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神山睦美『「還って来た者」の言葉 コロナ禍のなかをいかに生きるか』「はじめに」全文公開

 2021 年10月4日、神山睦美さんの新刊『「還って来た者」の言葉 コロナ禍のなかをいかに生きるか』を刊行いたします。
 本書は、2018年刊の『日本国憲法と本土決戦』に続く評論集です。親鸞の書における「還相」(「往生して仏になったのち、再びこの世にかえって利他教化を働く」を意味する言葉)という概念を契機に、昨今のコロナ禍を生きぬくためのあり方を思想的に探ります。また、2012年に亡くなった吉本隆明、2019年に亡くなった加藤典洋という二人の批評家についての一冊でもあります。〈コロナ問題について、もし吉本さんが生きていたらどう考えるだろう、もし加藤さんが元気だったらどんな言葉を発するだろう……この本が、その思いにこたえるものであってほしいと思います〉と述べる著者の言葉は、前著からさらなる深化を遂げています。
 今回公開するのは、本書のために書き下ろされた「はじめに」です。

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はじめに


束の間の宴の後のクライシス

 新型コロナウィルスの感染が問題になったのは「令和」という元号が定められて一年もたたない時期です。「令和」というのは万葉学者の中西進の考案といわれ、「令月にして、気淑く、風和ぎ」といった言葉から命名されたということですが、いまになってみれば、これと真逆の意味がその裏に隠されていたとさえいえます。

 もともと『万葉集』巻5の梅花の歌33首の序にあるこの言葉は、大宰府で催された宴に寄せられたものとされています。だが、中心となった大伴旅人を、風流を愛でる貴人などと受け取ったら大間違いになります。大伴氏が大和朝廷の東征の中心的役割を果たし、更には太宰府長官に任じられることで、当時の朝鮮情勢の最先端に位置する役割を果たしていたことは梅原猛の著書などで明らかにされているからです。

 藤井貞和は『非戦へ 物語平和論』で『古事記』の歌謡や『万葉集』の狩猟歌などに当時の「戦争」の影が差していることを見逃してはならないといっていますが、この春の宴の歌だって、当時の朝鮮情勢の逼迫を背後に負った束の間の宴でなかったとはいえません。安倍晋三元首相の談話に語られた「令和には人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つという意味が込められております」という受け取りなどはアイロニーとしか思えません。

 むしろ彼こそが、このところの日本を取り巻く戦争情勢をパワーポリティックスの理念のもとにとらえ、いつでもこの理念に国家や国民が依拠できるような体制をつくった中心人物なのです。そう考えるならば、「令和」とはそういう状況を背景にした束の間の宴をあらわす年号ではないかと思われてきます。

 思えば「平成」という年号が、九〇年代の湾岸戦争やソ連邦崩壊、コソボ戦争やウガンダの内戦、更には二〇〇〇年代の9・11テロ事件やイラク戦争を背後に負っていたことは否定できません。日本だけが平和だったなどということはできないので、「平成」から「令和」にかけて日本がこのような戦争状況にいよいよ接近していることはまちがいありません。私たちにできるのは、「令和」の言葉から体制側の意図を消し去って、クライシスのなかの和らぎのようなものを育てていくことではないでしょうか。

 そう思っていた矢先に、新型コロナの感染が世界中に蔓延し、パンデミックが起こりました。これを新しい戦争という向きもありましたが、日本にかぎっていえば、これこそが束の間の宴の後に起こったクライシスだったのです。詩人の来住野恵子は、新型コロナウィルスについて次のように述べていました。

 パンデミックはまさに今が正念場です。最良の意味での「人類」としての行動が求められていると思います。世界的に見て、第二次世界大戦以来の最も深刻な事態であるとはいえ、人間の社会の「戦争」ならば、人間の意志で終わらせることができます。けれど、対ウイルスでは、人間の意志で即時にどうにか出来るものではありません。生物とも非生物ともつかぬ目にも見えないウイルスひとつにこれだけ震撼させられる無力極まりない人間が、何を勘違いしてか万能顔で、人間以外のたくさんの生き物たちも住んでいるこの豊かな懐深い世界に対して、いったい何をしてきたのかを考えます。

 誰もが同じような思いを抱いていると思われるのですが、それでは、このクライシスに際して私たちは何をしたらいいのでしょうか。

「私に触れてはいけない」という言葉

 ヨハネ福音書によれば、復活したイエスは、マグダラのマリアに対して「私に触れてはいけない」と語ったといいます。接触を避けるということが、ウィルスの感染を防ぐ最大の処方といっていいのですが、イエスがそのことについて述べたとは思えません。大澤真幸によれば、幼児が鏡に映る自分の像を認識するのは、母親とさまざまなかたちで接触してきたからだといいます。つまり、「接触」は、人間にとってアイデンティティの根拠なのです。だとするならば、イエスは、「私に触れてはいけない」という言葉の向こうに、何を思い見ていたのでしょうか。

 スラヴォイ・ジジェクは、このイエスの言葉には、「我に触れるな。愛の精神をもって他者に触れ、他者と関わりなさい」(『パンデミック』中村敦子訳)という意味が込められているといいます。コロナ禍は、私たちをばらばらに切り離し、再生できないほどの孤立をもたらしているが、だからこそ、連帯し、協調することがいま求められているといわれます。そういう意味では、感染の危険性を承知で、重症患者の診療に携わる医療従事者の行っていることこそが、連帯と協調をあらわしているといえます。しかし、医療従事者でない私たちは、どうすれば、ジジェクのいう「愛の精神」をもって他者に触れ他者と関わることができるのでしょうか。

「私に触れてはいけない」というイエスの言葉が、復活した後に発せられたものであるということに注意してみましょう。その何日か前、イエスは、十字架の上で、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という言葉を発して息絶えたのでした。この言葉には、神に対する不信の思い、さらには慚愧の念が込められていると取られることがあります。しかし、ジジェクは、そう取りません。そこには、父なる神は、子であるイエスを救うこともできない無力な存在であったのかということについての気づきがあるといいます。そして、復活したイエスとは、そういう神の独り子として、父なる神よりもさらに弱く、無一物の存在としてマグダラのマリアのもとに現れたと考えることができます。

 ですから、ジジェクのいう「愛の精神をもって他者に触れ、他者と関わりなさい」というのは、自分をどのような力も持たない弱き者として、他者の前に立ちなさいということなのです。触れるためには、まず、自分が何者であるかを他者の前で明かさなければなりません。そして、他者と関わるとは、そういう存在として、他者と向き合うということなのです。そこには、たとえ直接触れ合うことができなくとも、こころの最も深いところで交わしあう何かがあるということができます。

 来住野恵子は「生物とも非生物ともつかぬ目にも見えないウイルスひとつにこれだけ震撼させられる無力極まりない人間」と述べています。そうであるならば、むしろ、どのような力も持たない弱き者として、このコロナ禍のなかを生き、そして、見えない多くの他者の前に立ってみてはどうでしょうか。先に述べたように、多くの医療従事者が、すでにそれを行っているといえますが、カミュも『ペスト』において、医師リウーを通してそのようなありかたを描いてみせました。まさにリウーは、みずからの無力をかみしめながら、それにもかかわらず、愛と希望を信じようとしたのです。

 記憶もなく、希望もなく、彼らはただ現在のなかにはまりこんでいた。げんに彼らには、現在しかなかった。特筆すべきことだが、ペストは彼ら全員から、愛の能力と、友情の能力さえも奪ってしまったのだ。なぜなら、愛はいくらかの未来への期待を必要とするものだからだ。しかし、我々にはもはやその瞬間その瞬間しか存在していなかった。(中条省平訳)

 イエスが、マグダラのマリヤに向かって、「私に触れてはいけない」と語ったのは、こういうことではないでしょうか。――ガリラヤでは、大きな災厄のために人々は、愛の能力と、友情の能力さえも奪われている、愛はいくらかの未来への期待を必要とするものだからだ、彼らにはもはやその瞬間瞬間しか存在していない、しかし、彼ら希望を失った人々のもとに行って、あなたたちのためにのみ希望はあたえられていると語りかけなさい、私と同じように、どのような力も持たない弱き者として、彼らに向き合いなさい、と。

【目次】

はじめに

1 吉本隆明・親鸞・西行・ヴェイユ
死を普遍的に歌うということ――吉本隆明と立原道造
なぜ「極悪人」に「救い」があるのか――吉本隆明『最後の親鸞』』を読みながら
「還ってきた者」の言葉
「パラドックス」としての〈共生〉
竹の葉先のかすかな震え
西行の歌の心とは何か――工藤正廣『郷愁 みちのくの西行』
なぜいま絶対非戦論が問題とされなければならないのか――吉本隆明『甦えるヴェイユ』について

2 加藤典洋・村上春樹
「ただの戦争放棄」と「特別な戦争放棄」――加藤典洋の戦後観と『9条入門』
内面の表象から欲望の肯定へ――加藤典洋の村上春樹評価をめぐって
村上春樹の物語の後に
回生の言葉――江田浩司『重吉』
理由なき死――松山愼介評論集

3 大澤真幸・ジジェク・アガンベン・カツェネルソン
コロナ禍のなかでいかに生きるか
負け損をする人々への配慮

証言――あとがきに代えて
覚書
【著者略歴】
(かみやま・むつみ)1947年1月、岩手県生まれ。東京大学教養学部教養学科フランス分科卒。文芸評論家。2011年、『小林秀雄の昭和』で第2回鮎川信夫賞を、2020年、『終わりなき漱石』で第22回小野十三郎賞を受賞。その他の著書に『吉本隆明論考』『二十一世紀の戦争』『大審問官の政治学』『希望のエートス 3・11以後』『日本国憲法と本土決戦』など多数。

 最後までお読みくださり、ありがとうございます。この続きはぜひ、神山睦美『「還って来た者」の言葉 コロナ禍のなかをいかに生きるか』で御覧ください。