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江戸時代の女性俳人・五十嵐浜藻とは?――別所真紀子『浜藻崎陽歌仙帖』

 2019年11月22日、幻戯書房は別所真紀子さんの長篇時代小説『浜藻崎陽歌仙帖(はまもきようかせんちょう)』を刊行します。
 著者の別所さんはこれまで日本の女性文学史を研究・紹介される一方、俳諧をテーマにした時代小説を発表されてきました。今作の主人公は、江戸時代の俳人・五十嵐浜藻(いがらし・はまも。1772‐1848)。父親と共に諸国を行脚して歌仙を巻き、その旅の成果を、作者はすべて女性というユニークな連句集『八重山吹』にまとめ刊行した実在の人物です。
 本書では、旅の始まりの地・長崎(崎陽)を舞台に、実際の歌仙を織り込みつつ、その創成の瞬間を描きます。以下に公開するのは、巻末に収録した資料「五十嵐浜藻の生涯と仕事」から、浜藻と『八重山吹』を紹介する部分。これまでの日本文学史で見過ごされてきた彼女の先駆性、そして俳諧文学の自由とは――?
 どうぞご覧ください。

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別所真紀子「五十嵐浜藻の生涯と仕事」(抜粋)

はじめに

 五十嵐浜藻は、江戸期に於て他に比類のない女性俳諧師であり、ただ一書しか上板しなかったにしても、その俳諧集『八重山吹』はすべて女性ばかりの付合(連句集)であって、これも江戸期俳諧史の中で唯一のものである。
 江戸期の女性俳諧師は数多く、選集も百を超え、諸国を旅した諸九尼、菊舎尼などの仕事も瞠目すべきものであるが、いずれも夫死亡の後に尼となって自由を得たひとばかりで、有夫のまま足掛け五年丸四年以上の諸国行脚の旅を続けた浜藻のようなひとは他にいない。
 そして『八重山吹』は、西国の無名の女性たちばかりと一座して巻いた歌仙半歌仙の集であって、江戸期の男女含めて何千という俳諧集の中でも異色特別のものである。

 しかし浜藻の名も仕事も幕末から維新、明治の富国強兵の時代風潮のうちに埋没して、ほとんど世に知られることがなかった。本来なら女性俳諧史のみならず、文化史社会史的にも特筆されるべきであるのに、長く埋もれたままであったこの『八重山吹』が、2012年に「五十嵐浜藻・梅夫研究会」によって翻刻され、町田市民文学館から出版される運びになったことは、ほんとうに嬉しくありがたいことである。

 なぜ浜藻の名が埋没していたかといえば、『八重山吹』が連句集であったからと思われる。そして連句集であるからこそ、浜藻の仕事はすばらしいのである。

八重山吹

連句集ということ

 江戸期に於ける俳諧集の出版は何千という数に及ぶ(天理図書館綿屋文庫だけでも三千冊を超える)。17世紀末から19世紀にかけて庶民の出版物が何千冊もある国は世界中でも日本だけであろう。宮廷文化のみでなく庶民文化の点でもわたしたちの国は先進国であった。識字率も高かったのは特殊な文芸形式「俳諧」に拠るところが多大である。

 その数多い俳諧集でも付合(連句)集は少ない。まして女性の連句はごく稀少であって、片手で数えられるほどしか版本になってはいない。出版するのに発句集に比べて経済的に不利だからであろう。たとえば連句の一般的な歌仙形式は三十六行。これを発句のみにすれば三十六人載せられ、入花料という掲載料が三十六人分集められる。歌仙は複数の人が一座して巻くのであるが、三人とか四人とかでその三十六行分を負担しなければならない。作品は共同制作であるから宗匠以外の名が有名になることもない。これは現代でも同じである。
 その経済上不利な連句ばかりを、五十嵐梅夫と浜藻父娘は敢えて百数十巻も版木に刻んで上板した。俳諧史上にもそれ以上連句を出版したのは四国の栗田樗堂だけである(一茶も二百数十巻の連句が遺っているが、殆ど死後から近代になって出版されたもの)。

 梅夫、浜藻父娘は当時三大家と称された井上士朗、夏目成美、鈴木道彦と親交があり、成美の書簡集に仙台の大家岩間乙二に宛てた「浜藻は娘道成寺の手をつくし」の一行があるものが遺るので、乙二とも知り合っていた。そういう大家から句を貰って発句集を出版すれば、世にもてはやされたであろうし長くその名が埋没することもなかったかも知れない。にも拘わらず父娘が選んだのは地方の無名人との交流であった。

 父娘にそのような志を持たせた契機は、やはり梅夫の兄で浜藻の伯父である五十嵐家七代目の不慮の死ではないであろうか。人の心の定め難さ、命のはかなさを思い、それだからこそ一座連衆と結ぶ歌仙に、かりそめの乾坤を作り、見知らぬ人とも共に生きる座というものをなつかしく尊いものに思ったのではないだろうか。自分の名声などは考えずいっときの縁を楽しもうと思ったのかも知れない。それが発句集ではなく連句集に向かわせたと推測されるのである。

 しかし、人生の無常を感じたとはいえ、浜藻は大層明るく朗らかな闊達な人柄であったようである。たとえば、

うぐいすや田舎廻りのおちゃっぴい       鶴老
門口や先愛敬のこぼれ梅            一茶

 という五十嵐家を訪れた鶴老、一茶の挨拶句を見ても、笑顔のいい愛敬のある人柄が偲ばれる。「おちゃっぴい」というのは、当時大人気の歌舞伎女形岩井半四郎の扮した町娘をおちゃっぴいと囃し、流行言葉になっていて「口まめ鳥のおちゃっぴい、にくてらしほどかはゆらし」と長唄の文句にある。この時は文化八年と推定されるから浜藻は三十九歳の大年増であるが、ちゃきちゃきの下町娘のような潑溂とした見かけだったのであろう。
 そのような性格でなければ諸国行脚して、男性ばかりの中に紅一点として何十巻もの連句を巻くことはできなかったと思われる。

 女性も加わった連句が版本に載ったのは、芭蕉の指導による去来、凡兆撰『猿蓑』が最初である。俳諧の古今集とも称される『猿蓑』は現代に読んでもすばらしい付合であるが、四季四歌仙のうち「梅若菜」の巻だけは後半付廻しになっていて少し質が落ちると評されている。この巻に智月、羽紅の二人の女人が付句をしている。芭蕉が敢えて質の劣る「梅若菜」の巻を加えたのは、女性が歌仙に参加することの意義を思ったからではないか、と、近世文学者故髙藤武馬氏(元法政大学教授)の論考にある。
 さらに、子どもを一座連衆に加えたのも芭蕉であって、元禄五年三河の太田白雪亭での二歌仙に、白雪の子が桃先、桃後という名を芭蕉に貰って付合をしている。

 連句に「おんな子ども」を参加させる緒口は芭蕉がまず切ったのである。芭蕉最後の歌仙は斯波園女に招かれて巻いた『菊の塵』であるが、版本に女性参加の巻が載ったのは園女に一歩先んじた、肥前田代の寺崎紫白による『菊の道』である。このことは浜藻の『八重山吹』刊行を思い立つひとつの契機であったかも知れない。

旅の成果

 浜藻の名が連句作品に初めて見えるのは、享和元年金令舎鈴木道彦の新邸での半歌仙である。新築祝いの座で二席設けられ、浜藻は江戸に来ていた井上士朗や一茶と堂々の付合をしている。梅夫は成美と別の座であった。
 ここで五十嵐父娘は一茶と相識り、西国行脚の話を聞いたに違いない。一茶は六年に渉る旅を終えて帰ったところであった。
 父娘が西国に旅立つについては、夏目成美の紹介状もあったろうが、一茶にも紹介状を貰ったのではないかと察せられるのは、他の俳諧師が訪れていない小豆島へ行っているからである。『八重山吹』、梅夫撰の『草神楽』とも「天」の巻は長崎で始まっているが、一茶も長崎には逗留している。

 名主の妻である浜藻が夫を家に置いて父親と行脚に出るのは普通のことではない。父娘にしても最初から四年余の長旅を計画していたのではないような気がする。通行手形は半年とか一年とかの期限で出されるもので、父娘も当初は一年ぐらいのつもりだったのではないだろうか。もっとも五十嵐家は名主であるので、飛脚を送って判を押して貰えば延長できるわけであるが(行脚の途中でその土地の名主に貰うこともできた)。

 長崎では、かねてから成美と交信していた久松菊也宅に身を寄せた。この久松家は長崎の町年寄で敷地千三百坪の大邸宅を持つ名家、廻船業であり長崎の古地図にも大きく載っている。札差の成美と廻船業の菊也は商売上の繋がりがあったかも知れない。
 久松家には蔵書も多く、同じ肥前の寺崎紫白撰『菊の道』もあって、浜藻はそれを手にして深い感動を覚えたのではないか。紫白は肥前国田代奈良田庄(現鳥栖市)の奈良田八幡宮宮司寺崎平八の妻。今は佐賀県であるがもとは肥前一国、小さな村の小さな八幡宮の宮司夫妻が共に付合をし、夫が妻を立てて撰集を編ませたことは、俳諧という形式の自由さすばらしさを象徴している。何しろ和歌の長い伝統にも、女性が男性の撰をしたことはなく『菊の道』が本邦初の女性の撰集であるのだ。

 およそ百年前のこの偉業を知ったことと、久松家で菊也の妻佐太女と両吟歌仙を首尾したことが、浜藻を女性ばかりの付合集を作ろうという志に向かわせたと思うのである。そして父梅夫は、その志を完遂させるために旅を延長して応援したのであろう。女性で付合のできるものはごく少なかったから、図らずも丸四年以上の月日を要したのではないか。
『八重山吹 天』の歌仙二巻目は小倉で少女二人との付合である。連句の座に幼ない子どもが加わったものが版本になったのは、芭蕉が桃先、桃後を加えた三河での座以来。浜藻は芭蕉の思想を継いでいるのだ。
 豊前小倉の十三歳のふき女と十歳のりえ女は、おそらく家庭で父母に連句を教わったのであろうが、その両親の名は判らない。出自不明の二人の少女は『八重山吹』のおかげで史上に名が遺ることになった。連句は家庭教育の実践教材としてまことに有効なものである。古今東西、森羅万象を詠みこむことになっているので楽しみながら諸般の知識が豊かになるのである。版本になったものは稀であるにしても、多くの家庭で親子の付合が為されたと思われる。

 五十嵐父娘は長崎に滞在すること三ヶ月、これは飛脚を武蔵大谷村(現町田市)に送って返事が来るまでの日数であろう。浜藻は詞書を一切付けていないのでそれからの旅は『草神楽』と付き合わせて推し測るしかないが、文化四年は九州から中国筋の海側を遡上し、備前笠岡でやはり三ヶ月以上滞在、ここでは笠岡連のよい連衆に恵まれて優れた作品を量産している。殊に『草神楽』に収められた歌仙には、思わず膝を打ちたくなるような付合があるのだ。
 笠岡の女性俳諧師たちはいずれも夫に学んだようで、ふだんは秋の夜長や冬籠りの日々に夫婦で付合をして遊んでいるらしい。ほほえましいことである。

 明けて文化五年の正月十九日には、小豆島に移って歌仙興行、二巻目は六月三日であるので半年間小豆島に滞在したかに見える。『草神楽』では讃岐へも渡っているから、舟で内海沿いの諸方を往来したのであろう。文化七年近江の代官の妻奥村志宇と両吟、このときほぼ撰集のかたちが決まっていて序文を依頼したと思われる。最後の巻は尾張であるが、これは梅夫が『草神楽』の序文を井上士朗に依頼するためであったろう。再度京へ戻って勝田善助書肆に版下を渡し父娘の撰集板行の運びとなり、旅の成果は結実して大谷村へ帰還することができた。

 文化8年に大坂で発行された『正風俳諧名家角力組』という一枚刷りの番付表には、東方の二段目に「濱も女」と入り、西方二段目に志宇の名が見える。これは『八重山吹』の評価といえよう。梅夫は六部の大冊を板行したのに四段目の三十人ばかりの中に細く入っているから、やはり女性撰集という稀少価値が当時大きく評価された証しであろう。そして志宇も『八重山吹』序文の夢物語が異色で、江湖の話題になったものと思われる。
 尚、発行は文化10年であるが『万家人名録』三巻に浜藻の絵姿が入っているのは、文化7年大坂滞留の時に描かせたものであろう。志宇も一枚摺であるが梅夫はここでも見開きに二十人ぐらい並んで一句入れたのみ。絵姿はない。
 梅夫は自分の名を挙げることは思わず、娘の史上初の企てを応援し費用を惜しまなかった。この父あっての娘であった。

波間藻

(『万家人名録』より)

おわりに

 みごとな大きな幟が保存されている南大谷天神社は、五十嵐家の二代目が京都で仏師に天神像を彫らせて勧進したものである。この二代目は歌人であったし、浜藻の曽祖父もまた歌人で、墓碑に和歌が彫られている。そのような文人の家系であったからこそ梅夫、浜藻の志と仕事は成就したのであろう。またその当時町田一帯に学問熱が高まっていたことも『小島日記』(小島日記研究会・小島資料館)などで推察される。内的外的に条件は調っていたとも言えよう。

 ここで私事に渉るけれども、私が浜藻と出会った経緯を書いておきたい。
 1989年(平成元年)、私は『芭蕉にひらかれた俳諧の女性史』(オリジン出版センター刊)を上梓した。その翌年のこと、全く未知の柴桂子さんという方から『江戸期おんな考』創刊号一冊とお手紙を頂いた。不明にも私は知らなかったのだが、柴桂子さんは近世女性史研究家で、日本全国の県立図書館その他を尋ねて江戸期の女性作品を蒐集研究しておられる方であった。
 その柴桂子さんが、私が俳諧を専門にしていると知って、「こんなのがありますが」とコピーを送って下さったのが『八重山吹』であった。女性ばかりの連句集! と私は狂喜してお礼状を書いた。

 連句集というのは実際に連句を巻いた者にしか判らない点がある。俳文学の諸先学はおおむね男性、数少ない女性学者の方も連句をご存知なくて『八重山吹』は長く評価されずに来たと思われる。それからの浜藻研究は『言葉を手にした市井の女たち』(1992年、オリジン出版センター刊)の中に「歌仙百二十巻の旅 五十嵐父娘」と一章を割いて詳述したのでここでは省く。研究書は部数も少なくあまり読んで貰えないので、小説に軸足を移して長篇二冊、短篇二作を収めたもの一冊と、長く浜藻と付き合ってきた。

 ありがたかったのは、平成7年、芭蕉生誕350年、角川書店創業50周年を期して出版された、大冊の『俳文学大辞典』に、編者の故尾形仂先生が「浜藻」と「八重山吹」の項目を立てて私に書かせて下さったことである。それまでの俳諧辞典には載っていなくて、私が『つらつら椿 浜藻歌仙帖』を出版したとき、辞典にはないが実在の人物か、と書評家から問い合わせがあったくらいだった。

 俳諧というと芭蕉、蕪村、一茶など有名な俳諧師ばかり取りあげられるが、五十嵐父娘は地方の無名の庶民たちと共に生きる座を世に顕わそうとしたのであって、その志と思想は尊いものであった。

(町田市民文学館より2012年に発行された『八重山吹』翻刻本への寄稿文を改稿)

 最後までお読みいただき、ありがとうございます。本篇はぜひ、書籍で御覧ください。

【目次】
其の一 青北風
其の二 柘榴膾
其の三 神無月
其の四 枯尾花
其の五 日見峠
附篇「五十嵐浜藻の生涯と仕事」
あとがき
参考資料
五十嵐浜藻年譜