった講談・戯曲の流れをうけて、グッと蜀びいきに舵(かじ)を切るが、その翻訳が元禄年間(1

黄土高原史話<47>寒い冬がやってきた by 谷口義介

 私事ながら、筆者が住んでいるのは滋賀県北部、琵琶湖と伊吹山に挟まれた地方都市。30年ほどまえ一戸を構えたが、文字どおり一階建ての陋屋(ろうおく)です。経済的事情もさることながら、生来の高所恐怖症とて、二階家だと屋根からの雪下ろしが恐ろしい。多い年には、優に1メートルを越すことも。視界が限られ恐怖感が薄らぐので夜に雪下ろしをするわけだが、平屋でも軒先近くでは脚がすくんだ。ところが、ここ25年ほどは、降った年でも約30センチ。家のまえの道路の除雪も、ずいぶん楽になりました。  

黄土高原史話<46>緑化のしすぎが断流のもと? by 谷口義介

 中華の民にとって黄河はまさしく母なる河。だから、ふだん黄色いこの河が澄んだといっては、大騒ぎ。08年、壺口瀑布の上流で河清現象が見られたとき、凶事が起る前触れか、あるいは聖人出現の予兆かと、古典を引きつつ、ネット上で喧(かまびす)し。まして、黄河の流れが絶えでもしたら、国家的な大問題。ところが、1972年、史上初めて起ってから、下流まで水の届かない断流が続発、97年にはピークに達し、330日間も水が涸れた。これは由々(ゆゆ)しき大事だと、2000年、政府は所管の部署に命令し

黄土高原史話<45>「河清」はやはり植林で by 谷口義介

 人あり、王星光・彭勇「歴史時期的“黄河清”現象初探」(『史学月刊』2002年第9期)と、汪前進「黄河河水変清年表」(『広西民族学院学報(自然科学版)』第12巻第2期、2006年5月)を送ってくれました。これをベースに数え直すと、「河清」なる現象、後漢の桓帝延熹八年(165)から昨2008年までの1843年間に111回、つまり約17年に1回の割合で起っている。したがって前回、「約32年に1回」と書いたのは、お詫びのうえ訂正ということに。  2論文が引く資料によると、「河清」は

黄土高原史話<44>「千年、河清を俟(ま)」たなくても by 谷口義介

 少しだけ前回に溯(さかのぼ)ると。  「黄河の水が澄むことなどありえない」という通念は、「黄河」という名が出てくる以前、単に「河」と呼ばれていた春秋時代、すでに定着。だから、それを待つのは無駄なこと、の譬(たと)えとして用いられていたわけ。前漢の初めに「黄河」という名が初出。後漢に入って張衡(78~139)という科学者・詩人も、「河の清(す)めるを俟つも未だ期(あ)はず」(帰田賦))と歌っている。  ところが、彼の死後20年ばかりたった桓帝の延熹八年(165)、 「夏四月、

黄土高原史話<43>延熹八年、河水清(す)む by 谷口義介

黄河は世界一の泥川で、水1トン当り40キログラムのシルト(細砂と粘土の中間的な粗さの土粒子、粒径0.074~0.005ミリ)を含む。コロラド川の約2倍、ミシシッピ川の70倍。黄河のシルトの出どころは、その90%が黄土高原。むき出しの大地に降る雨が地表を削り、たまにある豪雨は激流となって土壌を押し流す。  土砂が堆積した「三門峡ダムの失敗に学んだ中国の支配者たちは、黄土高原の浸食を食い止め、黄河を“清い流れ”にすることを夢見るようになった」。  そこで大々的に展開されたのが

黄土高原史話<42>馬上、天下を争うべし by 谷口義介

 不人気ゼミゆえの対策で、数年間「三国志」をテーマにしたことが(「黄土高原の環境と歴史」などでは志望者僅少)。案の定、オタクの男子学生ばかりで、横山劇画とゲームソフトで育った口。決まって出るのが、「誰が一番強かったか」。  個人的な勇力という点では、曹操のボディガードの典韋(てんい)と許褚(きょりょ)。劉備と「桃園結義」した関羽・張飛もメッチャ強いが、最強の武将は何といっても呂布(りょふ)(?~198)だろう。  出身は并州(へいしゅう)五原郡九原県というから、今の内モンゴル

黄土高原史話<41>高柳県のその後はいかに by 谷口義介

 今回は編集の都合で締切りが早く、この項執筆中、北京奥林匹克運動会たけなわ。  思えばちょうど4年前のアテネ・オリンピック。 「スパートする野口みずき、歩道脇に坐りこみ手で顔をおおって泣くポーラ・ラドクリフ」。  もちろんこの文、まくら(入話)に使っただけ。<21>「東西ほぼ時を同じくして」の本題(正話)は、B.C.428年の第88回オリュンピア祭ごろのアッティカ地方の森林破壊と、ほぼ同時期の「牛山の木」の話。前者はプラトン『クリティアス』、後者は『孟子』告子(上)による。

黄土高原史話<40>都はどこに置くべきか by 谷口義介

 本誌『緑の地球』は公称つまりサバを読んで1700部発行と。このうち80部ほど中国へ送付の由。そういえば何年かまえ大同で、「『史話』、読んでますよ」と言われたことが。  ダラダラ続いて本シリーズ、数回まえから後漢時代に入ったが、中国では前漢・後漢とは言わず、西漢・東漢と。それぞれの都が、西の長安(陝西省西安市)と東の洛陽(河南省)にあったことによる。それよりはるか昔、今の西安市西郊の鎬京(こうけい)から現洛陽市内の洛邑(らくゆう)へと都を遷した周王朝も、西周・東周と呼ばれます

黄土高原史話<39>一字に込めし想いは深く by 谷口義介

 旧臘(きゅうろう)、本誌編集子から1月発行号への原稿依頼(督促?)あり、ついでに「このシリーズ、あとどのくらい続きますか」と。ボランティア執筆の気楽さもあって、長期連載も苦にならず。そのうえ、10万年前の旧石器時代から始まって、最近ようやく紀元後の後漢時代に入ったところ。次第に専門から遠ざかるが、この先、軽く50回は超えるのでは。  しかし、「文章は中身で読ませる」という意気込みとは裏腹に、読んで下さるのはたぶん少数の知人のみ? ところが前回、初めて外部からの反響が。 下に