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ラーザ・ラザーレヴィチ『ドイツの歌姫 他五篇』訳者解説(text by 栗原成郎)

2023年10月24日、幻戯書房は海外古典文学の翻訳シリーズ「ルリユール叢書」の第35回配本として、ラーザ・ラザーレヴィチ『ドイツの歌姫 他五篇』を刊行いたします。ラーザ・ラザーレヴィチ(Лаза К. Лазаревић[Laza K. Lazarević] 1851–91)はセルビアの医師、作家です。ベオグラード大学法学部を卒業したラザーレヴィチは、国費留学生としてベルリン大学医学部に留学します。帰国後は医師として働き、新興国家セルビアの医学の発達に多大の貢献をしたのですが、医療に従事するかたわら、中短編小説を書きました。ラザーレヴィチは、古代的な家父長制大家族共同体の社会構造をもつセルビアの農村を舞台に、そこに生きる民衆の生活を温かい目で描写するのを特徴とし、19世紀セルビアにおけるリアリズム文学を確立した作家として知られます。本書の邦題となっている作品『ドイツの歌姫』を読んだとき、作品のヒロインと森鷗外『舞姫』のヒロインのイメージが重なった、と、訳者・栗原成郎さんは言います。
以下に公開するのは、訳者・栗原成郎さんによる「訳者解説」の一節です。



ラーザ・ラーザレヴィチ(1851‐91)の人と文学



 ラーザ・ラザーレヴィチ Laza K. Lazarević(Лаза К. Лазаревић)は1851年5月13日(旧暦5月1日)セルビア北部の町シャバッツ Šabacで生まれた。父クズマンKuzmanの先祖はヘルツェゴヴィナの出身でその父の代にシャバッツに移住した。クズマンは弟ミハイロ Mihailoと商店を共同経営していた。母イェルカJelkaはシャバッツの金銀細工師の娘であったが、幼くして孤児となり、15歳の時に15歳年上のクズマンと結婚した。ラーザが9歳の時に父が急死し、その1年後に叔父ミハイロが死去した。ラザーレヴィチ家は精神的・経済的に困難に陥った。母はラーザをはじめ二人の姉エヴィツァ Evica(1842年生)、ミルカ Milksa(1844年生)、一人の妹カティツァ Katica(1857年生)の四人の子どもを育てねばならず、その責任は重かった。母イェルカは優しく善良な婦人で家庭の和合を何よりも大切にし、長男のラーザの心に家族愛の精神をはぐくんだ。その母の影響により長男で男一人のラーザは幼くして一家の大黒柱となるべきことを自覚して家族を大切にし、家庭の秩序を尊重した。

 ラーザはシャバッツで小学校を卒業(1861年)、ギムナジウムの尋常科四年課程を修了した(1865年)のちベオグラードでギムナジウムの高等科を卒業した(1867年)。1867年秋、ベオグラード大学法学部に入学、社会改革運動の活動家となり、学生同盟「兄弟団 Pobratimstvo」の創設に参画した。セルビアの唯物論哲学者・社会主義者スヴェトザル・マルコヴィチの影響を受け、ロシア語ロシア文学の学習に意欲を燃やし、チェルヌィシェーフスキイ、ピーサレフ、ドブロリューボフの作品を読んだ。

 1871年1月15日、法学部卒業を前にして医学を学ぶためフランスの大学への国費留学生に選ばれたが、学生たちがある教授の授業をボイコットするストライキ事件が起こり、政府が別の教授の授業を再履修するように学生に要求したが、ラーザは、その要求に応じなかったために留学が取り消された。ラーザはその後、法学部を卒業して一時、文部省の職員になった。一年後の1872年の初頭、医学研究の海外留学の奨学金を得てベルリン大学へ留学した。

 ベルリン留学中、ラザーレヴィチはセルビアの戦争に巻き込まれて2年間学業を中断せざるを得なくなった。最初は第一次セルビア・トルコ戦争(1876年)に出征しドリナ地方の野戦病院の救急隊員として、次に第二次セルビア・トルコ戦争(1877年)の際にはドリナ軍団の病院付き医官に任命された。

 戦後、ベルリン大学に復学して1879年3月「水銀の毒作用に関する動物実験に基づく寄与と題する論文を提出し認定され、正式な医師免許を取得してフリードリッヒ・ヴィルヘルム名称ベルリン大学医学部を卒業した。

 ベルリン留学中にラザーレヴィチは下宿先の女主人の娘でのちにオペラ歌手となるアナ・グゥトヤル Ana Gutjarに対して恋心を抱いた。この女性は小説『ドイツの歌姫』のヒロインのモデルとなる。

 1879年春、ラザーレヴィチはヨーロッパにおいて最も権威のあるベルリン大学医学部を卒業したが、愛国心に富む彼は、ドイツにはとどまらず、戦争により荒廃した祖国に帰ることを決意した。内閣官房の決議によりラザーレヴィチはベオグラード地区の医師に任命された。1879年8月1日彼は自分の決意を表明した。
 

私、ベオグラード地区医師ラーザ・ラザーレヴィチは、全能の神に誓って、国王陛下とセルビア国民のために献身し、自分の義務をまっとうし、自分の医学の知識を誠実に、適切に行使することを誓います。


 1881年にはベオグラード国立総合病院の内科医長に任命された。ラザーレヴィチは、老人医療の先駆者でもあり、13のベッドをもつ老人病院を開設した。同年、友人コスタ・フリスティチKosta Hristić(1852‐1927)の妹ポレクシヤ・フリスティチ Poleksija Hristićと結婚した。夫妻は三人の息子ミロラド Milorad、クズマン Kuzman、ヴラダン Vladanと一人の娘アンヂェリカAnđelikaを設けたが、不幸にして二人の息子クズマン(1歳で死)、ヴラダン(2歳で死)を結核性の脳髄膜炎で亡くした。

 1888年にはセルビア王国科学アカデミーの会員に選ばれた。1889年国王ミラン・オブレノヴィチの侍医に任命され、病院勤務を離れないという条件で承諾した。

 1891年1月10日(旧暦1890年12月29日)肺結核により死去した。享年39。ラザーレヴィチの友人で義弟のフリスティチ Lj. N. Hristićはラザーレヴィチの臨終に立ち会った。その時の様子を兄への手紙の中で記している。

 「彼は白目をむいていてその顔はの表情を示していたが、そのあともう一度目をしっかり開けて、自分の置かれている状況を把握したらしく微笑み、世を去った……」その微笑は彼の無私無欲の生涯、献身を意味しているように思えた、と言う。

 医師ラザーレヴィチは誠実で高邁な精神、清廉な倫理観の持ち主だった。病院勤務の時にも個人的な医療に従事した折にも、貧しい人々を無料で治療した。おそらくベルリン留学中彼自身きわめて貧しく苦学した経験があるためであろう、貧しい人々に対しては特別に親切であった。ラザーレヴィチの友人で同僚であった医師ヴラダン・ヂョルヂェヴィチ Dr. Vladan Đorđević(1844‐1930)は、ラザーレヴィチの患者の一人であった、ある婦人に対して示したラザーレヴィチの医療態度について述べている。
 

彼は、寡婦で教師であったその婦人を親身で世話した。文部大臣にかけあって、その病気の女教師を学校が閉鎖されそうになっていた村へ移動させるように取り計らった。それにより病身の婦人とその子どもたちを飢餓から救済した。彼自身病弱であったにもかかわらず、週に二度婦人を訪問し治療に当たった。訪問治療は一年続いた。その婦人が死亡したとき、彼は、持ち合わせていた金のすべてを孤児たちの後見人に託した。 (雑誌「祖国」1891年27号)


 1885年秋ラザーレヴィチはセルビア・ブルガリア戦に参加し、国王ミラン・オブレノヴィチによって医療隊の長官に任命された。彼の親友ヴラダン・ヂョルヂェヴィチ医師は、セルビア南東部のブルガリアとの国境スリヴニツァ Slivnicaの戦いの初日にツァリブロド(現在のディミトロヴグラード Dimitrovgrad)の病院でラザーレヴィチに会った時のことを書いている。
 

〔…〕病室は負傷者であふれていた。彼らは包帯に包まれ、濡れた病衣を着て、各病室に床の上にくっつき合って置かれたベッドに横たわっていた。〔…〕私はラーザ先生のあとに従った。彼はシャツの袖を肘までたくし上げて血に染まったエプロン姿で私が宿泊することになっていた部屋へ案内した。そしてすぐに自分の仕事場へ戻っていった〔…〕悲しく不幸だった。


 負傷兵が殺到する状況を見て、政治力のあるヂョルヂェヴィチ医師は、1885年11月にラザーレヴィチをニシュ Nišの陸軍病院へ派遣させた。進行性の肺結核のため著しく健康を害しているにもかかわらず、高潔で献身的な医師ラザーレヴィチはその陸軍病院の改革に努めた。彼は1200名の負傷兵のためのベッドを増やし、直面する困難な状況を改善した。その戦時中の功績により「聖サヴァ勲章」及び「白鷲勲章」を授与された。

 医師ラザーレヴィチにとって文学は余技にすぎなかったが、医師としての激務のかたわら10年間で9篇の完成した中短編小説と未完の8篇の作品を書いた。作家としては寡作ではあったが、ラザーレヴィチの文学的才能は同時代の作家たちの中で群を抜いていた。19世紀の70〜80年代はセルビア文学の主流はリアリズムであった。彼らはロシア文学及びフランス文学のリアリズムの影響下にあった。そのうちロシア文学とセルビアの社会主義者スヴェトザル・マルコヴィチの影響を特に強く受けた作家には、ミロヴァン・グリシッチ Milovan Glišić(1847‐ 1908)、スヴェトリク・ランコヴィチ Svetolik Ranković(1863‐ 99)、ヤンコ・ヴェセリノヴィチ Janko Vesellinoviċ(1886‐ 1905)がいる。

 グリシッチはその『短篇集 Pripovetke』においてセルビアの村の家父長制社会から官僚政治・資本主義への移行過程において村人の信仰・迷信・苦悩・新勢力への抵抗を巧妙に描き出した。ランコヴィチはオブレノヴィチ朝最後期の資本主義経済と高利貸し業によって圧迫されたセルビア社会の状況を『村の女教師 Seoska učiteljica』(1898)などの作品において生き生きと描いた。ヴェセリノヴィチは『村の女 Seljanka』(1893)において金融資本に支配されて貧困にあえぎながらも内的な平和を保っている農村に生きた典型的な農婦の一生を明るく描いた。

 ラザーレヴィチは、これらのリアリズムの作家たちと同様に、その短編小説において同時代の社会・経済問題を対象として扱ったが、セルビア社会の経済的格差と伝統的国民文化に潜む危険性と格闘しているとは言え、ラザーレヴィチのリアリズムは民衆に対するおおらかな共感と深い洞察によって表現に抑制が効いていた。

【目次】

  父と一緒に初めて教会へ

  庶民からのご褒美

  折よく強盗団がやって来た

  井戸辺にて

  学校の聖像(イコン)

  ドイツの歌姫

   註
   ラーザ・ラザーレヴィチ[1851–91]年譜
   訳者解題

【訳者略歴】
栗原成郎(くりはら・しげお)
1934年、東京生まれ。東京教育大学大学院文学研究科修士課程修了。東京大学名誉教授。博士(文学)。専攻はスラヴ文献学・スラヴ言語文化論。 著書に『スラヴ吸血鬼伝説考』(河出書房新社)、『ロシア民俗夜話』(丸善)、『ロシア異界幻想』(岩波書店)など。訳書にアンドリッチ『宰相の象の物語』(松籟社)、『呪われた中庭』(恒文社)、ブルリッチ゠マジュラニッチ『昔々の昔から』、ポゴレーリスキイ『分身』(群像社)など。


 最後までお読みいただき、ありがとうございました。本篇はぜひ、ラーザ・ラザーレヴィチ『ドイツの歌姫 他五篇』をご覧ください。