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やりがいや善意に依存した仕組みは脆い

教師のなり手が不足しているとのニュースを見た。

さらに、民生委員のなり手が不足しているとのニュースを連想した。民生委員とは、生活保護家庭や要介護者、貧困家庭の子どもといった社会的に支援が必要な人々を支える仕事である。

教師や民生委員は、どちらも社会的意義(≒やりがい)のある仕事だが、待遇が悪いという共通点がある。教師は給特法という法律があるために残業代が支払われず、民生委員は基本的に無給で、ほぼボランティアだ。

やりがいや善意に基づく仕事は、それが個人の自発的に生まれたモチベーションに基づくならば問題ないし、なんなら美談になり得るとも思っている。

しかし、組織や制度のレベルでやりがいや善意に基づく仕事が強いられる場合、その組織や制度は維持が難しい。よほどのやりがいを見い出せない限りは、個人が割を食うことになるからだ。割を食った人たちは「やってられるか」とその仕事を辞めるか、または最初からその仕事に就かなくなるだろう。

教師に関して言えば「残業代は出ませんが、とてもやりがいのある仕事ですよ!」と呼びかけても、もはや人を集める効果は薄いだろう。この低成長な現代日本で、働き方改革の考え方が普及しつつある人々に響くとは思えない。

必要なのは、やりがいや善意に依存しない制度設計を行うことだ。予算の事情で、仕事に見合う待遇を用意できない(報酬は「やりがい」しかない、個人の善意に期待せざるを得ない)状態を脱却できない制度や組織は、最初から破綻しているのだと思う。


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