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黄土高原史話<51>興安嶺からやって来た by 谷口義介

 大同(平城)が最も栄えたのは、北魏(386~534)がここを首都とした約100年間のこと。
 しかし、北魏大同は一日にして成らず。退屈でしょうが、今回はその前史ということで。
 そもそも北魏とは、いわゆる五胡(ごこ)のうち鮮卑(せんぴ)の拓跋(たくばつ)部が建てた王朝ですが、鮮卑の原郷はモンゴル高原の東を限る大興安嶺(だいこうあんれい)の北部。1980年、内モンゴル自治区オロチョン族自治州の或る洞窟遺跡の調査で確認されました。興安嶺は古く大鮮卑山と呼ばれていたところから、その名が出たという。モンゴル系ともトルコ系ともいわれるが、いま人種上の立証ができるわけでなし、言語上でもモンゴル語が明確化されるモンゴル時代以前、両語間にはっきり線は引けないとか。いずれにせよ、森林~草原を原住地とする狩猟・牧畜の民で、この点、大草原を騎馬遊牧していた匈奴とは、生産・生活の形態が違う。
 前漢の初めごろまで匈奴のイジメを受けていたが、後漢初期、匈奴が南・北に分かれた間隙をつき勢力を伸ばす。2世紀中ごろ、檀石槐(だんせっかい)という英雄が現れて、鮮卑諸部を統合し、匈奴全盛期の故地を手に入れる。177年、後漢は破鮮卑中郎将田晏(でんあん)らに下命して、雁門(がんもん)を出て鮮卑の討伐に向かわせるが、あえなく大敗、帰還の兵馬は10に1と。  
 檀石槐の死後、鮮卑の諸部は離反してその勢力を減ずるが、三国のころ、軻比能(かひのう)が現れて、長城一帯で存分の活躍。しかしこの英傑は魏(曹操(そうそう)の建てた魏)の暗殺者の手にかかり、鮮卑はまたも分散・弱体化。  
 晋が衰退に向かう3世紀後半、鮮卑諸族は南下を開始。そのなかで東方の慕容(ぼよう)部と西方の拓跋部が有力で、前者は早く河北に進出、前燕(ぜんえん)・後燕(こうえん)を樹立した。
 一方、拓跋部は多年にわたる移動ののち、長城地帯にやって来る。3世紀中ごろ、力微(りきび)という優れたリーダーが現れて、盛楽(せいらく)の地に移り、数万家をもつ部族連合国家を形成する。盛楽は今の内モンゴル自治区ホリンゴール県、漢代の定 襄(ていじょう)郡成楽(せいらく)県に当ります。
 力微の後は末子禄官(ろくかん)が継ぎますが、そのさい領地を分けて東・中・西の三部とし、自身は東部を抑えたうえ、兄の長男を中部に、兄の次男猗盧(いろ)を西部に置いて盛楽に住まわせた。東部の中心はおそらく漢以来の平城で、禄官はここを盛楽より重視したのでしょう。
 ところが、禄官などがあいついで没すると、猗盧が三部を統一し、盛楽を北都、平城を南都に定めたうえ、後者についてはその南100里に新平城(しんへいじょう)を築かせた。315年、猗盧は晋より代(だい)王に封じられたが、翌年、南都をまもる長男六脩(ろくしゅう)との争いで戦死。これ以後二十余年の間、血で血を洗う骨肉の争い、盛楽の北部派と平城の南部派が対立し、拓跋部は分裂状態に陥(おちい)ります。
 338年、猗盧の弟の孫・什翼犍(じゅうよくけん)が王位につくや、代の国制を改めて、その政治も安定に向かう。また盛楽を正式に国都とし、漢の成楽故城の南8里に盛楽新城を築きます。1960年の発掘で、東西1550×南北2250メートルの輪郭が明らかに。  


 386年、その孫の拓跋珪(たくばつけい)が代王となり、同年、国号を魏に改める。ちなみに後世、これを北魏(後魏)と呼ぶのは、三国の魏(曹魏)と区別するためだ。
 398年、拓跋珪は都を平城に遷し、帝位につく。これがいわゆる北魏の初代・太祖道武(どうぶ)帝。
(緑の地球135号 2010年9月掲載)


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